◎日誌

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「愛」について

 私たちの「愛」には二つの側面があるように思う。

 一つは、愛する対象を「ありのまま」に受け容れようとする面であり、もう一つは、相手が「より良く」なれるように手助けしようとする面だ。前者は「愛」の「女性的な側面」であり、後者は「男性的な側面」と言える。

 

 今回は、この「愛」の二つの側面について書いてみたいのだが、そもそも「愛」という言葉は世の中で実に様々な仕方で使われているため、人によってその意味するところがかなり違う場合もある。それゆえ、まず私自身の「愛」の定義について書くところから始めてみようと思う。

 私にとって、「愛」とは「開いている状態」のことだ。これが私自身の「愛の定義」だ。

 おそらく世の中の大半の人たちは、「愛」というものを「具体的な行為」としてイメージする場合が多いと思うが、私は「表に現われている行為」よりも、「それを当人がどういう『状態』でしているか」ということにいつも関心が向く。

 たとえば、もしも誰かが表面的には「愛情深い行為」をしていたとしても、その行為をしている当人が心の底で「恐れ」や「欲望」に支配されていた場合、それを私は「愛」とは呼ばない。なぜなら、「表面に見えるもの」ではなく、「奥底に在るもの」のほうこそが、その人の「真の実態」だと思うからだ。

 

 このように、「行為」よりも「状態」を重視する私の傾向には、私自身が今までダンスや合氣道の稽古を積んできたことも少なからず影響しているように思う。

 ダンスにおいて、「表面的に見える動き」はさして重要ではない。いくら「派手な動き」や「大仰な身振り」をしてみたところで、踊っている当人が内側で何も感じていなければ、それらは「空疎なもの」として観客の目には映る。

 また、踊っている本人もそれは感じる。踊り手自身も、自分が「表面的な動き」で観客の目を欺いているだけで、内実の伴わない「虚しい身振り」を繰り返していることを、心の底ではわかっているものだ。

 観る者の心を揺り動かすには、踊っている人自身の心が必要になる。「何をしているか」ではなく、「どういう心でそれをしているか」ということが大切なのだ。

 

 合氣道では、こういった傾向がさらに強まる。なぜなら、合氣道は「動かないこと」が力となる武道でもあるからだ。

 受けがおもねって技にかかってくれるならいいが、本当に技を体現しようと思ったら、「動き」で誤魔化すことはできず、「状態」を深めるしか方法はない。「相手を動かそう」と思っていくら頑張ったところで、むしろ自分一人だけバタバタと走り回ることになってしまうものだ。「どうやって相手を動かすか」ということよりも、「どういう心で相手と向き合うか」ということが、大切になるのだ。

 合氣道の技は、本来とても静かにおこなわれる。それこそ、「派手な動き」や「大仰な身振り」は必要とされない。表面的に見える動きは最小限で済ませ、内側では絶えず身体や意識の「緻密な操作」をおこなっている。そういう意味で、「真に合氣道的な状態」においては、外から見ると「動き」がないように感じるのだが、内側は非常に活発に動き続けているのだ。

 いや、「動き」続けているというよりも、「働き」続けているといったほうが、実感にも実態にも近いだろう。技において真に必要となるのは、私たちの心身の「働き」であって、「動き」ではないのだ。

 相手の身体に触れると、「外側の動き」だけではわからない「内側の働き」が感じられることがある。たとえば、「物静かにただ立っているだけ」なのに、触ってみるとビクともしない人なども、この世には実際にいるものだ。そこには「然るべき状態」がある。「心身が働き続けている状態」だ。

 心は多くのことを感じており、身体も多くのことを感じている。しかし、この「感じるという働き」によって、「無闇に動かされる」ことはない。むしろ、感じることによって、「自分のほうから」動いていく。それゆえ、自分自身は自由自在に動くことができるが、自分の心身や外側のあれやこれやによって容易に動かされることがないのだ。

