◎日誌

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「喜び」を選択する

 今週、私より一回りほど年の若い男性が、隣の県の広島から自転車(自動車ではなく)でうちの道場を訪れた。数日かけて旅をしながら、私の自宅までやってきたとのこと。すごいガッツと行動力だ。

 

 その人は、私が書いた文章の中に自分の経験と重なる部分を見出したらしく、どんな人なのか実際に会って話をしたかったと言う。

 話をいろいろと聞いていくうちに、彼は自分の人生に不安や行き詰まりを感じていて、これからどうしたらいいのか模索しているらしいことがわかってきた。彼としては「自分と似たような人生経験」を経てきたように思えた私に会って、何かしらの「ヒント」を得たかったのかもしれない。

 

 彼は「道」に迷っているようには見えたが、「帰るべき場所」は既に見出しているように思えた。

 たとえば、少年時代にどんなことを純粋に「楽しい」と感じていたか、彼は覚えていた。そして、その「理屈抜きの楽しさ」を青年期を通して徐々に見失っていったことも自覚できていた。また、最近の生活の中で、どんな時に再び「楽しさ」が蘇って感じられたかということも、彼は非常に活き活きと語ってくれたのだ。

 

 「彼の答え」は彼の中に在る。「私の在り方」はしょせん「ヒント」程度になるだけで、「答え」にはならないし、むしろ「答えになってはならない」とも思う。

 大事なことは、どうやって埋もれてしまった「原初の体験」を彼の中から掘り起こすかだ。

 自分が本当に自分らしく在れた瞬間。何もかもが一繋がりで、何の不安も無かった体感。

 それらは、いつの間にか忘れられてしまってホコリを被ってはいるが、決してなくなることはない。もしも思い出そうとするなら、私たちはいつでも「そこ」へ帰っていくことができる。

 「他人の正解」に合わせる必要などない。何をしている時に内側が温かく満ちるのか、ただそれだけを丁寧に感じるよう努めればいいのだ。

 

 「自分自身を深く満たす何か」に従事している時、私たちの内側から「大きな力」が湧いてくる。「自分の源泉」に繋がる感覚がそこには在る。心身に活力が満ちてきて、多少の困難にぶつかっても「やってやるぞ」という気持ちが出てくるのだ。

 だが、もしもこの「源泉」の助けを得られなければ、人生を生きていくことは時として非常に辛く苦しいこととなる。

 もっと正確に言えば、生きることそのものが「無意味な苦役」に感じられてくる。「これ以上、こんな生き方を続けて、いったい何になるのだろう?」という空虚感によって心身が蝕まれていってしまうのだ。

 

 私たちは、往々にして「人生の意味」や「努力した分の報酬」を未来に求める傾向がある。「いつかきっと『答え』が開示されるだろう」とか、「いつの日にか頑張った分の『報い』があるだろう」と期待するのだ。

 しかし、「明日」のことは誰にもわからない。今夜目を閉じて眠ったら、もう二度と目覚めないかもしれないのだから。

 

 「深い喜び」のただなかにいる時に、私たちは「未来」を忘れる。「今この瞬間に体験している喜び」だけで、「報酬」としては十分すぎるので、「いつの日か」なんて考えもしない。

 それ以上何かを期待したりねだったりすることなく、ただ「現に在る喜び」に対する感謝の念だけが、ゆっくりと広がっていくのだ。

 

 もちろん、その翌日になって「昨日と同じ喜びを味わいたい」と期待してねだり始めれば、当人はもう「今ここ」にはいられなくなる。またしても「喜びの瞬間」は「いつかやってくる未来」に延期されてしまい、いつまで経っても決してやってこない。

 そして、どれだけ頑張っても「報酬」がやってこないものだから、ますます「欲望」が強くなり、余計に「喜び」は遠ざかっていくこととなる。

 

