【合気道09/23】身体とは、一個の「動物」である

クラス:合気道

日 時:2014年9月23日(火・祝)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:9名

 

内 容

  •  体操
  • 呼吸法
  • 鳥船
  • 四方切り
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 線を換える送り足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り転換6種
    • 後ろ両手取りの捌き
    • 後ろ両手取り四方投げ
    • 後ろ両手取り小手返し
    • 坐って股関節相撲(骨盤を動かすエクササイズ)
    • 坐技呼吸法

 

雑 感

祝日でしたが、火曜日なのでいつも通りの時間と場所で稽古をしました。

 

今回は参加者9名ということで、おそらく過去最多人数です。

うちの会員の他に、甲南合気会や姉妹道場のささの葉合気会からも何人か来ていました。

実は、この日の前日まで甲南合気会の合宿だったのですが、そちらに参加していた人も来ていました。合宿が終わったばかりでもう稽古がしたい人がいるとは…。

今月うちに新しく入会された方も、これで火曜のお稽古に4回連続で参加しています。

本当にどなたも稽古熱心だなぁと思いました。

 

体術は久々に後ろ両手取りをやりました。

春に何人か新規の方が入会されてからは、片手取りや正面打ちなどの最も基本的な取り手を中心に稽古してきたのですが、今回は参加者の中に経験者が多かったので、そういった方達に初心の人への指導を手伝ってもらいつつ、後ろ両手取りを行うことにしました。

 

後ろ両手取りは、その名の通り「相手に後ろから両手を取らせる」という状況で技を行います。

相手は自分の後ろにいるので、当然ながらその存在を視認できません。

なので、必然的に視覚以外の感覚を使って相手の状態を感じ、動いていくことになります。

 

その過程で、手を取りに来る相手の脇の下をくぐったり、背後に回る相手のさらに背後に回り返したりと、技をかける際に要求される動きはけっこう複雑です。

それゆえ、その時々で相手の身体がどうなっているかまで視覚的にイメージ化して動こうとすると、かえって混乱します(「自分が前に踏み込んだときには相手はこの辺にいて、こういう体勢になっているはずだから…云々」とか考えながら動くと全然間に合いません)。

 

こう書くと難しそうですが、それが実際に難しいことになってしまうのは、「目で見た時の形」を中心に技をイメージした場合です。

では、視覚像の代わりに何を頼りにして動いていったらよいのかというと、「相手との体感の一致」を拠り所とします。

 

たしかに、後ろ両手取りは取り受け両者の動線がお互いに絡み合う複雑怪奇なものになりがちですが、その代わり、相手と自分の体感を合わせやすいという利点があります。

たとえば、後ろに回り込ませる過程で、「相手の手」と「自分の手」の筋肉の流れが揃いやすく、そこから、まるで二人の腕が一本に繋がってしまったかのような感じが生まれてきます。

自他の腕が一本になっていると力の方向がぶつかりませんので、動きもつっかえなくなります。

そして、この「つっかえない感じ」を求めながら動くと、目で見なくても足を置くべき場所は自然と決まってくるのです。

 

また、相手に背後を取らせることで、体の向きも自然と揃います。二人で同じ方を向くような状態になる瞬間がある。

これも、後ろ両手が「合気する感じ」を体験しやすい大きな理由となっています。

 

もちろん普段の稽古でも、たとえば入り身投げの時には「二人で同じ方を向く瞬間」はあります。

でも、入り身投げの時は「自分が」背後を取っているのに対し、後ろ両手取りでは「相手に」背後を取らせています。ここが決定的な違いです。

 

自分が相手の背後を取る場合、自分は相手が見えるけれども、相手は自分が見えません。

そういう一方的に有利な状況で相手を投げるとなると、誰しも横着をしがちになるものです。

つまり、自分の立ち位置はどっしり固定しておいて、相手を自分の視界の内部に留めつつ、手で掴んであれこれコントロールしようとしてしまうのです。

これでは、自分は動かないままで相手だけ引っ張り回すことになってしまいます。「合気する感じ」も全然生まれてきません。

 

これに対して、後ろ両手取りで「相手に」背後を取らせる場合、こちらは相手が見えません。

見えない相手を投げないといけない。

こういう「視覚が役に立たない条件」が設定されると、人の皮膚は柔らかく敏感になります。

そうしないと状況に対応できないからです。

 

後ろ両手取りでは、「目で見て動く」ということができません。

だから、接触部位の感触や相手の息遣い、また場の空気の密度変化などを全身の皮膚を通して感じ取り、そのような「皮膚の感じ」に導いてもらって動いていくことになります。

 

