【ワークショップ11/30】「立つこと」と「支えること」

クラス:ワークショップ

日 時:2014年11月30日(日)・14時~16時30分

場 所:西宮市立勤労青少年ホームの小体育室

参加者:7名(スタッフ1名含む)

 

内 容

  • 足指を感じるワーク(二人一組)
  • 足裏と足首を開くワーク
  • 体幹(骨盤・肩甲骨・後頭骨)を整える(二人一組)
  • 腕に方向性を与える(遠心と求心)
  • 肩の上げ下ろし
  • 鳩尾を緩める(邪気の吐出)
  • 下丹田呼吸

(休憩)

  • 鈴の音を使った瞑想
  • 身体の重さを下に流す(合掌の呼吸)
  • 全身に響きを通す(阿吽の呼吸)
  • 鳩尾から腕に響きを通す
  • 物を支えるワーク
  • 人を支えるワーク
  • ワカメ体操
  • 講師によるダンスの実演

 

雑 感

今年からスタートした隔月ワークショップの第三回です。

直前になってキャンセルが3名出て、最終的に参加者は7名でした。


まずは、うちのワークショップで毎度やっている「足指を感じるワーク」からスタート。

二人一組でお互いの足の指を触り合って、私達が普段どれほど足を感じずに生きているかを、身をもって体験していただきました。

だいたい8割くらいの人は、足先を誰かに触ってもらっても、どの指を触られているのかが識別できません。

足先の感覚がぼんやりとは感じられるけれど、手の指のようにはきちんと細分化して感じ分けられない。

 

人間の身体の機能は、使わないでいると衰えます。

足も同じで、意識を向けて神経を働かせるということをしないでいると、身体のほうが「あ、オレっていらないんだ」と判断して、感覚が鈍磨してきます。

ひどくなると、足先どころか足裏や足首の感覚もなくなってくる。

 

足裏の感覚が悪くなると、裸足で立っていても床の感触がわからなくなりますし、足首が固く強張っていると、傾いた地面に立ったときに身体の角度をアジャストしてバランスを取ることができなくなります。

これでは、もし転びそうになったとしても、怪我をしないように身体の状態を調節することができません。

 

道行く人を観察していると、足はおろか膝から下が消えてしまっている「幽霊のような人」がけっこういます。

最近は、小さい頃に裸足で遊ばせることをしない親御さんが多いこともあってか、足の感覚が未発達のままになっている子供も多いです。

これは知人から聞いた話ですが、都会の小学校にはジャンプをしたあとに着地の仕方がわからなくて、そのまま転んで怪我をしてしまう子もいるのだとか。

本当だとしたら恐ろしい話です。

 

なんでそんなことになってしまうのかと言えば、私達の社会が「転ぶ可能性を考慮しなくて良い環境」になっているからだろうと思います。

たとえば、舗装された道、丈夫な靴、便利な乗り物など、そういったものが私達の生活圏内には溢れています。

「デコボコした道を裸足で歩く」という、発展途上国の子供達にとっては日常的な出来事も、よほど意図して機会を作らないと私達の生活の中では体験することがありません。

 

私達は「安全な環境に支えられること」に慣れているので、「自分の足で歩くこと」には不慣れです。

ワークショップの後半では、あえて身体を不安定にするワークもやったのですが、なぜ私がこういう「足を感じる」とか「不安定に立つ」とかいうようなことをやってもらうかというと、参加された方々に、「自分がいかに立てていないか」ということを自覚してもらいたいからです。

 

私達は「支えること」よりも「支えられること」に慣れています。

そして、往々にして、私達は「自分が何かに支えられている」ということについて、明確な自覚や感謝の念を持つことがありません。

だって、それは「吸うことのできる空気」があって、「立つことのできる地面」があるのと同じくらいに、本人にとって当たり前のことになってしまっているから。

 

合気道の体術を稽古していくと、この「現代日本的な傾向」はたいへん顕著に現れてきます。

どんな風にかというと、稽古を始めたばかりのほとんど全ての人は、相手に自分の体重を乗せかけて、技を受ける人のことを倒そうとしてしまうのです。

 

