◎日誌

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「服従する自由」について

 私は、「罪悪感」には二つの種類があると思っている。 

 一つは、「他人の期待」に背くようなことをしたり、社会的に推奨されている「道徳的な在り方」から逸れていったりするときに感じるものだ。

 と、私はここで「他人の期待」と「社会的な道徳」とを並べて書いたけれども、実際には、その二つは「別のもの」というよりも、「同じ一つのもの」の異なる呼び名に過ぎない。

 特に日本ではそういった傾向が強いと思うのだが、「他人の期待」を裏切ることが、何か「人としてやってはいけないこと」ででもあるかのように考えているところが、私たちにはある。だが、そのように私たちが感じてしまう「原因」をよくよく探ってみると、「お前のやっていることは『道徳的』に間違っている」という言い方によって、絶えず他人をコントロールしようとする、私たちの根深い「欲望」が見つかる。つまり、私たちは「他人のために生きるのが、『人として正しい生き方』だ」という教えを他人に向かって説くことによって、遠回しに、「だから、まずお前はこの私の『期待』を満たすように生きる義務がある」とお互いに命令し合っているのだ。

 

 私たちの多くは、幼い頃に、そのような「命令の仕方」を周囲の大人達から学習する。「お前は私たちの『期待』を満たさなければならない。それができなければ、お前は『悪い子』だ」と大人達は言う。

 もちろん、実際にはこれほど真っ正直に「私の『期待』を満たせ」と子どもに向かって言う大人は、ほぼいない。多くの場合それは、たとえば「他人の気持ちになって考えましょう」とか「こんなところでそういうことをしてはいけません」とかいった、いかにも「子どものための躾け」のような言葉遣いで語られるものだ。そんな風に、「あなたのためを想って言っているのだ」と表面的には装いながら、奥深いところでは「私の言うことを聞け」と告げることが、私たちにはよくある。

 そして、幼い子どもにはそれがちゃんとわかる。自分は「受け容れられている」のではなく、「大人にとって都合のいいように操られかけている」ということが、子どもには直感的に理解できてしまうのだ。

 だから、子ども達は「道徳的なお説教」というものをひどく嫌う。「大人が本当に言いたいこと」は、「黙って言うことを聞け」ということなのに、それが「愛」の名の下に押しつけられることになるのだから、子ども達がこれを不快に感じないわけがないだろう。

 

 しかし、幼い子どもには、そのような大人の「矛盾した言動」に逆らう術が、まだ無い。なぜなら、あまりにも生物として弱いからだ。

 生まれたばかりの頃、私たちはまったく「無力な状態」にある。私たち人間ほど「無力な状態」で生まれてくる生物は他にいない。

 赤ん坊の時、私たちはなんでも他人に頼らねばならない。食べ物はもちろん、身体の世話も、心を満たす愛情も、すべてを外側から与えてもらわないと、文字通り、生きていけない。しかし、それだけ一切合切を外側に求めながら、赤ん坊はそれらの「贈り物」に対して何も返すことができない。なぜなら、彼らはまだたった一つのものしか持っていないからだ。それはつまり、彼らが「新鮮な命として現に生きている」という事実だ。

 

 赤ん坊は、私たち大人が失ってしまった「無垢な純真さ」を常に全身で放射しながら生きている。だからこそ、彼らのすることは全てが「全身全霊」だ。まだ生物としては脆弱ながらも、その命を余すところなく発揮して生きている。 

 このような「全身全霊の在り方」を私たち大人の前で見せてくれるということが、彼らにできる唯一の「お返し」だ。実際、彼らが見せる「嘘のない喜怒哀楽」は、大人達に「失った何か」を思い出させてくれる。それによって大人の側は、まるで自分まで子どもの頃に返ったような「新鮮な気分」になることもあるし、目の前の「脆弱な命」を守りたいという想いによって胸の内が豊かに満ちることもあるのだ。

 

 しかし、大人達は、時としてこの赤ん坊からの「お返し」をうっとおしがる。なぜなら、「全身全霊の人間」というのは、「他人からのコントロール」をしばしば拒むからだ。

 たとえば、私たちが「泣いて欲しくない」と思っているときに、赤ん坊はしばしば泣く。「泣き止ませよう」と思って、大人が懸命にあれやこれやしても、一向に泣き止む気配が見られないこともある。それで私たちは「なんて聞き分けのない『悪い子』だろう」と思って、赤ん坊に与える「愛情」や「気遣い」を、無意識に減らしてしまうことが非常に多い。

