【ダンス11/06】焦点化と方向付け

クラス:ダンス

日 時:2014年11月6日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:1名

 

内 容

  • 準備体操
    • 足指を感じるワーク
    • 足先~股関節をほぐす
    • 手先~肩関節をほぐす
    • 鳩尾を緩める(邪気の吐出)
    • 丹田を活性化するワーク
  • 胴体の体操
    • 四つん這いで丸める・反る
    • 正坐で伸ばす・縮める
    • 四つん這いで伸ばす・縮める
    • 合蹠で丸める・反る2種

(休憩)

  • 意識の焦点化と方向付け(フォーカスとディレクション)
    • 前から呼ばれる
    • 横から呼ばれる
    • 後ろから呼ばれる
  • プリエとルルベ(天から呼ばれる)
  • ダンス
    • ステップ練習2種
    • 振り付け練習

 

雑 感

この日も合気道クラスの方とマンツーマン。

その方の出席状況を見たら、これで4週連続ダンスクラスに来ていることになります。

「一ヶ月に参加者が一人来るかどうか」という時期があったことを思うと、まことに有り難い限りです。

 

さて、今回のレッスンについてですが、意識の焦点化と方向付けの練習をメインに進行しました。

これは合気道の稽古ではいつも当たり前のように行っていることなのですが、ダンスではあまりきちんとやったことがありませんでした。


いったいどんな技術かというと、なんのことはありません、私達が日常的に誰かと話をしたり物を手に取ったりするときに行っていることを、もう少し自覚的にやるというだけのことです。

たとえば、話をちゃんと聴こうとするときには相手へ気持ちを向けるものですし、机の上のコップを取ろうとするときには、余計なルートを通らずにスッと手が伸びます。

この時、私達は話し相手やコップに意識の焦点を合わせ、そこにむかって自分の運動を方向付けしているわけです。


たとえば、離れたところにあるゴミ箱にゴミを投げ入れる場合には、ゴミ箱の入り口に明確に意識を焦点化し、自分の放るゴミがそこに吸い込まれていく線を思い描けると、スポッと入ります。

反対にうまくゴミが入らないときというのは、だいたいにおいて狙いが定まっていないときです。

ゴミ箱にスポッとゴミが入る軌跡がリアルに思い描けないと、まず外れます。

 

そのへんは、おそらくバスケットボールの3ポイントシュートとかと同じだと思います。

入る時には、投げる前に入ることがちゃんとわかる(らしいです)。

ゴールにきちんと意識の焦点が合っていて、そこに自分を結びつけることができれば、あとの必要な運動は身体が無意識にやってくれます。

人間の意識と身体は、そういう仕方で繋がっているからです。

 

で、話は戻りますが、合気道に限らず、武道においては「身体の線」というものを重要視します。

それは「相手を攻撃する、攻撃から身を守る」ということが、武道の技術的な最重要課題として存在しているからです。

自分の線を相手にきちんと向けられないと攻撃を当てることができないし、相手が攻撃しようとしてくる線を外せないと、命がいくつあっても足りません。

 

「身体の線」が大事なのはそのためですが、もっと大事なのは「意識の線」です。

「身体の線」を形だけ真似して作ってみても、「意識の線」がどこにも向かっていないと、武道的な意味での「線」は全く機能しません。

それは、先ほどのバスケの例で言えば、教わったフォームだけは忠実になぞりつつも、ゴールに球が吸い込まれるイメージは全然持てないまま、当てずっぽうにボールを放るようなものです。

それでゴールに球が入るわけがない。

 

同様に、武道においても「意識の線」が曖昧だと、身体はどこにいったらいいかわからなくなってしまいます。

焦点が定まっておらず、方向が決まっていないままでは、身体は動きようがない。

そういうときの身体は、行き先を知らないまま電車に乗ってしまった人に似ています。

これでは、状況の変化に翻弄されるばかりで、自分自身では何一つ選択することも決断することもできません。

 

武道において大事なことは、「身体の線」よりも「意識の線」がちゃんと機能しているかどうかです。

正確に相手の急所に焦点化し、そこと自分の身体とを結びつけることができれば、まるで導かれるように致命的な攻撃を繰り出すことができます。

反対に、相手がこちらの急所に向かって飛ばしてくる「意識の線」をあらかじめ察知することができれば、実際に攻撃を打ち込まれる前に相手の線上から身を外して、打突斬撃をかわすことができます。

漫画や時代劇などでは、向かい合った武芸者同士がお互いに間合いを一定に保ったままジッと睨み合っている場面がたまにありますが、あれは身体が実際に動く前の「意識の線」を無数に飛ばし合い、また外し合っているのです。

 