 合氣道の技が静かなのは、当人が「必要のない動き」をしていないからだ。「自分から動く」だけで、「動かされること」がないので、ほとんどの動きが必要なくなるのだ。

 合氣道者の内側には「いつでも動ける用意」だけが常に濃密に存在しており、これが一種の「気配」として他者に伝わる。この「内側の状態」が他者に伝わることによって、「外側の動き」をおこなう以前の段階で、相手の戦意を挫いたり心を導いたりすることができる場合もあるが、実際にそれができるかどうかは、「自分の状態がどれだけ深まっているか」ということと、「相手の胆力がどれだけ練れているか」ということによって決まる。「胆力が十分にある相手」を無理やり外から動かすことはできないし、そもそも、それほどまでに自然体に落ち着いている人間を「わざわざ動かす必要」はどこにもない。

 いずれにせよ、「他人の心を挫いたり、操ったりすることが合氣道の真の目的ではない」ということが自覚できない限り、「自分の状態」を深めることが不可能なのは確かだ。

 

 いささか話が脱線したが、私にとって興味があるのは「状態」であって、「行為」ではない。

 言い方を換えれば、「在り方」こそが重要だということだ。そうして「どう在るか」が定まった後にこそ、「具体的に何をするか」といったことや、「どのようにそれをするか」ということが、本当にクリアに見えてくるのだ。

 「愛」においても、私は同じように考える。これまで説明してきたように、私は日頃から、人がしている「表面的な行為」よりも、それらがどのような「状態・在り方」によって支えられているかということのほうを丁寧に観るよう努めているからだ。

 ちなみに、自分自身に対してもそのように観るし、他人に対してもそうしている。そうでなければ、自分のことも他人のことも、本当に理解することはできないからだ。「より深い理解」のためにも、私は「行為」ではなく、いつも「状態」を観ることにしているのだ。

 

 ここでもう一度、上で書いた私自身の「愛の定義」を確認しておく。

 私にとって、「愛」とは「開いている状態」のことだ。それは、自分自身を開け放ち、誰かがそこに立ち入ることを許している「状態」だ。自分のまわりに「壁」を作り出さず、それゆえに、他者の中に深く入っていくこともできる「状態」という風にも言える。

 このような「愛の状態」にある人は、周囲に「壁」を作り出さないがゆえに、自分や他人を深く受け容れることができる。また同時に、あらゆる「壁」を溶かし去ることができるがゆえに、自分や他人の中深くへと入っていくこともできるのだ。

 いま私は、「受け容れること」と「入っていくこと」を並べて書いたが、これらが「愛の二側面」だ。前者が「女性的側面」であり、後者が「男性的側面」と言える。

 

 実際それは、男女の「身体的な構造」においてもそうだ。

 たとえば、女性は自分の中の「扉」を開け放ち、「傷つけられること」を覚悟の上で相手を受け容れない限り、男性と深く交わることができない。男性は、「目の前の壁」を突き抜けて、「傷つけてしまうこと」を恐れずに前進する勇気を持たない限り、女性と深く交わることができない。身体的にそういう「作り」になっている。

 「内側の世界」においても話は同じだ。

 私たちが身体的に男であろうと女であろうと、「内側」では誰もが男性と女性の両方を持っている。私たちは、「外側」においては「単性」だが、「内側」においてはみんな「両性具有」だ。誰もが、「受け容れる力」と「入っていく力」の両方を持っているのだ。

 

 たとえば、自分や他者を「ありのままに受け容れる」ことによって、私たちは「深い理解」の中へと落ちていく。自分や他者が抱える「傷」を理解し、その「恐れ」を理解し、「喜び」や「涙」に共感する。「そうか、君はずっとここにいたんだな」と私たちはただ認め、自分や相手のことを無言で抱きしめる。それは、私たちが「愛」を表現するときの「女性的な仕方」だ。