 そして、そういうことが何度も繰り返された結果として、その子はやがて「大人の『期待』に背くこと」をしたときに、自分を反射的に罪悪視するような「習慣」を心の中に根付かせていくことになるのだ。

 だが実際には、赤ん坊は別に「大人を困らせてやろう」という意図を持って、そんな風に泣いているわけではない。なにか大人には理解しにくい「本人なりの不快感」によって、泣いているだけだ。そして、それこそが、彼らの命の「表現」なのだ。

 

 私たち大人は、赤ん坊のようにはなかなか泣けない。私たちは非常に多くのことを我慢していて、「涙」を呑み込んだまま生きている。というのも、幼い頃からそう「命令」されてきたからだ。まさに生まれた直後から「そんな風に泣いて自分たちのことを困らせるな」と言われ続け、あるいは、無言のまま態度でそれを示されてきたので、私たちはたとえ泣きたいことがあっても、それを無意識に自分の中へと抑え込むようになってしまっている。

 でも、ときどき「もう無理だ!」というくらいにまで「涙」が内側で溜まってくると、私たち大人も泣くことがある。そういうときは、まるでもう一度赤ん坊に戻ってしまったかのように、泣いても泣いても「涙」が出てくる。胸が裂けそうなほど嗚咽したり、喉が裂けそうなほど泣き叫んだりすることが、私たち大人にもあるものだ。

 誰か「受容的な人」の胸を借りて泣くこともあれば、独りきりでどこかに閉じ籠もって一晩中泣き続けることもある。ただ、いずれの場合も、泣いた後に私たちはどこかスッキリした気分になっている。内側に溜まっていた「何か」が、「涙」と共に流れ出て、私たちは「新鮮な気持ち」で、夜明けの空を見る。そうして、「ああ、何だかまた生きていけそうだ」と思えるくらい「肯定的な気持ち」に、自然となれるのだ。

 赤ん坊は、それを毎日しているのだと、私は思う。そうでもしないと、赤ん坊に限らず私たち大人もまた、「新鮮な心」を保って生きていくことが難しくなってしまうだろう。「思いきり泣く」ということは、そういう意味で、私たちがより活き活きと生きる上で大いに役に立つ「儀式」と言える。

 

 ところで、そもそもこの世界は、基本的に私たちに対して「無関心」だ。世界は、誰の「期待」にも応えてはいない。それはただ「在る」だけだ。

 だから、ときとして、「自分がこの世界に生まれてきたのは、『間違っていた』のではないか?」と感じることが、私たちにはある。なぜなら、この世界は私たちのことをちっとも必要としていないように感じられるからだ。

 そして、それは紛れもない「事実」だ。私たちは別にこの世界に必要ではない。「私」が死んでも「あなた」が死んでも、世界は痛くも痒くもないのだ。

 そのことを、私たちはときどき感じて、「あんまりだ」と思う。なぜなら、母親のお腹の中にいたときは、このような「無関心」に苛まれることなどなかったからだ。母親の胎内では、常にヘソの緒から「必要なもの」が全て与えられた。足りないものはなく、栄養の供給が遅れることもなかった。私たちが「欲しい」と望む前に、全てが与えられていたのだ。

 しかし、お腹の中から出てきたら、なにもかもが変わってしまう。もはや自分の力で呼吸をしなければ、数分の間さえ生きていることができない。そして、「欲しい」と思ったものをすぐに大人達に与えてもらえるとも限らない。大人の側にも「都合」というものがあるからだ。

 

 「大人達を始めとして、この世界は自分の『期待』に必ずしも応えてはくれない」ということを、私たちはこんな具合に赤ん坊の頃から何度も何度も経験する。それで、ときに私たちはすっかりいじけてしまう。「できることなら、もう一度、母親のお腹の中に戻りたい」と想うこともある。

 もちろんそれは無理なので、私たちは世界の代わりに自分の「期待」に応えてくれる誰かを、求め始めることになる。つまり、もし私たちがこの世界の「大いなる無関心」に耐えられなくなると、遅かれ早かれ私たちは、「こちらの『期待』に応えて、駆けずり回ってくれる他人」を求めるようになっていくのだ。

 私たちが他人に命令をしたり、無理やり言うことを聞かせたくなったりするのは、このためだと、私は思っている。つまり、「世界の無関心」にさらされながら生きることが耐えがたくなったときに、私たちは「他人からの関心」を代用品にして自分のことを支えようとするものなのだ。

