【ダンス11/20】「本当に触れる」ということ

クラス:ダンス

日 時:2014年11月20日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:2名

 

内 容

  • 準備体操
    • 目の手当(手を当てて気持ちを集める)
    • 顔をほぐす
    • ノドを開くワーク
    • 頭蓋骨を引き締める
    • 肩を緩める
    • 鳩尾を緩める(邪気の吐出)
    • 下腹で呼吸する(下丹田呼吸)
    • 肩を落とし、腰を決めるワーク
    • 足裏と足指を開くワーク
    • 手掌と手指を開くワーク

(休憩)

  • ダンス
    • 腕の動き(ポール・ド・ブラ)の確認
    • 身体の上下方向に力を拮抗させる練習(プリエとルルベ)
    • ステップ練習(遠くの空間に触れに行くための動作として)
    • 振り付け練習(イメージ上のボールと戯れる)

 

雑 感

この日は久々に参加者が2名いましたので、身体ほぐしのために、ペアでのワークをいくつかやりました。

二人一組で、骨盤を後ろから相手に締めてもらったり、手の平や手の甲を触って緩め合ったりしました。

この手のペア・ワークでは、相手がどこを触って欲しいと思っているか、お互いの息が合ってくるとだんだんわかってきます。

この日も「どういう角度で、どれくらいの強さで触れてほしいのか、そういうことを感じながら、相手の身体の奥まで気持ちを届けるように触れましょう」と言って説明しました。

 

人間の身体というのは非常に多くの情報を発信しています。

そして、私達は絶えずそれらを受信して生きている。

だから、「どういう風に触れて欲しいか」というくらいのことは、わざわざ言葉で言わなくても、身体を見ればだいたいわかるのです。

 

たとえば、人は疲れてくると骨盤に力がなくなってくるので、腰が抜けて背中が丸くなり、顎が前に突き出てきます。

また、そんな風に腰が抜けたまま背中が丸くなると、胸が潰れるので息を深く吸えません。

呼吸が浅くなりエネルギーの循環が上手くいかなくなると、今度は手足の末端の感覚が鈍ってきて、場合によっては慢性的な冷えも発生します。

顔にも血が十分にいかなくなるため、血色が悪くなる。

 

このように、疲れている人はちゃんと「疲れた身体」をしています。

そして、私達は別に専門的な医学的知識を持っていなくても、それら「身体が発する情報」を無意識レベルで拾って、「あ、この人なんだか疲れているな」ということを察することができる能力を持っているのです。

それゆえ、いくら外側だけ取繕って腰を入れた形を取っていても、内側で腰の力がなくなっていると、その疲労感は外見にも滲み出ますので、「無理してるんだな」ということが傍から見ていてちゃんとわかるわけです。

 

と、さも当たり前のように書きましたが、「わかんないよ」という人も読者の中にはいるかと思います。

そもそも、昔の私がそうでしたからね。

なので、ここは少し腰を据えて説明を試みたいと思います。

 

人によってはあんまり感じたことがないかもしれませんが、「身体に触れる」ということは「その人自身に触れる」ということと、必ずしも一致しません。

身体は確かに触れているんだけれど、当の本人は「直に触れられている感じがしない」ということがあるのです。

たとえば満員電車に乗っていて、ぎゅうぎゅうと他人の身体に触れているときにも、私達は「相手の身体に触れている感じ」はあんまり持ちませんね。

というかむしろ「触れている感じ」を持たないように、積極的に皮膚の回路を切っていると思います。

こういうときには「触れているけれど触れていない感じ」というか、お互いの間に「ぶ厚い膜」があるような感覚になります。

 

こういった「お互いの間に膜がある感じ」は、別に満員電車の中だけに限らず、日常生活の中で広く経験されます。

相手に向かって伸ばした手は確かにその身体に触れているのに、同時に気持ちは後ろに引いているというか、「相手にあまり触れないように触れている」とでもいったような触れ方を、私達はしばしばしています。

 

たとえば、あまり気の合わない相手と立場上握手をしなければならなくなった場合などには、頭は「握手の形」を身体に強要していますが、気持ちでは「早く離れたい」と思っています。

