【ダンス12/18】時には馬鹿馬鹿しいくらいに

クラス:ダンス

日 時:2014年12月18日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:2名

 

内 容

  • 準備体操
    • 足裏を開くワーク
    • 脚全体に方向を与える
    • 腕全体に方向を与える
    • 肩の上げ下ろし
    • 鳩尾を緩める(邪気の吐出)
    • 下丹田の活性化ワーク
  • 胴体の体操
    • 正坐で丸める・反る
    • 正坐で伸ばす・縮める
    • 立位で伸ばす・縮める

(休憩)

  • 腕のポジション確認
  • プリエとルルベ(上下方向への意識を作る)
  • ワカメ体操
    • 波役の人に後ろから押してもらう
    • 前後左右から押してもらう
    • 波役の人数を増やす
  • 即興練習(波の内面化)

 

雑 感

この日は初参加の方がお一人いました。

インターネットでうちのホームページや私のツイッターを見つけて、興味を持たれたようでした。

 

インターネット経由でうちのレッスンに来られた方はたいへん久しぶりです。

たいていは、もともと私の知り合いだったか、うちのレッスン生からクチコミで聞いて来た方です。

やはりネットで見られる写真や文字情報だけだと、来るほうも不安が大きく、つい二の足を踏んでしまう部分があるのだと思います。


ただ、今回初めて参加された方は、その写真や文字情報だけから何かしら感じるものがあったらしく、申込みのメールをいただいたときも、文面からうちのレッスンにかなり期待をされているように私は感じました。

とはいえ、いくら期待をしてもらっても、こちらとしては「できること」を一生懸命することしかできないわけで、そうして一生懸命やった上で「あ、これは合わないな」と思われたなら、無理に引き留めたりはしないです。

それは「ご縁がなかった」ということですから。

 

結果的には、その方はレッスンを実際に体験されて得た氣づきがあったようで、入会手続きに必要な書類を受け取って帰られました。

2月1日のワークショップにも参加を希望されており、なにやらよほど「響く」ものがあったようです。

そ、そうなのかぁ。

 

でも、私は自分がそれほど「特別なこと」をしているとは思っていません。

人々が日常的に無意識に行っているあれやこれやを、もっと具体的に、はっきり自覚できる形で提示したいと思っているだけです。

たとえば、コップやドアノブなどを掴むときに私達の身体はどういう風に「目的地」へと導かれているのか、人と人がかかわる時にそこでは「何」が行き交っているのか、そういった「現に私達が日々おこなっていることの基盤」のほうに、私は興味を持っています。

普段の私達が氣づかずにおこなっている物事へ、自覚的に意識を向けるための装置として、合氣道やダンスを利用しているところが正直言ってあります。

 

なので、複雑なステップとか、高い跳躍とか、鋭いターンとか、そういうテクニックをうちに教わりに来ても、たぶん「幻滅」が待っています。

というのも、私自身にそもそもそんなに高いスキルがないし、私にとって興味があるのは、「テクニックそのもの」ではなく、「テクニックを使っている人の在り方」のほうだからです。

 

ずいぶん昔に、私の恩師である舞踊家の櫻井郁也先生から、「馬鹿馬鹿しいことに命をかけるカッコよさというものがある」という話を聞いたことがあります。

前後の流れを忘れてしまったのですが、ここのフレーズだけは時折思い出します。

先生がいったい何をおっしゃりたくてそのような表現をされたのかは今となっては謎なのですが、「カッコよさ」を最初から目的にする態度はあんまり「カッコよくない」ということは、なんとなくわかります。

 

何でもそうですけれど、「こんなことに一生懸命になるなんて馬鹿げている」と言って遠くから眺めているだけの人は、自分からは何にもやろうとはしません。

「何かを馬鹿にしている人」は、そうすることで「カッコつけている」わけですけれど、自分自身はまるで変わらない。

「カッコをつけている」だけなら、具体的な努力をする必要もないし、挑戦して失敗することもないし、誰かから傷つけられることもない。

いつまでも何も変わらないまま、冷凍された魚みたいに、クールに生きていけます。

 

反対に、「とにかく、ここに飛び込んでみよう」と思って一生懸命になっている人は、周りからは馬鹿にされるかもしれないですけれど、確実に変化していきます。

毎日ちょっとずつ努力して、たくさんたくさん失敗して、時には傷つけられながらも、自分自身しか氣づかないような小さな発見や進歩に、ささやかな喜びを見出していく。

そうしているうちに、少しずつ内側にパッションの炎が宿ってきて、「馬鹿馬鹿しいことに命をかけてるカッコよさ」が結果的に醸し出されるようになっていくのです。

 

「馬鹿にするほう」と「馬鹿にされるほう」のどちらを選ぶかは、けっこう大きい分岐点だと最近はよく思います。

どちらの態度にもそれぞれにメリットとデメリットがあります。

 

たとえば、「馬鹿にするほう」は努力したり失敗したりすることを避けて生きていくことができます。

面倒なことは「やる価値がない」と切って捨てることができるし、失敗してもそのことを誤魔化していられる。

それは「楽しい生き方」ではないかもしれないですが、「楽な生き方」ではあります。

 

これに対して、「馬鹿にされるほう」は毎日毎日面倒くさいことをたくさんしないといけないし、いつも慣れない道を歩くもんだから、しょっちゅう転んで「擦り傷」を作ります。

もちろん、何度も転ぶうちに歩き方と転び方は洗練されていきますが、「傷」はどんどん増えていきます。

 

でも、その過程は本人にとって紛れもなく「生きた時間」です。

「馬鹿にするだけで挑戦しない人」が決して味わうことのない、「自分は生きている」という実感がそこにはある。

そして、忘れてはならないことは、二つの立場を前にしたとき、私達はいつもどちらか一方を選択するしかなく、「イイとこ取り」は決してできないということです。

 

分かれ道を前にして「イイとこ取り」をしようとする人は、本人が望もうと望むまいと、「馬鹿にするほう」の態度に次第に絡め取られていきます。

そして、「そういうのって何か恐いな」と感じ始めた人達が、だんだんと「馬鹿にされるほう」をあえて選ぶようになっていくのだと私は思います。

 

次の記事へ

前の記事へ