 たとえば、私たちは他人の中にある「恐れ」を刺激することによって、相手をコントロールしようとすることがよくある。そうして、相手が思わず「この人の言うことを聞かなければ」という気分になるよう仕向けることによって、私たちはその人を「自分のための食物」へと変えてしまう。つまり、「怯えている他人」をこづき回すことを通じて、「世界は私の言うことを聞かない。でも、目の前のこの人だけは、自分の言うことを聞いてくれる」という慰めを、私たちは「食べる」ことができるようになるのだ。

 

 私たちにとって、「生きること」は恐ろしい。なぜなら、この世界は私たちの「生存」にまったく興味を持っていないし、私たちが快適に生きていけるように取り計らってもくれないからだ。

 それにもかかわらず、私たちは生きていく。だから、恐い。「それは当然のことだ」と、私は思う。なぜなら、この世界は「海」のように大きいのに、私たちは「ほんの一滴の雫」に過ぎないからだ。「一滴の雫」はちょっとした風の加減で、簡単に蒸発してしまう。そして、仮にこの世の「雫」がいくつか蒸発してしまったとしても、「海」のほうはそのことにきっと気づきもしないだろう。

 

 しかし、もし私たちがそのような「生の不確かさ」に対する恐れに支配されてしまうと、遠からず、私たちは他人によっても支配されることになる。その理由は、ついさっき上でも書いたように、他人は往々にして「こちらの恐れ」を刺激することで、私たちを支配しようとするものだからだ。

 ここには「恐れている人間」しかいない。「この世界で生きることを恐れて、他人を支配しようとする人間」と、「生きることに対する恐れに支配されてしまった結果として、他人に利用され続ける人間」だ。

 「自分の中の恐れ」ゆえに、他人を支配することを自制できない。あるいは、「自分の中の恐れ」ゆえに、他人からの支配を拒めない。そのどちらも、「恐れている」という点では違いがないのだ。

 もし他人を支配することを止めたら、私たちは「自分の恐れ」と直面するしかなくなる。というのも、支配を止めることによって、「自分の恐れ」を誤魔化すためにこづき回すことのできる他人が、一人もいなくなってしまうからだ。

 また、もしも他人からの支配を拒んだら、私たちは「恐れ」のただ中に、「独りぼっち」で取り残されることになる。他人からの支配を拒絶する者は、「そんな風に言うことを聞かないのだったら、お前は独りで生きていけ」と見捨てられてしまうことになるからだ。

 

 この「独りぼっちになることへの恐れ」のために、私たちは「支配」と「服従」という二つの極点を、何度も行ったり来たりすることになる。そして、それゆえに、絶えず苦悩する。

 なぜなら、この世の誰も「外から完全に支配すること」などできはしないし、「他人に服従すること」によって満足するような人間も一人として存在しないからだ。

 すべての人が「個」としての生を生きている。それを外側から完全に支配しようと思っても、決して成功することはない。せいぜい「表面的に従順な振り」を強要することができるくらいだ。

 また、「他人の奴隷」として生きることで満足できる人間もどこにもいない。たとえ「服従」によって他人から保護してもらえたとしても、深いところで私たちは必ず欲求不満になる。なぜなら、せっかくの「自分の人生」を「他人への服従」によっていたずらに浪費していることが、私たちには自分でわかってしまうからだ。

 

 「支配すること」も「服従すること」も、最終的には「不安」へと行き着く。

 「完璧に支配できる人間」がどこにもいないために、私たちはもっと強引に他人を支配しようと躍起になる。しかし、どれだけ努力しても、その試みは成功しない。そして、この「支配のための絶え間ない努力」によって、本人はくつろぐことも、安らぐこともできなくなってしまう。

 また、どれだけ他人に「服従」しても、何かの気紛れで相手に見捨てられる可能性が常に在る。それゆえ、「服従」すればするほど、「独りぼっちにされること」への「不安」が内側で大きくなっていき、私たちを苦悩させることになるのだ。

 

 話は戻るが、私たちの「罪悪感」には二つの種類がある。

 一つは、「『他人の期待』に背くときに感じるもの」だと、既に述べた。そして、それは私たちが後天的に学習した「パターン」に過ぎない。それは、「私の言う通りにしたらお前のことを守ってやろう」と言って「嘘」をつく大人達に、私たちが何度も「服従」し続けた結果として身についてしまった、一種の「心の癖」みたいなものだ。