そして、そのような身体と気持ちの分裂を、本人は自覚していないということが、往々にしてあるのです。

 

合気道の稽古を何年も繰り返していると、それはもう何万回と他人の身体に触れます。

でもそれら全てが「本当に触れているか」というと、そうでもないように感じます。

 

たとえば、このあいだ凱風館のお稽古で天地投げという技をやったとき、上記のような「身体と気持ちが分裂した状態」の人と組んだことがありました。

天地投げという技は、両手を天地に切り開きながら、相手の背面めがけて前に踏み出していく動作を伴います。

でも、どうもその人の天地投げは効きが甘い。

本人は目一杯踏み込んでいるようなのですが、それによってこちらの身体が崩れない。

 

「いったいどういうことなんだろうな」と思って、その方が他の人と組んで天地投げをしているのを離れて観察してみたのですが、よくよく見てみると、上半身と下半身で「行きたい方向」が分裂していました。

つまり、足と体幹部分(下半身)は相手の身体を通り越して向こう側まで踏み出していながら、腕と肩(上半身)のほうはそれと反対で、相手の身体にあまりしっかり当たらない程度の範囲に、動かず留まっていたのです。

 

ここからは私の想像なのですが、ひょっとするとその方は、相手に触れてしまうのを心のどこかで恐れていたのではないかと思います。

天地投げは、手順として前に進むことになっている技なので、頭では「前に出ろ」と身体に命令します。

これが「心のしたいことの半分」であり、その目的は「先生の言ったとおりに動くこと」です。

そして、「もう半分の心」は「できたら相手に深く触れたくない」という風に思っていた。

だから、体幹部分は相手を通り過ぎるところまで入り、腕は当たらない範囲に押し留めた。

そうすることによって、「半分ずつに分かれた心」を同時に満たそうとしたのではないか?

その時は相手に直接確認しなかったので真相はわかりませんが(というか、「真相」はたぶん本人にもわからないと思いますが)、私はなんとなくそう感じたのです。

 

でも、いずれにせよ、これで「どうしてその人の技がきちんとかからなかったのか」は説明できます。

その理由は、「心を分割していたから」です。

というのも、自分の中で心を分けることなく統一し、相手の奥まで気持ちを届けるように身体を使わなければ、人は「動いた振り」ならしてくれても、決して本当の意味では動かないものだからです。

 

これは私が合気道の稽古を通じて確信したことの一つです。

相手のことを変えるためには、決して心を分割しないこと。

そして、表面だけでこちょこちょと触って済まそうとしないことが大事です。

これは別に「道徳論」として言っているんじゃなくて、「そうしないと合気道の技はかからないです」という純粋な「心身操作の技術論」として私は言っています。

 

だから、技を行っている間の「自分の心と身体の分割」には非常に敏感になる必要があります。

心身がバラバラに分かれてしまうと、さっぱり技の冴えが出ないからです。

たとえば、気持ちがちょっとでも緩んだり、「今・ここ」から逸れてふわふわと浮つき出すと、とたんに技が効かなくなります。

そういうときには、相手に力と気持ちが通らなくなって、全部自分の方に跳ね返ってきてしまうようになる。

 

こうなると後は全て一人相撲みたいなもので、動けば動くほどこちらの呼吸が詰まり、相手を崩そうとすればするほど自分のバランスが崩れていきます。

相手にこれといって「何かしよう」という気がなくても、そうなってしまう。

それが「後手に回る」ということです。

そのような状況を避けるためには、気持ちに切れ目ができないように一定の流れを持続させながら、心と身体を統一して、全身全霊で相手の奥深くへ触れに行く構えが必要になります。

 

でも、これはとても恐いことです。

ひょっとしたら、そこまでしても相手は自分が「本当に触れに行っていること」に気づかないかもしれない。

あるいは、こちらが触れに行ったところを逆に反撃されてしまい、深く傷つけられることになるかもしれない。

なぜなら、「深く触れに行く」ということは、「こちらの最も柔らかい肌を相手に晒す」ということでもあるからです。

 