 反対に、自分や他者の中へと深く入っていき、対象をその根底から変えようとすることも、私たちにはある。たとえば、私たちが抱えている「弱さ」や「卑劣さ」、「怠惰な気持ち」や「恐れ」に負けそうになる傾向などに対して、「それは良くない」ときっぱり告げ、変えられるものを変えていこうと努力することが、私たちにはあるものだ。

 自他の中に存在する「邪なるもの」を退け、私たち自身が内に蔵している「本質」を歪めず伸ばしていくことへの希求が、そこには在る。これもまた、「愛」の表現ではあるが、「男性的な側面」が強く出たものであると言える。

 

 この「愛の二つの側面」は、「外側」だけを見ると正反対のように見える。しかし、深いところでそれらは「一つ」だ。なぜなら、どちらもその根底に「開いている状態」が存在するからこそ、可能になった表現だからだ。

 このように、「愛」は「内側の状態」においては「一つ」なのだが、「外側の世界」において表現されるときには必ず「二つ」に分かれる。「男性的」に表現されるか、「女性的」に表現されるか、どちらかだ。

 「表面」だけを見ると混乱するが、「深いところ」を見ると、それらの一見矛盾した振る舞いが「同じ心」から発しているということが私たちにはわかる。私たちが真に誰かから「愛」されると、「ああ、この人は私のことを本当に大事だと思ってくれているからこそ、こんな風に受け容れてくれるんだ」と感じ、別な時には、「この人は私のことがとても気がかりだからこそ、『いけないこと』はしてはいけないと、真剣に言ってくれているんだ」ということがわかるのだ。

 

 逆もまた然りだ。

 このように、「表面」に出ているものがなんであれ、「奥深く」にあるものが「愛」であれば私たちはそれを感じることができるわけだが、だからこそ、「内側」に抱えているものが「恐れ」や「欲望」である場合にも、私たちの心はちゃんとそれを感じ取っているものなのだ。

 たとえば、「あなたは今のままでいいんだよ」と口では言っていても、その内側に在るのが「何が正しくて何が間違っているのかわからず混乱している状態」だったりすると、私たちにはそれが透けて見える。そういうとき私たちは「相手によってありのままに受け容れられている」のではなく、「相手の中にこちらを受け容れるだけの『心の余裕』が無いために、闇雲に放り出されている」ということが、直感的にわかるのだ。そこに在るのはあくまでも「恐れ」であって、「愛」ではない。

 あるいは、いくら口では「お前のためを想って言っているのだ」と語っていても、心の中で「こちらを困らせることが無いように、相手をコントロールしたい」と思っていたら、そのような「欲望」もちゃんと聞き手には伝わってしまうものだ。

 

 そして、それは相手に対してだけではなく、自分自身に対してもそうだ。私たちは自分の「表現」が、「開いた状態」に基づいているのではなく、「恐れ」や「欲望」に基づいているということを、自分自身に対して完全には隠すことができないのだ。

 私たちは、表面的な意識においては「自分は愛情深い人間だ」と思っていることもあるが、深いところでは、「自分が本当はどんな人間か」を知っている。だからこそ、せめてそのような「自分の現状」に対してだけでも「開いた状態」に至らない限り、私たちは「深い苦悩」を味わうことになるのだ。なぜなら、内側に「恐れ」や「欲望」といった「毒」を抱えているにもかかわらず、そのことについて自分で自分を騙し続けていたら、誰だって息苦しくなって当然だからだ。

 

 それなら、「開いた状態」はいったい何に基づいているのだろうか?

 私たちの「外的な愛の表現」を下支えする「内側の状態としての愛」は、何によって生まれてくるのだろう?