 実際、このような「服従への熱望」や「不服従に対する罪悪感」は、生まれたばかりの頃の赤ん坊にはまったく見られない。これは紛れもなく、後から私たちに無理やり付け加えられたものと言える。

 

 私は、「罪悪感」にはもう一つ種類があると思う。

 それは、「他人」ではなく、「自己に対する罪悪感」だ。

 たとえば、私たちが「自分の恐れ」から誰かを支配しようとしたり、他人に支配されることを望んだりするとき、内側で囁くものがある。「自分の恐れ」から逃げるために、「支配と服従」という人間関係を利用しているとき、「あなたは本当にそれでいいのか?」と囁く声が、内側から聞こえてくることが私たちにはあるのだ。

 「支配すること」も「服従すること」も、「他人を食物のように利用する」という意味では、等しく「卑しいこと」だ。そして、なぜかはわからないが、私たちの中には「『卑しいこと』をしたくない」という欲求が元々備わっている。あるいはこれも、「他人から後天的に学習したもの」なのかもしれないが、「卑しいこと」をしているとき、私たちは「自分は自分を裏切っている」と内側で感じ、苦しむものなのだ。

 

 この世界は私たちに対してあまりのも「無関心」だ。それゆえに、私たちはときとして「生きること」を恐れる。しかし同時に、そのような「無関心」を、ありのままに受け容れようとする心も、私たちは持っている。

 

 『世界や他人が「無関心」であったとしても、そんなのは知ったことではない。たとえ全ての人が、私のことを忘れ去っても構わない。それでも、私は現に生きているのだ。今ここで息をして、生きているのだ』

 

 そのように言えるようになったとき、私たちは「支配」と「服従」の両方から抜け出る。そして、他の誰のものでもない「自分自身の生」を生きるようになる。「世界の無関心」と「生の不確かさ」を「単なる事実」として受け容れて、目の前の「今日」を、ただ生きるようになるのだ。

 

 「そのような生き方を今の自分はできていない」という自覚が、「罪悪感」を生み出す。

 それは「他人に背くことによって生じる罪悪感」ではなく、「自分に背くことによって生じる罪悪感」だ。そこには、「自分の中にある『可能性』を、自分はまだ花開かせることができていない」という「無力感」や、「自分は全ての他人を『食物』として利用することしかできない」ということへの「恥の感覚」が存在している。こういうとき、「自分は、『自分自身に誇れる生き方』を、今この瞬間していない」ということを、一種の「屈辱」として本人は感じるのだ。

 そういう意味で、「支配」や「服従」へと繋がっていく「一つ目の罪悪感」は私たちの「恐れ」に基づいており、「『支配』と『服従』の連鎖」から抜け出すことができないがゆえに生じる「二つ目の罪悪感」は、私たちの「誇り」と深い関係があると言えるだろう。

 

 私は、自分や他人について考えるとき、この二つの「罪悪感」をいつも区別して観るようにしている。そして、どうやったら自分や相手が「他人への罪悪感」に囚われることなく、「自分への罪悪感」と向き合えるようになるのかを、いろいろと工夫する。というのも、「他人への罪悪感」はしょせん私たちの「恐れ」によって作り出された単なる「虚像」に過ぎないし、私たちが「他人への罪悪感」から抜け出して成長していくためには、「自分への罪悪感」ととことん直面するしかないと、私は知っているからだ。

 「虚像」は、私たち自身が「そんなものはもともと実体のない『陰』に過ぎない」と見定めれば、消える。そして、そのとき、もっと奥にあった「本物」が出てくる。「陰」にすがることで私たちが逃げ続けていた「自分の真実」が現れるのだ。

 その「真実」をちゃんと直視しない限り、私たちはいつまでも前に進むことができない。どこまでいっても「支配するか、服従するか」という二者択一の「地獄」から抜け出すことができなくなって、苦しみ続けることになる。

 

 しかし、そのような「支配と服従のシーソー・ゲーム」から抜け出すのには勇気が要る。なぜなら、「支配」と「服従」の両方から抜け出すためには、「全ての責任は自分に在る」ということを、私たちは認めなければならないからだ。

 「他人を支配したくなる」のも「他人に服従したくなる」のも、同じコインの裏と表、つまり、「自分の恐れに対する服従」がひっくり返ったものに過ぎない。言い換えれば、「自分より弱い人間をこづき回す」のも「自分より強い人間に媚びへつらう」のも、どちらも「自分の恐れに負けた人間」の取る選択であるということだ。