こう書くと、「そんな座頭市みたいなことできないよ」と言われるかもしれないですが、これは誰もが多かれ少なかれ持っている力です。

たとえば、誰かと話をするときにも、どれくらい離れていると遠すぎて、どれくらい近いと息が詰まるかを、私達は無意識に測りながらお互いの距離感を調節しています。

また、「左側から話しかけられると落ち着かないけれど、右側からだと話が入ってきやすい」というような左右の個人差もありますし、見おろされながら話すのか、見上げられながら話すのかによっても、言葉の入り方がずいぶん変わってきます(こういったことは、自分と身長の違う小さな子供と話しているとよく考えさせられます)。

 

電車に乗っているときにも、よほど混んでいるので無ければ、私達は「自分のスペース」を確保できるように位置取りをしています。

ご存じのように、この「自分のスペース」というのは、「身体が入るだけあれば十分」というものでは全然無いですね。

そこには「ある程度の空間(文字通りに、空っぽの間)」が必要になる。

 

でも、その「ある程度」がどれくらいなのかは、感覚的な判断なので、実のところ自分でもよくわからない。

それは、目で見て測っているというよりは、肌で感じ取っているとでも言った方がいいような曖昧なものです。

そして、私達が後ろ両手取りの稽古を通して磨こうとしているものこそ、まさにこの「曖昧な皮膚の感じ」に身を委ねて動いていくということなのです。

 

普段の私達は、周囲の状況が自分に理解したり操作したりできる範囲を超えてしまいそうになったとき、「止める」ということを選びがちです。

自分の力が強ければ周りのほうを止めるし、自分が弱いときには(仕方がないので)自分のほうを止めます。

両方がどんどん動き続けていると、処理しなければならない情報量が多すぎて、起こっていることを頭で理解したり自分の手で操作したりすることが難しすぎるからです。

 

もちろん、処理能力の限界に到達しそうなときに「ちょっと待ってね」と言って、「立ち止まれる力」は大切なものです。

でも時には、理解したり操作したりすることを手放して、身体自身に動くことを委せきってしまうことのできる力も必要になります。

全てを自分で管理するというのは、物事が小さいうちには可能ですが、その限界は、不意に訪れるものだからです。

 

そういう時、他人に自分の仕事を委せるように、身体に動くことを委せる。

たとえ「自分のほうが上手くできる」と思っていても、時にはハンドルをがっちり掴んだ手を離し身体に全て委せてみると、往々にして素晴らしい働きで応えてくれるものです。

このスイッチ切り替えがうまくできるかどうかが、後ろ両手取りでは、特に問われるのです。

 

ところで、「日常的な癖」になっている身体の動きを修正したい場合には、これと逆の手順を踏む必要があります。

「癖」はもう身体に深く染み込んでいますから、「癖」になっている動きや姿勢をとっている最中に自分の身体を意識することは稀です。

さらには、「いつもの癖」が顔を出していたことに、他人から指摘されるまで気づきもしないということもしばしばあります。

こういう「身に染みついた癖」を修正しようと思ったら、身体の好きなようにさせるのではなく、「そういう癖が自分にはある」ということをちゃんと意識してあげて、身体に委せきりにしないことが大事になります。

 

だから、「意識して動かすこと」も「動くに委せること」も、本当はどっちも大事なんだと思います。

身体を意識してあげないと、怪我の元になるような非合理的な動きをしていても気づけないし、そうかといって、何から何まで意識しようとすると、身体への管理が過剰になって、足を一歩踏む出すことにさえも困難を覚えるようになってしまいます。

 

私は思うんですが、自分の身体というのは「幼児」とか「動物」とかに近いものなんじゃないでしょうか。

何から何まで管理して思い通りにしようとしても、それはむしろどんどん歪んでいってしまいます。「こうしろ、ああしろ」と命令ばかりしていると、溌剌とした生気は奥に引っ込んでしまい、その感受性は冷たく鈍感なものになってしまう。

だからといって、全くのほったらかしにしておいたら、目を離した隙に、どこで怪我をしたりトラブルに巻き込まれたりするかわかりません。それに、目を向けてもらうことによって元気になるという部分も当然あるから、ときおり様子を見てあげないと生命力が枯れてしまいます。

 

「自分の身体」というと、なんだか「所有物」のようですけれど、身体は「モノ」のように扱うと、本当に物言わぬ物質に近くなっていきます。

合気道の稽古もダンスのレッスンも、そんな身体に「自分自身の言葉」を話させてあげる時間なのではないかと思います。

 

とはいえ、「感じるままに動いてください」というのではそもそも稽古になりませんし、かといって、決められた手順を覚えるばかりでは、「身体の話」を聞く余地がなくなってしまいます。

そのへんの案配が難しいなぁ、といつも感じます。

 

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