お互いの身長差にかかわらず、相手に乗っかって倒そうとすると、必然的に重心は上がってしまいます。

重心が高くなったままだと、身体も心も浮ついてしまって、落ち着いた状態で相手と関わることができません。

また、技をかけられる相手からしたら、乗っかられた上に倒されそうになるわけですので、生理的に身体を固めて防御しようとします。

その結果、お互いに身動きが取れないまま、力のぶつけ合いになってしまい、だんだんと「なんで倒れねぇんだよ、コノヤロ」と思うことにもなるのです。

 

しかし、実はこの「もたれ合いの状況」は、技をかける側が望んだ結果でもあるのです。

そもそも、「相手に乗っかって技をかけようとする」という行為は、「相手の支え」を当てにしているからこそできることなわけで、簡単に相手が崩れてしまっては、乗っかっているこっちも転んでしまいます。

倒そうとする相手が簡単に倒れてしまっては、乗っかるほうとしても困るのです。

 

それゆえ、自分の足で立てていない人ほど、相手が崩れないギリギリのところを無意識に察知して、その人の「踏ん張り」を期待しながら、徐々に体重をかけるということをしてしまいがちです。

こうなると、どこまでいっても「もたれ合い」の状態が解消できず、最終的には「生の腕力」が強いほうが場を制した(かのような)結果になります。

 

ここで大事なことは、私達は自分で思っているほどには「自立」していないということへの気づきです。

いつも支えを必要とし、そうして現に多くのものに支えられていながら、「いったい自分が何に支えられて立てているのか」を自覚することがうまくできない。

そして、「自分を支えてくれているもの」を自覚できないでいるために、本人はいつのまにか進むことも退くこともできない袋小路へと追い詰められてしまうということが、往々にしてあるのです。

 

これは別に他人事ではなくて、私にとってもリアルタイムで取り組んでいる切実な課題です。

今の私にとって興味のあることは、「自分の安全で快適な日々」が何によって支えられているのかを知ることです。

それを知ることができれば、ひとつひとつの支えに対して感謝の気持ちを抱いて生きられるし、「どの支えなら今は外しても大丈夫か」ということも子細に検討できるようになります。

 

握りしめた手を放せないのは、「それを放したら転ぶ」と信じているからです。

でも、「これがなくなったら倒れる」と思って握りしめていた支えの中に、「手放しても大丈夫なもの」がもし含まれているとしたら?

もしそれがわかったなら、そのとき私は握りしめた手を開くことができるでしょうし、そうして空いた手を使って、今度は「何かを支える」ということもできるようになるはずです。

 

とにかく、私達は自分の足で立てていません。

一瞬だけ立っているように思えても、気づくと何かに寄りかかっている。

机に肘を置いて寄りかかり、壁にもたれたままボーッとし、寄りかかるものが近くにないときは、自分の脚を棒のように固くして、その上に乗っかろうとします。

 

自分の脚を「つっかえ棒」にしてしまわずに、一瞬毎に柔軟に変化しながら自分の身体を支えている人というは、たいへん稀な存在です。

そういう人は、「自立」はしていても「孤立」はしていません。

というのも、他人にもたれかかる必要が少なくなった人というのは、そのぶんだけ、他人を支えてあげることができるからです。

「支えられる」ことによって繋がっていたのが、「支えること」によって繋がるように変わるだけで、外界から隔絶してしまうわけではないです。

 

「私は本当に自分の足で立てているのだろうか」

「自分はどれだけ多くのものに支えてもらっているのだろうか」

「どの支えなら自分は手放してもやっていけるだろうか」

 

そういったことを問うところから、身体についてもう一度考えてみたい。

それが、今の私の(自分自身の稽古も含めた)方針です。

 

<ワークショップの様子>


<講師によるダンスの実演>

次回のワークショップは2015年2月1日(日)の14時~16時30分を予定しています。

詳細が決まり次第、ホームページでアップしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

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