私はそれがずっと恐かったし、今でも恐いです。

自分が差し出した手を相手は見向きもしないかもしれない。

場合によっては、「一人だけあんなに必死になって」と馬鹿にされ、陰で笑われるかもしれない。

そして、それが恐かったから、私はいつの間にか「本当に触れる」ということができない人間になってしまっていたのだと、今は思います。

 

つい先日、とある施設の待合所で、こんなことがありました。

3~4歳くらいの女の子と母親が私の後ろの椅子に座っていたのですが、女の子は「あれな~に、これはな~に」と、無邪気にあちこちを指差しては、質問の言葉を母親へと向けていました。

その言葉は紛れもなく母親個人に向けて発されているもののように感じました。

 

でも、それに対して母親が繰り返していた「静かにしなさい」という言葉は、その女の子に向けた言葉であるようには、私は感じなかった。

母親はどこか上の空で、自分の娘の方へ顔は向いていましたが、身体全体としてはそっぽを向いているように見えました。

じゃあその母親の声はいったいどこに向かっていたのかというと、これがよくわからない。

 

しかし、なんとなくその声は耳障りな感じがしました。

母親の声そのものはそんなに大きくはなくて、むしろ囁き声くらいの音量です。

彼女の娘がはしゃぎながら発する声のほうが、物理的な音としては大きかった。

にもかかわらず、どういうわけか母親が娘に返事をする声のほうが、こっちの身体には「不快な音声」として強く響いてきたのです。

そうこうしているうちに、私はだんだんと鳥肌が立ってきました。

毛の向きに逆らって肌をなでられる感じというか、皮膚全体がぞわぞわし出した。

 

その時は「何なんだろう、これは…」と思ったのですが、後から考えるに、おそらくその母親は娘に向かって「静かにしなさい」と言っていたのではないのです。

そうではなくて、「私はこういうときに自分の子供に『静かにしなさい』と言って注意する責任を放棄したりしない人間なんです」ということを(私を含めた)周囲の人々に向かって説明するために、その言葉を発していたのです。

 

もちろんこれは私の勝手な想像ですが、そう考えれば身体的には納得がいきます。

言葉の宛先は「自分の娘」ではなく、回りにいた「他人たち」だった。

そして、その言葉は「娘に語っているかのように装う」という外見的な身振りと、「他人に対して自己弁護したい」という内側の欲求の間で引き裂かれてしまっていた。

だから、語られた言葉は娘には届かず、周囲の私達にもきちんと聞き届けられず、「宛先不明」となったまま、人々の身体の表面を逆撫でするかのような仕方で、その空間に残響してしまっていたのだと思います。

 

ひょっとしたら、あの母親は育児に疲れていて、誰からでもいいから「あなたは自分の責任をちゃんと果たしているよ」と一言告げて欲しかったのかもしれません。

旦那さんは言ってくれないのかしらん?

それともシングルマザーなのかな(と今更言っても仕方ないんですが)。


ともかく、「相手に触れる」という現象には、普段私達が思っている以上に、深浅のレベル差が存在しています。

一方に「身体の奥深くまで触れる言葉」があり、反対に「浅いところにしか触れない言葉」があります。

合気道の道場においても、「そっと触れているだけでこちらの奥まで染み込んでくるような手」の人もいれば、「力一杯握っているのにさっぱりこちらの身に馴染まない手」をした人もいる。

 

しかし、その違いを識別する力を、私達は失いつつある。

というか、すでに失って久しいように思います。

理由はおそらく機械文明の発達と、一般家庭へのその普及です。

 

これまで書いてきましたように、人間の身体は「深さ」と「浅さ」を細かく感じ分ける力を持っていますが、機械のスイッチは基本的に「オン」と「オフ」しか区別しません。

たとえば、私が今この文章を書くために使っているノートパソコンも、キーボードの触り方やこちらの心がけを変えたところで、それによって出力されてくる文字まで変わったりはしません。

私としてもそんなことになってもらっては困るし、一般家庭に広く用いられるためには、誰がどういう触り方をしても、おんなじ文字が出力されるようになっていないといけない。


