【合気道12/09】飽きるためにも、まずは覚えましょう

クラス:合気道

日 時:2014年12月9日(火)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:5名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 鳥船
  • 四方切り
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 送ってから継ぎ足
    • 継いでから送り足
    • 線を換える送り足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り転換6種
    • 相半身片手取り入身投げ2種(下段・上段)
    • 相半身片手取り四方投げ
    • 相半身片手取り一教表
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

火曜のレギュラー稽古。

思ったほど寒くなかったですが、やはり裸足だと足が冷たく感じるようです。

柔道場の事務室に置かれている電気ストーブを借りたのですが、周囲2~3メートルにしか効果が無く、あんまり役には立ちませんでした。

 

それゆえ、「足が冷たくて稽古に集中できないという方は、うちでの稽古に限り、足袋を履いていただいて結構です」と参加者に再度アナウンスしました。

王子のようなビニール畳であれば、足袋でもそんなに滑りませんので、やりにくいということはありません。

むしろ、足袋を履くと足の親指に力が集まりやすくなって、腰が安定しますから、私はこの冬以降も足袋を履いて指導しようかと思っているくらいです。

袴を穿いていないとコーディネートが難しいかもしれませんが、足が冷たいと感じている参加者の方は、ぜひご検討くださいませ。

 

さて、今回はほとんどいつものメンバーでしたが、うちの会員で級を持っている人がお休みだったので、よその道場から出稽古にいらした級持ちの方に手伝ってもらいつつ指導しました。

テーマはまたしても、「先を取る」こと。

私の師匠の師匠にあたる多田宏先生は、「技が終わったときの体感をイメージしてそこに身体を放り込め」と教えておられますが、本当にその通りで、特に身体が動きに慣れていないうちは、イメージしたところまでしか技は再現できないものです。

「どういう道順で進んでどこに向かうか」ということがわからないまま技を始めてしまうと、途中で道に迷ってしまいます。

「あれ?ここからどう進んだらいいんだろ?」となってしまう。

 

だから、まず初心の方は何よりも優先して手順を覚えていただきたいと思っています。

いきなり全部覚えることはできなかったとしても、一歩ずつでもいいので、進んでいって欲しいです。

「いつもここで道がわからなくなる」ということがわかったら、そこだけでいいので、とにかく覚える。

これは受験勉強の「知識の穴埋め」みたいなものです。

私は「穴がどこにあるのか」を指摘することならできますが、「本人に代わって穴を埋める」ということはできません。

こればっかりは、稽古をする方一人一人が、ご自分で覚える工夫をしていくしかないです。


次第に手順を覚えて動きに慣れてくると、当然ながら道に迷うことは少なくなります。

でも、あんまり一つの手順に慣れすぎると、「道に迷っていることに気づけない」ということも起こりえます。

本当は途中で道がわからなくなってしまっているのに、「ありゃ?おかしいなぁ、いつもと同じようにやってるはずなんだけど…」と、前と同じルートでゴリ押ししてしまうのです。

 

ここから先は手順を覚えた後の話になりますが、「いつもの道」を歩いていても、毎回同じ景色がそこにあるとは限りません。

昨日は使えた道が道路工事で塞がっているかもしれない。

「途中で腹ごしらえしよう」と予定していた店が、いつの間にか閉店しているかもしれない。

たとえ「同じ道」を歩いているように思えても、毎回どこかが微妙に違っているものです。

 

「ルーティン・ワークの徹底」というのは、常に一定レベル以上のパフォーマンスを発揮するために必須の習慣ですが、それは、「ルーティン・ワークを繰り返していると、考えなくても同じ道が辿れるようになるから」ではないんです。

たしかに「考えなくても」というところは大事なのですが、それはルーティン・ワークが大事である理由の半分です。

もう半分の理由は、繰り返し「同じ道」を辿っていると、「同じ道だ」と思っているところに「いつもと違う物事」が発生したとき、即座に気づける感受性を養うことができるからです。

 