 

 私自身の考えはこうだ。

 それは、「内側の男女の結婚」に基づいている。私たちの「内なる男性」と「内なる女性」がともに支え合い、協力し合うことで、私たちは初めて「外側の世界」に対しても「開いていくこと」が可能になると、私は考えているのだ。

 私たち全員の中に、「男性」と「女性」が両方存在していることについては、既に上で述べた。念のため言い添えると、これは別に「ジェンダーとしての性」のことではない。たとえば、「男と言ったら社会的にこういう格好をして、こういう言葉遣いをするものだ」とか、「女性と言ったら、こういう風に考えて、こういった事柄を好むものだ」とかいったような「社会通念や常識によって規定された性」ではなく、「原理としての性」のことを私はいま語っているつもりだ。

 

 この「原理としての性」は、私たち全員の中に「男性」と「女性」の両方が存在している。

 しかし、私たちの「内なる男性」と「内なる女性」は、必ずしもバランスが取れているわけではない。大抵、どちらか一方が強すぎて、もう片方は弱い。

 「内なる男女」の強弱関係がどうなっているかによって、その人の性格は決まってくるが、あまりにも「両性のアンバランス」が過度になると、私たちは心身全体のバランスを失い、ここから「多種多様な症状」が現われるようになる。

 

 たとえば、「男性性」が強すぎる場合、私たちは「完璧主義」の傾向が強まる。自分に対しても他人に対しても、欠点や失敗を何一つ許すことができなくなり、四六時中イライラして過ごすことになる。これは「女性性」が持っている「受容」の働きが抑えつけられたことの結果だ。

 また、「女性性」が強すぎる場合、私たちは何でもそのまま容認してしまい、「変えられるものを変える努力」を放棄してしまうようになる。自堕落な生活に嵌まり込んで抜け出せなくなったり、誰かが自分や他の人に向かって暴力を振るっていても、「それもまた仕方がない」と最初から諦めてしまって、「逃げること」も「戦うこと」もできなくなってしまったりする。

 

 「内なる性」のどちらか一方が強まれば、こういった「症状」に私たちは悩まされることになるのだが、一方が強いときには、もう片方は必然的に弱まっている。つまり、「男性性が強い」ということは、裏を返せば、「その人の中で女性性が弱まっている」ということでもあるのだ。

 たとえば、「男性性」だけがアンバランスに強まっている人というのは、「外見上」はとても強そうに見える。しかし、その奥底には「敗北することへの恐れ」が渦巻いている。「自分の過失を認めること」を頑なに拒絶し、目についた相手を絶えず言い負かそうとする。これは女性的な「受け容れる勇気」が内側で機能しなくなってしまっている結果だ。

 反対に、「女性性」が強まりすぎると、「男性性」は弱まる。この場合には、「何が正しいか」を自分自身で判断し、自分の責任において「進んでいく道」を選択することができなくなる。これは「未知の中へと進み、変わっていく勇気」を持てなくなっている状態とも言える。つまり、心の中の「冒険家」が死んでしまっているわけだ。

 

 私たちの「内なる男性」、つまり「内なる冒険家」は絶えず「未知の世界」へと踏み出していこうとする。しかし、「冒険家」にもまた、「帰っていく場所」は必要だ。「温かく、慈愛に満ちたスペース」がなければ、「冒険家」もまた、旅先での「苦難」に耐えることは難しくなる。

 私たちの「内なる女性性」は、そのような「純粋なスペース」を作り出してくれる。私たちが「厳しい旅」の中で傷つき倒れたとき、私たちはこの「スペース」の中に入って、ゆったりとリラックスする。この「深い休息」によって私たちの活力は回復し、私たちはもう一度「冒険」に挑戦することができるようになるのだ。

 

 もし私たちが自分の心身を安定させようと思うなら、「外側の世界」においてだけではなく、「内側の世界」において「結婚」しなければならない。むしろ、「内側の結婚」がうまくいっていないなら、「外側の結婚」もうまく維持することはできないものだ。