全自動洗濯機でも、食器洗い機でも、洗い物を放り込んだら水量の計算から時間の調整まで、ボタン一つで機械が全部やってくれます。

私達が自分で頭を働かせる必要もないし、自分の身体を使ってこすり方や圧のかけ方をそのつど調整する必要もありません。

そこにいかなる意味でも「気持ちを込める」必要がない。

 

もちろんそれは必ずしも悪いことではありません。

そうやって機械がやってくれるおかげで、私達は家事労働から解放され、自分の時間を他の活動に費やすことが出来るようになった。

私の世代くらいの人間はもう話としてしか知りませんが、昔の家事はほとんど「肉体労働」だったと言います。

川や井戸まで水を汲みに行って、たらいと洗濯板を使って一枚一枚服を洗って、薪を使って風呂を沸かして…。

昔の主婦たちは、そういった「生活に必要な最低限のこと」をやっているだけで一日が終わってしまっていた(らしいです)。

 

そういった「重労働」から人々が解放されたのは、確かに言祝ぐべき事でしょうけれど、でも、それによって「身体と気持ちを統一して、ひたすら一つの作業に没頭する」ということを私達は生活の中でしなくなったのだと思います。

それと共に、身体運用においては「オン」と「オフ」だけの単純な触れ方しか私達には要求されなくなり、あらゆる情報は機械に対して明確に命令しやすいような「数値化できること」へと縮減されるようになっていった。

 

そして、この「機械に触れる仕方」を、ここ10年~20年くらいで、私達は「生身の人間」に対してもするようになったのではないかと私は思っています。

そういう世の中にあっては、「人間に触れるような手」を伸ばしていっても、相手からは「機械に触れる手」でもって応じられることになる。

この「機械扱いされる経験」は、人を深く、深く、傷つけます。

そして、傷つけられることを繰り返し経験した人は、次第に、触れる前から手を引っ込めるようになる。

社会生活上「触れている振り」が必要なときには、身体をそういう風に動かすけれど、決して気持ちを自分の手には乗せなくなります。

 

この話にいったいどこまで理論的な普遍性があるものかわかりませんが、私はそうでした。

今だから言えますが、私は合気道の稽古を始めてから最初の3年近くは、稽古で他人の身体に触れることが恐くて仕方なかった。

今でも恐いと思うことがたびたびありますが、私は稽古で相手に向かって手を伸ばす振りだけしていて、実際にはいつも気持ちが内側に引いていました。

私の心身は二つに分裂していたのです。

 

それでも私が合気道の稽古を続けて、「もう一度相手に触れよう」と思えるようになったのは、引っ込めようとする私の手を触りに来てくれた人々がいたからでした。

合気道に限らず、武道の上級者達は、みんな相手の懐に入っていくのが上手いです。

こちらが「手を引っ込めよう」と思う間もなく、するすると入ってきてしまう。

 

彼らが、「自分で手を引っ込めてしまっている」ということを、私に気づかせてくれました。

そのことに気づいてから、私は少しずつ「外側に手を伸ばしていこう」と思うことができるようになっていった。

私がいったい何を恐れ、「自分の命」を引っ込めてきたのか、理解することができた。

それは私にとって、本当に「大きな気づき」だったのです。

 

「相手の身体に触れる」ということは、とても奥の深い問題を私達に提示してくれます。

相手に深く触れていくと、相手の身体がわかってきます。

筋肉の強張り、重心の位置、見ている景色、脈拍、呼吸、思考や感情…。

そういったものが、まるで我が事のように感じられてくる。

そして、相手の身体がどこにどんな仕方で触れて欲しがっているのかも、少しずつわかってくるのです。

 

また、そうして「人に触れる仕方」が「私自身の在り方」を映し出して見せているようにも最近は感じています。

相手の身体が鏡になって、私の身体を見せてくれるわけです。

 

しかし、それもまた恐ろしいことです。

その恐ろしさについて考えてみると、私達がいつも手を内側に引っ込めてしまう理由は、ひょっとすると二つあるのかもしれません。

 

一つはこれまでに何度も傷つけられてきたから。

そして、もう一つは「自分を知る」のが恐いからです。


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