前にも書いたかもしれないですが、武道は「エクササイズ」ではないです。

「身体を上手に動かすこと」が目的なわけじゃない。

使うのは身体ではなく意識のほうです。

というのも、意識をちゃんと使った場合にしか、身体は武道的な動きをしてくれないからです。

たとえば、「この線をこう斬る」というイメージを明確に持てない人の身体は、「斬る形」を外から真似ることしかできず、いつまで経っても本当の意味で何かを斬ることはできないのです。

 

…というのが、この技術(焦点化と方向付け)の前提にあるお話です。

ところで、私達は意識によって動きを導くのではなく、意志によって身体に無理やり指定した動きをさせることもできます(たとえば、エアロビクスとかジムのマシントレーニングとか)。

でも、そういう動きというのは身体自身の「動くべき必然性」というものを無視しています。

それは言い換えれば、「別にやらなくてもいいこと」をわざわざ身体にやらせているような状態です。

 

では、どういう時には動きに「必然性」があるのかというと、自分の外側に目的を持って身体を使っている時です。

たとえば、「呼ばれたから振り返る」とか、「スイッチを押したいので手を伸ばす」とかいったような、自分の外側に向かう行為の中で身体を使う時、その運動には「必然性」が宿ります。

こういうときには、決して寄り道したりせず、最短距離・最適動線で私達の身体は動いてくれるのです。

 

でも、「もっと贅肉を落としてシェイプアップしたい」とか「筋肉をつけて他人に自慢したい」とかいったような頭の欲求には、身体は付き合ってくれません。

だって、「必然性」がないから。

そうして「必然性のないこと」をやっていると、身体の協力が得られないです。

協力を取り付けないまま、動きを無理強いしないといけなくなる。

そのため、無駄な力が入ってしまって、余計に疲れます。

 

しかも、クタクタになるほど疲れると、その疲労感を「たっぷり運動した」という実感として本人は受け取るので、「これで良いのだ」と勘違いし、ますます身体に「必然性のない動き」を無理強いするようになりがちです。

こうして、身体の感覚はどんどん鈍くなり、感覚が鈍っていても十分に感じられるほど強烈な刺激を求め、ますます「必然性のないこと」を身体にゴリゴリと強制してしまう、というたいへんに不毛な循環が出来上がります。

 

武道でも舞踊でも、そういう風に私は身体を使いたくないです。

身体には身体自身の運動調整機能があるんですから、それを十分に活かしてあげたい。

別にこっちが心配して一から十まで運動の指示を出さなくたって、意識で「コップを取ろう」と思うだけで、ちゃんと全部身体がやってくれるのです。

私達がすべきことは、意識の中で身体に「運動の方向」を与えることだけ。

その意識を実際にどう表現するかは、身体が決めることであって、賢しらな私達の頭が口出しすることではありません。

 

「自分はどこに行きたいのか」

「誰と会いたいのか」

「どんな関係を築きたいのか」

 

そういうことだけ気にしていれば、身体は細かい動きを命令しなくても、「目的地」に向かって導かれるように動いていきます。

決して運動の原因を「自分の内側」に設けてはいけません。

なぜなら、身体の必然的な運動は、「外側との関係」を築く過程でしか生まれてこないものだからです。

 

「自分探し」や「自己表現」の時代は終わり、現代においては「関係性」そのものがアートになりました。

たとえば、ギャラリー空間の中に大小様々な板やブロックを敷き詰めて、観客をその中に入れてしまう(カール・アンドレ『こぼれ』)とかいったような「観客巻き込み型」の作品が、20世紀中頃からたくさん生まれてきました。

現代アートは作品と観客の間の境界線を取っ払い、「作品と観客がどういう仕方で関わるか」という関係性そのものを「作品の核」にしてしまったわけです。

 

ダンスにおいても、個人の卓越した身体操作や美麗な運動を他人事みたいに遠い客席から鑑賞するのではなく、「ダンサーが踊りながら体験しているものを観客も一緒に感じる」という部分が現代になってから強く出てきたのではないかと思います。

「ダンサーの身体」をただ外から観察するのではなく、「ダンサーの意識」をその内側に入って共有する。

つまり、観客は目の前で展開されるダンサーの運動を通して、ダンサー自身が本人の外側の「何ものか」と関係しているのを、いわば幻視するわけです。

 

芸道では昔から「師を見るな、師が見ているものを見よ」と言われます。

師の身体の動きを見ていても仕方ありません。

さきほど武道の話で書きましたように、本当に大事なのは「師の身体がいったいどういう『意識』に駆動されているか」ということのほうです。

「師はどう動いているか」を見るのではなく、「師は何を見ているからそういう動きをすることになってしまうのか」をこそ見るべきなのです。

 

そして、おそらくこれは、最も原初的な踊りの形式でもあります。

遙か昔、シャーマン達が踊っている姿の向こうに、周りの人々が神や死者の臨在を幻視した時にも、きっとそこでは「濃密な意識」が飛び交っていたのではないかと思います。

 

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