 実際、「喜び」というのは稀有なものだ。しかしそれは、私たちがあまりにも「貪欲」で、「未来」に多くのことを期待しすぎているからに過ぎない。

 「欲望」が消えれば、「喜び」はもうそこに在る。何の強制も必要とせず、自然とそれは湧いてくる。そういう意味で、「喜び」は私たちの本性だ。

 対して、「苦悩」は私たちの本性では無い。それはむしろ、私たちが「自分の源泉」との接触を失ってしまっていることを示すサインなのだ。

 

 もしも私たちが「自分自身」に定まれば、「喜び」は必定だ。私たちは、最初からそうなるようにできているのだ。

 だが、もしも私たちが「自分自身」に背くような生き方を続けるならば、「苦悩」こそが必定だ。他人の評価を気にして、地位や権力にしがみついて、「本当にしたいこと」や「本当は言いたいこと」を抑え込んでいると、当人は遠からず深い「苦悩」に囚われる。なぜなら、そのような生き方を続けていては、いったい何のために生きているのかわからなくなってしまうからだ。

 

 この世の誰も「他人の期待を満たすためのロボット」になるために生まれてはこない。誰もが、「自分自身」を満たすために生きることを心の底では望んでいる。

 だが、「自分の本性」を尊重し、これを優先するには勇気が要る。なぜなら、「自分の本性」は他の誰とも似ておらず、「世間の常識」や「一般的な価値観」にそぐわない場合も少なくはないからだ。

 

 実際、「無個性なロボット」でいるために勇気は要らない。ただ「鈍感さ」が必要なだけだ。

 しかし、「個性を持った人間」で在るためには勇気が要る。時として「人の流れ」に逆らい、「常識」からはみ出すことになるかもしれない。たとえそうなっても、「自分の喜び」を尊重できるかどうか、「自分の本性」への畏敬の念を持ち続けられるかどうかだ。

 

 何もかもが不確実なこの世界で生きている以上、「不安」や「恐れ」はいつも私たちに付きまとう。「苦悩」に囚われていると、こういった「不安」や「恐れ」によって私たちは容易に押しつぶされてしまう。

 だが、「自分の本性」に根ざした生き方は、私たちに「闘う力」を与えてくれる。「不安」や「恐れ」に押しつぶされることなく、むしろそれらを「負荷」として利用し、より強くなっていくことさえできる。

 反対に、「自分の本性」を見失った生き方を続けていると、当人の「闘う力」は萎えて育たなくなる。なぜなら、「別にやりたいと思っていないこと」をしている時、私たちは必ず「自分の力」を使い惜しむようになるからだ。

 

 「力」というのは、とことん使い切って初めて「自分のもの」になる。労力を惜しみ、手間を省こうとしてばかりいると、いつまで経っても「力」は育ってこないものだ。

 だが、「やりたくないこと」をしている時には、労力を惜しみ、手間を省きたくなって当たり前だ。だからこそ、「やりたいこと」を見つけるのが肝要なのだ。

 

 心から「やりたい」と思っていることならば、多少の骨折りなんて気にならないし、むしろいくらでも手間をかけたくなるものだ。そうであれば、「力」も自然と伸びてくるだろう。

 面白いことに、私たちに潜在している「力」というのは、お金と違って、使えば使うほど増えていくものなのだ。

 

 もちろん、「自分はいったい何をしたいのだろう?」と自問してみても、ほとんどの人は、すぐに「答え」が出るわけではない。

 しかし、この問いを避けたまま、「不安」や「恐れ」に立ち向かうことはできない。なぜなら、「自分の本性」からの助力を得ずに、内側で常時渦巻く「不安」や「恐れ」と対峙することは非常に難しいからだ。

 

 もしも強くなりたいならば、「自分の喜び」を見つけることだ。

 「喜び」に深く根付いたならば、自分自身でもビックリするくらいの「活力」が湧いてくることに、きっとその人は気づくだろう。

 

 「幸せな人間」というのは、いつだって「強い」ものなのだ。

 

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