【合氣道12/21】あなたはとても「強い人」です

クラス:合氣道

日 時:2014年12月21日(日)・12時~15時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:5名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 鳥船
  • 四方切り
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 歩み足
    • 回転
    • 転換
    • 入身転換(180度と90度)

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術(前半)
    • 逆半身片手取り転換6種
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 逆半身片手取り歩み足転換から氣を通す
    • 両手取り天地投げ
    • 両手取り入身投げ(最初の捌きのみ)
    • 両手取り入身投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

(休憩・坐礼)

  • 体術(後半)
    • 両手取り四方投げ
    • 両手取り小手返し
    • 両手取り一教
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

久々の3時間稽古でした。

両手取りの技を中心に、一個ずつ丁寧にポイントを確認しました。

 

テーマは今回も「先を取ること」です。

「他にすることないのか」と思う人もいるかもしれないですが、これがわからないまま手順だけ覚えても、意味がないと私は思ってます。

合氣道を、ジムのエクササイズや競技スポーツと同じようなものとして考えている限り、「手順通りに身体が動くようになりました」というところから先には進めません。

「その先」があるという発想そのものが欠如したままでは、たとえ何年稽古しても、自分の持っている筋肉や骨格が出せる以上の力を相手に伝えることはできないのです。

 

「別にそれでもいいよ」という人はたぶん十年以上稽古していても、ほとんど進歩しないでしょう。

これはもともと体格に恵まれた人に多い傾向です。

当たり前ですが、生まれてからずっと後出しジャンケンしても許される権利が与えられていたら、その人は「どうしたら勝てるか」なんていちいち考えません。

生まれや身分などに恵まれていたために、幼い頃からうっかり「負ける手」を出しちゃっても、無理やり「勝ち」にしてしまえる人は、「兵法」とはついに無縁です。

 

合氣道を稽古する際、筋肉や骨格に恵まれている人にも同じ事が起こります。

たとえ相手に間合いを詰められてしまっても、相手から先に仕掛けられて後手に回ってしまっても、力任せにそれをふりほどける人は「どうすれば後手に回らずに済むか」について悩んだりしません。

後手に回っても、だいたいは腕力で覆せてしまうのですから、「先を取ること」が本人にとって切実な問題になり得ないのです。


でも、「弱い人間」の場合はそうはいきません。

「後手に回ったら絶対に覆せない」という状況が稽古のほとんどを占めることになるので、そういう人は「負けの気配」に非常に敏感です。

そして、何度も何度も負け続けるうちに、「あ、このまま進むと詰む」ということが、相手と組んだ段階で前もってわかるようになってきます。

「デッド・エンド」に到達する前に、何となくそれが予知できるようになるのです。

 

「弱い人間」は必ず「ここ」を通ります。

「負け」に居着き、「勝者」を羨み、それでいて、そのような自分の「弱さ」について、誰に対してもうまく表現できない。

「弱い人間」というのは、いつだってそういう仕方で「弱い」のです。

 

そのような人にとって、ここから先には二つの選択肢があります。

一つは、「どうせ何をやっても自分は負けるしかないんだから」と諦めて、「取り返しのつかない負け方」をしないで済むよう、自分の命を引っ込めて生きることです。

外界から受けるショックをやり過ごそうと感受性の触手を内側に引き込み、表に出た自分の感情を他人から馬鹿にされないよう表情を凍てつかせ、訴えたい氣持ちを押し殺そうと喉を閉じ、殴りつけたい衝動を抑えるために肩を強張らせます。

そうしているうちに骨盤からは生気が失われ、全身を小さく縮めて怯えながら、「終わり時」がやって来るその日まで、ジッと待ち続けることになる。

 

もう一つの選択肢は、「弱い人間が勝つための仕方」を後天的に身につけることです。

その「弱者が勝つ仕方」こそが兵法であり、兵法の要諦について身体的に教えてくれるのが、先人たちが遺してくれた武道の形(かた)なのです。

 

「後出しジャンケンで負ける手を出しても勝てるような人間」と同じ事をしていては、「弱い人間」は決して勝てません。

かといって、「負けてもいいや」と思って勝負そのものを最初から捨てていたら、自分の生命力を引っ込める方向にしか行けない。

本当に「変わろう」と思ったら、「今度は勝つ」と心に決めていないと、いざという時に踏ん張りがききません。

 