 

 だが、私たちには常に「もう一つの選択肢」が残されている。それが、「自分の恐れ」に屈服することに、あくまでも抵抗するという在り方だ。

 たとえどれほど他人が私たちを恐れさせようと、私たちは、「自分の恐れに抵抗する自由」を、必ず内側に持っているものだ。「恐れ」がどれほど私たちのことを取り囲んでいても、その声に従うかどうかは、最終的には「本人次第」ということなのだ。

 しかし、もし私たちが「これだけのことをされたら、恐れて自分を曲げるのも仕方ない」という言い訳を採用するなら、私たちは、この「自由」を自分から進んで放棄することになる。

 もちろん、「自由を捨てるかどうか」もまた、「本人の自由」だ。または、他人から「自由を捨ててはいけない」と「命令」されても、私たちは「その命令を拒否する自由」を、いつも内側に持っている。

 

 そして、だからこそ、私たち人間はどこまでも誇り高くもなれれば、どこまでも卑しくもなれるのだ。なぜなら、それらの一切が、完全に「本人の選択」だからだ。

 究極的には、私たち自身に対して他人は何も強要できない。他人にできるのは「脅すこと」だけだ。たとえ脅されても屈しない人間は屈しないし、反対に、脅される前に自分のほうから奴隷になろうとする人も世の中には大勢いるものだ。

 「自分の人生」をどう生きるかは、いつも「その人自身の選択」にかかっている。「偉大な人間」が偉大なのは、「偉大な振る舞いをしないこと」が無限に可能であったのに、本人がそれを潔しとしなかったからだ。もし他人からそうするように奨励されて、きっちり保護された状況で善行を積んだだけだとしたら、その人のことを世の人々は「聖者」と呼ぶかもしれないが、きっと誰も後々まで彼/彼女のこと覚えてはいないだろう。

 

 たとえば、約2400年前のギリシャにおいて、ソクラテスは「アテナイの若者を道徳的に堕落させた」という理由で、処刑された。しかし、それは単なる名目に過ぎない。実際には、ソクラテスが当時の識者や権力者達の無知を公然と暴いてしまったために、「恥をかかされた」と逆恨みした人々の手で彼は民主的に殺されたのだった。自分たちの無知を暴き続けるソクラテスが、アテナイの権力者達はうっとうしくて仕方なかったのだろう。

 ソクラテスはもっと卑しく生きることもできたが、そうしなかった。たとえば、ソクラテスは死刑判決を受けた後、脱獄できたのにそうしなかった。当時のギリシャでは、牢番に金を渡せば、そんなことは訳もないことだったというのに。

 そして、泣きじゃくる弟子達に囲まれて、「今からでも逃げましょう」「どうか死なないでください」と懇願されながら、弟子達のことを慰めて、笑って死んでいったと言われている。

 ソクラテスを処刑した当時の知識人や権力者達の名前を、もう私たちは覚えていない。でも、ソクラテス自身の名前だけは、今も歴史に残っている。そんなことを別に彼は意図していたわけではないと思うけれど、後の時代の人々は、そういう彼の生き様を何千年も忘れることができなかったのだ。

 

 私たちには、いつも「無限の選択肢」がある。

 私たちはいつも「自由」だ。「聖者であること」が単なる「機械的なプログラム」のようなものであったなら、この世の誰も「偉大」ではあり得ない。「卑しい生き方をすること」がいくらでも可能であったのに、「信念を貫くこと」を誰も命令しなかったのに、それにもかかわらず「誇り高く生きること」を私たちが自分で選ぶからこそ、「偉大さ」というものはひときわ美しく輝くのだ。

 

 この世の誰も命じないことを、自分の心のままに選択する「自由」がすべての人に在る。

 もちろん、「『自由』を捨てる自由」も私たちには在る。

 そして、だからこそ、どう生きることも私たちにはできるわけだけれども、「自由」を自分で捨てておきながら、それを「他人のせい」にしながら生きる人のことを、「自由な人」と、私は呼びたくない。

 

 人が真に「自由」になれるのは、「多くの他人を思いのままに支配したとき」ではなく、「自分の恐れを支配したとき」だ。

 そしてそれは、いかなる権威にも思想にも宗教的な教えにも服従することなく、ただ「自分の心が命じる声」にのみ服従するような在り方を、私たちが自ら選んだときなのだ。

 

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