 実際、「内なる男性」が「内なる女性」を虐げているときには、大抵、「外側の世界」においても夫や妻を無意識に軽んじたり敵視したりしているものだし、「内なる女性」が「内なる男性」を過度に甘やかしているときには、夫の暴力や妻の堕落を私たちは「知らんぷり」して流してしまう。それでは、「外側の結婚」だって、うまくいくわけはない。

 もし「外側」では未婚であったり離婚を経験したりしていても、「内側の結婚」が維持できているなら、その人の心身は安定する。反対に、「内側の結婚」が破綻していたら、遅かれ早かれ「外側の結婚」も破綻するか、あるいは、「結婚生活」がお互いに無関心なまま一緒に暮らしているだけの「形骸」と化してしまうことだろう。

 

 私たちの「愛」は、「内側における愛」が結実することによって初めて「外側」に流れ出す。

 私たちの「内なる男性」が「内なる女性」を守り、「内なる女性」が「内なる男性」を支えることによって、私たちは「外に向かって開く勇気」を持つことができるようになる。

 そのような「開く勇気」を持つより以前には、私たちに「愛」は不可能だ。なぜなら、「内側の愛」が破綻したままでは、「外側の世界」においても、「愛のような外見」を取繕うことしか私たちにはできないからだ。

 そういう意味で、「自己愛」こそが全ての「愛」の基礎となる。「自分の中の愛」が成就しない限り、私たちには他者を「愛」することも、この世界を「愛」することもできはしない。もしも私たちが自分自身に対してさえ「閉じて」いるなら、私たちは「外側」の誰に対しても、「恐れゆえに逃げ出す」か「欲望ゆえに支配しようとする」か、そのどちらかしか選ぶことができないのだ。

 

 「逃げ出す」のでもなく、「支配しようとする」のでもなく、勇気を持ってただ「向き合う」こと。

 それはとても難しいことだ。自分自身に対してさえ、それは難しい。

 しかし、いつまでも「向き合うこと」を避けていては、私たちは「真実」であることができない。「真実」を曇らせ、「偽り」に取巻かれてしまう。そして、「何が自分にとって本当に大切なのか」を、私たちは見失ってしまうのだ。

 

 もちろん、「何が自分にとって大切なのか」を見失ったままでも、私たちは生きていくことができる。あるいは、「死なないでいることができる」と言ったほうがより正確かもしれない。なぜならそれは、「外側の世界」が与えてくれる無数の「偽り」によって、自分の心を誤魔化し続けることで、「退屈な日々」を騙し騙し延長しているだけに過ぎないからだ。

 しかし、「そのような生き方」に耐えられなくなる日がいつか必ずやってくる。少なくとも、「自分の死」がすぐ目の前までやって来たときには、深く後悔することになるだろう。なぜなら、そのとき当人は、「自分はいたずらに人生を浪費してしまった」ということを、悟るしかなくなってしまうからだ。

 

 「自分にとって大切なものを守る生き方」というのは、決して楽なものではない。

 なぜなら、もし私たちが「本当に大切なもの」を守ろうとするなら、私たちは無数の「闘い」をくぐり抜けなければならないし、周囲の誤解や無理解に対しても黙って耐えねばならないことが多いからだ。

 それでも、「自分の心で選んだ道」には、歩くだけの「価値」がある。誰もそれを認めてくれなくても構わない。「泥臭い孤軍奮闘」に気づいている人がどこにもいないように思えても、見ている人はちゃんとそういう努力を見ているものだし、なにより、自分自身が知っている。「自分はまだ『大事なもの』を捨ててはいない」と、私たちはただ静かに知っていることができるのだ。

 

 そこには、「本物の誇り」と、「深い納得」とが在る。そして、それらは「安楽な道」を私たちが探し始めたとき、真っ先になくしてしまうものだ。

 「誇り」を失わないこと。「納得」とともに生きること。

 それはとても「難しい」。なぜなら、「楽な方法」がどこにも存在しないからだ。

 「誇りを胸に、納得して生きる方法」は、人の数だけ存在する。全ての人が、「自分なりの答え」を既に内側に持っているからだ。しかし、その中に一つとして「楽なもの」は無いのだ。