合気道では、私の見聞きして知っている範囲で言うと、だいたい初段を取ったあたりで一回大きな壁にぶつかります。

それは、初段を取るくらいまでいくと、自分の所属する道場で教えられる技の手順をあらかた覚えてしまって、師範が技の手本をしても、「ああ、これはアレね」とすぐに判断してしまえるようになるからです。

 

実はこれが危ないんです。

師範の見せる手本は、たとえ表面的には同じに見えても、いつも違っています。

師範もその時々で課題にしていることがあるでしょうし、師範自身の修行の進み具合によっても技の質は変わっていきます。

でも、手順そのものにはそういった「質の違い」はほとんど現れないので、動きに慣れてきた人は「ああ、これはもう知ってる」という風に判断して、手本をちゃんと見ないようなりがちなのです。

仮に師範が「ここをこういう風に意識してみなさい」と言っても、手順を辿るだけで「自分の仕事は終わりだ」と本人が思っていると、何を言われても右から左に聞き流されてしまう。

 

長く稽古を続けていると、こういう危険は常にあります(私自身にも当然あります)。

「あ、それもう知ってる」という判断は、現に見えているものを見えなくしてしまう、修行上の典型的ピットフォールの一つです。

いったん「知っている」に居着いてしまうと、「知らないこと」や「新しいこと」がたとえそこで活発に生起していても、それらに対するセンサーはオフになってしまうのです。

 

しかし、これはある意味で仕方のないこととも言えます。

だって、上でも書きましたように、入門したての頃は、何よりも優先してまず手順を覚えないと、稽古そのものが成り立たないのですから。

本人からすれば、右も左もわからない状態から必死の思いで食らいついて、なんとか手順を覚えることができたわけです。

だとしたら、そこまで歩いたところで「は~、これでもう安心だ」と思ってしまったとしても、それを責めることはできません。

大事なことは、外から誰かがそれを責め立てることではなくて、いったいどこで本人が「安心している自分」にうんざりし始めるかという点です。

 

最初のうちは、とにかく手順を覚えるということが最優先課題だったので、一つずつでも手順の曖昧な所をなくしていけば、本人は「意味のある時間を過ごしている」と感じることができました。

でも、一度手順を覚えてしまえば、あとはただそれを繰り返すだけです。

当然ながら、以前は感じた「有意義な時間」を味わうことはできなくなっていきます。

こうなると、「こんなこといつまでも続けていて意味があるんだろうか?」とか「そもそもなんで自分は稽古をしているんだろう?」とか言ったことを自ずから深く考えるようになります。

そうして、なんとなく中途半端な気持ちのまま、稽古回数だけを積み重ねる日々が続いていくことになる。

 

別に「それは間違っている」という話ではなくて、「それで良い」んです。

「かつてあった充実感」を喪失したのは、それだけ修行が進んだからであり、「こんなこと続けてどうするんだろ?」と悩むのは、合気道に対する考えがそれだけ深まったからです。

だから、後戻りなんかしないで(したくてもできないけど)、ただそのまま進めば良いだけです。

そうすることで、人から出された問題にひたすら「模範解答」していくだけの受験生的な修行段階から、技法を受け継ぐことによって己がこの世界で果たしうる役割は何かについての「個人的回答」を出しうる段階へと、進んでいくことができるのですから。

 

だから、結局のところ「無駄なこと」はないと思っています。

手順を覚える時期も大切だし、手順にうんざりする時期も大切。

それら全部が、ちゃんと本人の血肉となっていきます。

 

うんざりしていても、止めずに稽古し続けてさえいれば新しい発見があります。

新しいことを発見をすると、「うおー、自分は今まで何を見ていたんだー!?」と思って興奮します。

 

でも、それもやがて飽きます。

ずっと興奮しっぱなしということはありません。

心配しなくても、ちゃんと飽きます。

そして、飽きながらもルーティン・ワークを続けていくことによって、そこに次の「新しい何か」を見出していけるのです。

 

「飽きる→気づく→飽きる→気づく…」

 

このループは、たぶんどこまでも続きます。

「飽きっぱなし」も無いし、「気づきっぱなし」も無いです。

もしどちらかの状態に長期間とどまっているとしたら、それは「落とし穴にはまっているとき」なのだと思います。

 

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