【合気道11/25】「逃げる」のではなく「線を外す」

クラス:合気道

日 時:11月25日(火)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:4名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 鳥船
  • 四方切り
  • 足捌き
    • 送り足
    • 半歩送ってから継ぎ足
    • 継いでから線を換える

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り転換6種(二人で同じことをする)
    • 逆半身片手取り歩み足転換(相手の正中線を剣で押さえる)
    • 正面打ち入り身投げ(仮想上の剣で先を取る)
    • 正面打ち一教(相手の腰に方向性を与える)
    • 坐技呼吸法(固めは、力や体重ではなく気持ちを用いる)
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

PLATFORM合気道クラスは2012年12月からスタートしたので、次の稽古で丸二周年を迎えることになります。

最初の一年は稽古に参加しに来る会員も二人だけで、マンツーマンでの稽古になることもありましたが、今年に入ってからクチコミで徐々に会員も増えてきました。

有り難し。

 

この日はお稽古後に合気道クラスの親睦会が開催され、元町付近のインド料理屋でカレーを食べながら楽しく語らいました。

今年になって入ったメンバーも少しずつ稽古に慣れてきているので、来年は順次昇級審査も受けてもらおうと思っています。

級を取って「先輩」という立場になると、道場での立居振る舞いも相応しいものに自然と変わりますし、それが本人の術技向上に大きく影響するのです。

これから次の一年でどんな変化や出会いが待っているか、今からたいへん楽しみであります。

 

さて、この日のお稽古ですが、「イメージ上の剣を用いて相手の先を取ること」が中心テーマでした。

ちょうど先週の居残り稽古で木刀の素振りを体験してもらっていたので、その時の剣の感触を思い出してもらいつつ、体術の稽古をしました。

 

正面打ちの稽古では、取りは受けの人に自分の面を打たせるわけですが、これもいつもの片手取りや両手取りと同様、打たれてから反応したのでは遅いです。

先に打たれてしまうと、接触した時点で「相手が優勢でこちらは仰け反っている」という状態になってしまうので、取りは受けの人に打たれる前の段階で、この状態を逆転した形で作っておく必要があります。

これはつまり、「打つ前から受けの人が後ろに仰け反っている」ような状態を場として先にこちらから設定してしまうということです。

相手に打たれてから勝ち負けを争うのではなくて、「打つ前から相手がすでに負けている状況」を作っておいて技に入るのです。

 

「そんな催眠術みたいなことができるわけないじゃないか」と思う人も多いでしょうけれど、こういうことは日常的にしょっちゅう起こっています。

たとえば、意図せず見知らぬ場所に迷い込んでしまったときや、知人の一人もいない団体の活動に初めて参加するときなどには、誰しも不安になって気が小さくなりがちです。

「この道を進んで大丈夫かな?」とか「こんな質問をして呆れられないだろうか?」とかとか、いろいろ考えてしまって気持ちも内向きになっていきます。

 

そうすると、本人も気づかないうちに身体は防御態勢を取るために閉じていきます。

具体的には、背筋や腕・脚の伸筋側を拘縮させて、身体の内側にある柔らかい部分(顔・喉・胸・腹・主要な動脈)を包んで守るような格好になり、重心も少し後ろに掛かり気味になります。

こういう状態にあると、誰かから何気なく呼びかけられただけで、思わず仰け反ってしまいます。

そして、これが武道的な意味で「先を取られる」ということでもあるのです。

 

自慢するわけではありませんが(ということは要するに自慢なんですが)、私は武道家としてはたいへんに「弱い」人間です。

どう「弱い」のかというと、日常のありとあらゆる場面で「先」を取られまくるのです。

たとえば、コンビニのねえちゃんに品物を無造作にドサッと置かれては気後れしますし、ラーメン屋のにいちゃんから突然注文を聞かれただけで心臓の鼓動は速まります。

道場での稽古だけでなく、道ですれ違う通行人にもしょっちゅう「斬られて」います。

「先を取られる=死」だとすれば、私は一日にそうとうな回数死んでます。

 

ひょっとすると、「そのような『弱い』人間が他人に合気道を教えようだなんて、分をわきまえていない」と言われるかもしれないですが、「これだけしょっちゅう死んでいる」ということは、逆から言えば、「負けるというのはどういうことかを身をもって知っている」ということでもあると思います。

少なくとも、自分が「後手」に回ってしまった場合に、「あ、死んだ」ということになるべく早く気づくことへと、私の関心はかなり集中している。

そして、ほとんどそれだけが、私の「武道家としての強み」なのです。

 

