【合気道11/04】武道は「生」を希求する

クラス:合気道

日 時:2014年11月4日(火)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:4名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 鳥船
  • 四方切り
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 線を換える送り足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り転換6種
    • 相半身片手取り四方投げ
    • 相半身片手取り一教(表のみ)
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

「手を取らせる」ということを毎度指導しているのですけれど、「自分から取らせなければ」と思うあまり、かえって焦る人が多いことがわかってきましたので、考え方を改めることにしました。

焦るくらいだったら取られた方がマシだ、と。

 

ということで、「何が何でも相手に取らせること」よりも、「手を取られてもいいから焦らないこと」のほうを優先してもらいました。

実際、焦ってさえいなければ、たとえ相手にグッと腕を掴まれていても、身体の内側の流れが滞らないので、つっかえることなく動き出すことができます。

大事なのは、「形として止まらないようにすること」ではなく、「内側が止まらないようにすること」です。

 

仮に自分の方から早めに手を差し出していても、焦って足裏が畳にはりつき呼吸が浅くなっていては、動き出すことができません。

反対に、もし相手にすでに腕をがっちりホールドされていたとしても、内側が動き続けているのであれば自由に足を動かすことができるし、掴まれた腕を上げ下げできるルートも見つけやすくなります。

 

とはいえ、自分の内側が止まっているか動いているか、たぶん最初のうちは識別できないと思います。

でも、「今の自分は予備動作なしで足が動かせるかどうか」とか「深い息ができるかどうか」とかいったことを、気づいたときに自己点検するようにしていれば、次第に内側が止まっていないかどうかもわかるようになります。

 

たとえば信号待ちをしている間、考え事などに夢中になっていると、青に変わったのに「ハッ」と気づいて踏み出そうとしたときに、一瞬身体が力んでひっかかります(今度機会があったら感じてみてください)。

これも、頭の中に引きこもってしまうことによる「身体の停滞」の一例ですが、内側の流れを感じられるようになるためには、そういうことを丁寧に感じる訓練をする必要があります。

日常的にいつも意識し続けるのはしんどいかもしれないですが、せめて稽古の間だけでも「今この瞬間に自分の身体は即座に動き出せるだろうか」と自問する習慣をつけておくと、ずいぶん自己観察力が磨かれると思います。

 

武道はとにかく居着くことを嫌います。

「居着く」というのは、身体や思考が一カ所にビタッとくっついたまま動かなくなってしまうことです。

対戦相手が目の前に居てルールも決まっている競技武道(現代のスポーツ化した柔道や剣道)と違って、本来の武道は四方八方に相手がいるということを想定して形(かた)を作ってあります。

 

サッカーでたとえると、「競技武道」は二人一組で行うボールの取り合いで、「本来の意味での武道」はゲームの中でのパスワークです。

二人一組でボールを奪い合うのであれば、意識するのは「目の前の相手」だけでいいです。

自分と相手のこと以外は考えず、どうやって相手を出し抜くかを気にしていればそれでいい。

もしボールを抱え込んだまま動かないでいることができるなら、それが一番です。

 

しかし、実際のゲームの中では「止まったままのプレイヤー」というのは、ほとんどチームに貢献することができません。

ゴール前を守っているキーパーは別として、少なくとも他の役割の人たちは、常に動き続ける状況の中で「どの瞬間にどこにいれば最も有効なパスが通るか」を模索しなければならない。

というかキーパーだって、キャッチしたボールをフィールドのどこにリリースしたらよいかは、全体の動きを見ながら判断しなければならないはずですから、そんなに話は違わないかもしれないです。

 

いずれにしても、状況は個人の意志を超えたところでどんどん推移していくので、一瞬前まで「最適のポジション」だった場所も、各プレイヤーの配置やボールの位置が変わると、あっという間に「居ても無意味な場所」になってしまいます。

つまり、パスを通すために重要なことは、「一つのポジションに居座って動かないこと」ではなくて、「状況に合わせて動き続けること」なわけです。

 

武道が居着くことを嫌う理由も、以上のことからおわかりいただけるかと思います。

武道が目的にしているのは「目の前の敵を倒すこと」ではありません。

「目の前の敵」に気持ちが居着くと、後ろから斬りかかられても対応できないので、そういう狭い枠組みで目標を設定しない。

自分と相手を対立させずに、自分と相手を含んだ状況全体を見るのです。

 

武道の本当の目標は「与えられた状況のなかで自分の命を守り、さらには生命力を増大させていくこと」です。

「誰それより強い弱い」ということはどうでもよくて、まず「生き残ること」が第一であり、それも「より活き活きとした仕方で生を全うすること」を目指します。

そういう意味では、そもそも倒さないといけないような敵を作らないというほうが、よほど武道的な対応とも言えます。

 

だから、「過酷なトレーニングに耐えて試合には勝ったけれど身体を壊して引退した」とかいうようなことは、武道家としてあってはならないことです。

合気道が強弱勝敗を論じず試合を行わないのは、強弱勝敗を決めるために試合を行う競技武道と、そもそもの目的が違うからなのです。

競技武道は勝ち負けを決めて人々を相対的に序列化(Aさんは一位でBさんは二位とか)することを目的としていますが、武道の真の目的は「相対的なもの」ではなく、「絶対的なもの」です。

それはすなわち、自分と他人を比べることなく、ただただ自分自身の命の力を高めていくということです。


どこに立つと斬られるか。

どういう位置関係になると自分の呼吸が詰まるか。

そういったことを感じながら、瞬間毎に変化していく「最適なポジション」に向かって動き続けること。

 

それが、武道の稽古において大事なことです。

稽古の間は「自分はいつ、どこに、どういう仕方で居たらよいのか」を常に探り続ける。

そして、それはそのまま日常にも反映されることになります。

 

いつ、どこに行ったら自分の生命が損なわれるような人や出来事に遭遇してしまうか。

いつ、どこに行ったら自分の生命がよりいっそう輝くような人や出来事と出会うことができるか。

 

それを感じながら、「瞬間毎に変化する最適ポジション」へ向かって動き続けることこそが、本来の意味での「武道的な生き方」です。

そういう意味では、武道家にとって生きている間はずっと「技の途中」と言えるでしょう。

 

とにかく、たとえ腕を掴まれてもいいから、止まらないことです。

身体が動かないようであれば、気持ちを動かす。意識を動かす。

そのような「動き」の中で、「生」を在らしめるのです。

 

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