 そして、だからこそ、「歩くこと」は素晴らしいのだ。私たちは、「困難な道」を歩くことによって少しずつ強くなっていく。転んでは立ち上がる度に、何かを学んで成長していく。

 「そのような歩み」の中にこそ、「自分の命が正しく使われている」という実感は宿るものだ。

 

 「納得とともに生きる」というのは、「自分自身の人生を愛する」ということでもある。しかし、これこそ本当に難しいことだと私は思う。なぜなら、私たちの人生には「不平等」が溢れかえっているからだ。

 「持っていないもの」や「与えられていないもの」が、私たちにはたくさんある。生まれつき何らかの障害を負っていたり、家庭環境に恵まれなかったりすることも、そう珍しくはない。「想像を絶すような『辛い状況』に置かれている人」が、いつもどこかで生きている。この世界は残酷なまでにとことん「不平等」だからだ。

 

 しかし、そのような「不平等」にさらされながらも、私たちはなんとかして「自分の足」で立とうと奮闘する。「持っていないもの」や「与えられなかったもの」については、それを「事実」としてただ受け容れ、「たまたま持っていたもの」や「かろうじて残ってくれていたもの」を頼りに、「変えられること」は変える努力をするのだ。

 そして、それこそが、自分の人生に対する「愛の態度」だ。

 もちろん、そのような態度を体現することは、人によっては、不可能に思えるほど難しく感じることもあると思う。それでも、「自分自身を救う道」は他に無いと、私は思っている。

 

 私自身は、とても恵まれた人生を歩んできたと自分では思っている。

 もちろん、何度か「とても痛い想い」をしたこともあるし、「苦しみ」の中でもがいたこともあった。それでも、客観的に言って、私自身はとても恵まれていたように思う。

 そして、だからこそ、私の「愛」はまだ浅いのだ。私は、傷ついている人や、深い苦しみを味わっている人を前にしても、「相手の深さまで届かない」と感じることがよくある。私自身が「浅い」がゆえに、どうしても「相手にとって必要なもの」を私には届けることができないのだ。

 

 ここで私が言う「相手にとって必要なもの」こそが、「愛」だ。

 人々と向き合うことを通じて、私は自分の「愛」がどれほど未熟であるか、いつも痛感する。深い無力感に襲われることもある。

 それでも私は、自分自身の日々の実践や、多くの人々とのかかわりを通じて、少しずつ自分を深めることができたようにも思う。全てが「無駄」だったわけでは決してない。

 ただ、それでも「まだまだ足りない」のだ。

 

 たまたま「恵まれた人生」を与えられた私にできることは、「もっと自分を深めること」だと私自身は思っている。せっかく「たくさんのもの」を与えられているのだから、不平不満ばかり言ってはいられない。

 私は、もっと自分を愛したい。そして、そこから溢れるものをこそ、誰かと一緒に分かち合いたい。

 それが私の願いなのだが、なかなか難しい。

 しかし、私なんかより「もっと難しい状況」で、「自分の愛」を実践し続けた人々がこの世にたくさんいたことを、私は知っている。彼らの「愛」がこの世界に溶けていることを、私はいつも感じるのだ。

 私に、「愛とは何か」を伝えてくれた人たちがいた。だから、今度は「私の番」なのだ。

 

 「受け容れること」と「努力すること」。

 その二つが、一つに結びあわされるとき、私たちの中で「愛」は花開き、「成熟」が起こる。

 そうして私たちはまた一歩「大人」になる。それはとても「歩くのに骨の折れる道」ではあるが、私は「歩み」を止めるつもりはない。

 なぜなら、もしも私が止まったら、そのとき私は、受けた「恩」に報いることができなくなってしまうからだ。

 

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