だから、「自分は弱い」という自覚と「もっと強くなりたい」という動機は、武道修行に不要なものだとは私は全く思いません。

むしろ、「自分の弱さ」と直面しないで技術だけ身につけた人間は周りにとっても本人にとっても危険だし、「強くなりたい」と一度も本気で願ったことがないまま稽古を続けている人は、武道の本質的なところがわかるようにもならないだろうと思います。

 

「自分は弱い」と知った人間しか、本気で「強く」なろうとはしません。

人間は必要を感じないことには努力をしませんし、関心を持っていないことはいくら練習してもできるようにはなりません。

だから、「自分の弱さ」は、武道を稽古する人間にとって排除すべき欠点どころか、頼りにすべき「道しるべ」です。

「もっと強くなりたい」という想いも、決して一方的に非難されるような低劣な欲求とは限らず、「弱さ」を受け入れ、「限界」を突き破っていくための原動力にもなりえます。


もちろん、「弱さ」の中に沈み込んで何年も出てこられなくなっている人もいるし(場合によっては二度と帰って来られない)、「強さ」に溺れて自他をいたずらに傷つける人もいます。

でも、「弱さ」のないところに「命がけの跳躍」は起こらないし、「強さ」のないところに「弱者への憐憫」は育ちません。

どっちも必要なんです。

 

上でも書きましたように、弱い人間が強くなるためには「先を取る」ということが重要になってきます。

これは、勝負が始まる前に「勝負のルール」をこっちで決めてしまう技術です。

別な仕方で表現をすれば、「勝負が始まる前に勝つ」ための心構えとも言えます。

今回のお稽古では、一つの方便として、「場の中心を自分で断定する」という仕方で練習をしましたが、「始まる前に終えておく」というこの感触については、お稽古に参加された方々にはなんとなくわかっていただけたのではないかと思います。

 

武道においては「相手を負かす」ことそのものは、大して重要ではありません。

後手に回ってしまった人は「実際に相手を打ち負かす」という結果を見ないと安心できませんが、先を取っている人は相手を負かさなくても安心できるので、わざわざ勝負をする必要を自分の内側に感じないのです。

 

焦って何が何でも相手を負かそうとするのは、「まだ勝ってない」からです。

後手に回った人は、「負けるかもしれない、負けるのは嫌だ」と思って怯えていて、それでいて、その怯えを直接に見る勇気が出せないので、怒りとか嫉妬とかいった激しい感情の助けを借りて、相手を実際に打ち負かすことができるだけのエネルギーを捻り出そうとする。

 

でも、武道家はそういう道を取りません。

「先を取っている人」は、お互いの身体が動き出す前に「もう勝負がついている」ということを知っているからです。

だから、自分にかかってきた相手の首を刎ねることも、あえて殺さずに生かして帰すことも、どっちも選ぶことができる。

どっちも選べるからこそ「戦わないこと」ができるのであって、まだちゃんと対峙してもいないうちから「勝てない相手とは争わない」というのでは、言い方は厳しいですが、逃げているのと変わりません。

 

誰が小さな子供と本気でケンカをするでしょう?

幼い子供と遊んでいる時に、大人がわざと負けてあげることができるのは、「この子の保護者は自分だ」ということがよくよくわかっているからです。

「もう勝っている」から、わざわざ相手を負かさなくても良くなるんです。

 

でも、「やってみないとわからない」というような場合には、試しに仕掛けてみたくなるのが人間です。

後手に回ってビビッていたら、なおさら「手持ちの凶器」を使いたくなる。

人間というのはそういうものなんです。

 

なぜ合氣道には試合がないのか、どうして初心の頃から「先を取ること」について煩く言われるのか、そのあたりの事情が私自身もまだ上手く伝えられないのですけれど、ただ一つ言えるのは、「私が合氣道に習熟できたのは、それだけ私が『弱い人間』だったからだ」ということです。

 

私くらい「弱い人間」でも「強く」なれたんです。

だから、誰だって「強くなれる」と信じて私は教えています。

たとえ、教わりに来る生徒の方がご自分の「強さ」を信じることができなくても、です。

 

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