その私自身が観察したところによると、世の多くの人々は、「先を取ることの重要性」を過小評価していると思います。

たとえなんとなく気後れしていたとしても、「まあいいか、ちょっとの間だけ我慢しよう」と思って居心地の悪さに耐えてやり過ごそうとしたり、「生の腕力」や「知的な理論武装」で弾幕を張ったりすることで、「後手に回ってしまった」という事実を自分に対して隠蔽しようとする。

 

なぜそういう「一時しのぎの策」を多用してしまうのかと言えば、たとえ自分が「後手」に回ってしまっていても、現代日本の平均的な社会生活者は、そのことで実際に命を落とすような局面にほとんど遭遇しないからです。

考えてみれば当たり前のことですが、誰だって「負けたら死ぬ」と思っていると「どうしたら負けないで済むか」について必死で知恵を絞ります。

でも、「負けても我慢すればいい」と思っていたら「我慢の仕方」だけが発達します。

しかし、言うまでもなく、「死ぬ」のをいくら上手に我慢しても、生きられるようになるわけではありません。そのまま「死ぬ」だけです。

 

そして、私が「負けたくない」(言い換えれば、「後手に回りたくない」)と強く思うのは、負けると後で大抵「死ぬような想い」をするからです。

「邪気」を放っている人間に「先手」を取られてこちらの内側に入り込まれると、場合によっては心身共にズタズタにされてしまう。

もちろん相手にもよりますが、「後手」に回ったままでいると、私はしばしば立って歩くことができなくなります。足腰に力が入らなくなるのです。

その次に極端に呼吸が浅くなったり、反対に過呼吸になったりします。

さらにそれでも我慢を続けると全身の皮膚がぞわぞわしてきて、内臓をえぐられたような苦痛が体内に発生します。

 

それにもかかわらず我慢に我慢を重ねた結果、帰り道の途中で倒れてしまって、通行人に救急車を呼ばれかけたことがこれまでに何度かあります。

歩けなくなってしまっている私を心配して、見知らぬ人や近くにいた警察官が目的地まで送ってくれたりしばらく付き添ってくれたりしたこともあり、それはそれですごく有り難いことなんですけれど、やっぱりあんなに惨めでみっともないことったらないです。

 

だから、私は絶対我慢なんかしたくない。

我慢するくらいだったら「そもそも負けない方法」を工夫します。

「負けのルート」に入りそうになったら、そのことに早めに気づいて、進行方向を変えるとか、友人知人に相談するとかできるようにしておきたい。

 

この気持ちが、私が合気道を続ける原動力の一部を形作っています。

私は昔から一貫して我慢するのが下手で、あらゆることから逃げてきました。

「あ、無理だ」と思ったらすぐ逃げる。

そうやってなんとか息を繋いできた。

 

でも、最近は合気道の稽古のおかげか、「逃げる」のではなく「線を外す」ということもできるようになってきた気がしています。

これは体術で相手の攻撃を避ける際にも非常に重要なことです。

というのも、打突斬撃というのは「逃げると追ってくる」性質を持っているからです。

相手に打たせておいてその線から身を外すとかわせるのですが、「当たりたくない!」と思って焦って逃げると、たとえ攻撃する側に追う意図がなくても追尾されてしまうのです。


合気道の稽古でも、「相手から線を外してください」とは指導しますが、「相手から逃げてください」とは決して言いません。

そんなことしていたら、いつまで経っても相手の攻撃に追いまくられるばかりで、一向に繋がれないからです。

 

「逃げる」のではなく「線を外す」。

この二つの違いは、体捌きの稽古を続けて行くと、身体的に納得できるようになってきます。

「逃げる」というのは、最初から相手と繋がる気がなくて、うっかり間合いに入ってしまわないよう神経を張っている状態です。

それに対して「線を外す」というのは、「必要があれば相手の懐に飛び込んでいこう」という気持ちを持った上で、その都度の安全な場所に身を捌くことです。

この二つは体感的には全く違います。

 

武道の体捌きにおいて大事なことは、「我慢しないこと」と「逃げないこと」です。

この二つは一見すると矛盾しています。

でも、体験的には両立可能です。

それは「相手ときちんと向き合い、かつ、安易に妥協しない」ということです。

 

それはとても難しいことですけれど、心がけさえあれば、誰にでも試みることは可能なことです。

そしてだからこそ、自身の身体能力の高低に関係なく、誰もが武道の修行に意味を見出すことができるのだと私は思っています。

 

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