【ダンス12/25】丁寧に、そして誠実に

クラス:ダンス

日 時:2014年12月25日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:3名

 

内 容

  • 足先~股関節をゆるめる
  • 手の平を開くワーク(二人一組)
  • 想像上のボールの感触を手の平で感じる
  • 正坐で胴体を伸ばす・縮める
  • 四つん這いで胴体を伸ばす・縮める

 

(休憩)

 

  • 腕のポジションの確認
  • 上下の意識(プリエとルルベ)
  • 想像上のボールを感じながら踊る

 

雑 感

これが今年最後のレッスンでした。

クリスマスだというのに、(ダンスクラスにしては)参加者多めで計3名。

ここ数ヶ月続けて通っておられる合氣道クラスの方がお一人と、最初期からのPLATFORMメンバーの方が冬の休暇で仕事がお休みだったらしく久々の参加。

それから、前回初めて参加された方も正式に入会されました。

 

新しく入られた方はたいへん熱心で、私から何かを学び取ろうとするその真摯な姿勢には、教えていて肚に響くものがあります。

「これは嘘をついたり誤魔化したりするわけにはいかないな」と思いますし、「こちらもできる限り誠実に向き合わねば」とも感じます。

 

ところで、いきなり変なことを言うようですが、本気でこちらと向き合おうとしている人の存在というのは、人間の「ヘソ」のあたりに影響を及ぼします。

私がさきほど「肚に響く」と表現したのはこのことを言っているのですが、「ヘソ」がきちんと鍛えられていない人というのは、「真剣に覚悟を決めた人間」を前にするとつい尻込みをしてしまうものなのです。

相手が覚悟を決めているのにこちらの覚悟が決まっていないと、その人と対峙しているだけで「ヘソ」の真裏あたりがゾクゾクしてきて、途中で逃げ出したくなってしまう。

人間には、そういう心身の反応が備わっているのです。


たとえば恋人や友人と「大事な話」をするときにも、この「覚悟の有無」と「ヘソ裏のゾクゾク感」の対応は確認できます。

こういう時に「ヘソ裏のゾクゾク感」に負けて逃げ腰になってしまったりなんかすると、もうその途端に相手から見くびられたり、不意に足元をすくわれたりします。

 

多くの人は、仕事やプライベートの重大な局面で「思い切った決断」をする経験を積むうちに、自然と自分の「ヘソ」を鍛えていくことになるんじゃないかと思います。

かく言う私の場合は、主に合氣道の稽古で「色んな相手とちゃんと向き合う」ということによって、自分の「ヘソ」を鍛えてきました。

そして、これは割と最近になって氣付いたことなのですが、合氣道で色んな相手と真っ正面から向き合えるようになると、日常的にもあらゆる状況に動じなくなってくるのです。

 

稽古では「できたら組みたくないな」と思う相手ともちゃんと組んで、丁寧に坐礼をして、嘘偽りない技をするよう心がける。

そういうことを意識的に続けていると、だんだんと日常的にも「つまらない嘘」をつかなくなりますし、誰に対してもまずは対等に向き合おうとする「構え」ができてきます。

きちんとした「構え」ができていないと、不意打ちをくらってヨロヨロすることも多々ありますが、「向き合う姿勢」が常日頃から途切れなくなってくると、突発的な出来事に遭遇しても心身がぐらつかなくなるのです。

 

もちろん、稽古でも日常でも「ああ、この人はなんか苦手だな」と思う相手と出会うことはありますけれど、そういうときこそ、自分の「ヘソ」を鍛える良い機会だと、最近は思えるようになってきました。

「積極的に誰とでもぶつかっていこう!」とまでは思わないですけれど、「せめて相手と対峙しないうちから逃げたりはすまい」という風に心には決めています。

 

「教室に新しい人がやってくる」というのは、言ってみれば、私の「ヘソ」が試される出来事です。

ちゃんと相手と向き合えるかどうか。

嘘偽りなく対応することができるかどうか。

そういうことが問われます。

 

結局それは、いつも合氣道の稽古でやっているのと同じことです。

相手を自分の力を誇示するための道具として利用しようとしない。

相手を恐れるあまり、できないことをできるかのように取繕わない。

そういう、ある意味で「非常にシンプルなこと」が一番大事だと私は思っています。

 

相手を道具にしたくなるのは、自分の力を証明しないと不安で仕方がないからです。

相手の目の前に立って、逃げも隠れもせず誠実であろうとする姿勢だけでは、「不十分」だと思っているのです。

「自分の存在が持っている力」を信じていない。

だから、相手を現実的に屈服させることによって力を示し、自分の不安を解消したくなるのです。

 

取繕おうとしてしまうのは、欠点だらけで不完全な自分をどうしても受け入れられないからです。

自分の自信に空いた穴を、相手に代わりに埋めて欲しくて、実際以上に良く見せかけようとしてしまう。

でも、それではそのうち相手に寄り掛かること無しには穴を埋めることができなくなるため、本人の不能感と自己嫌悪はますます強まっていってしまいます。

 

私が今までに信頼して師事した先生は何人かいますが、どなたにも共通していた点は、「ちゃんとこちらと向き合っていた」ということです。

そういう人の言葉というのは、「紛れもなく、この自分に真っ直ぐ向かってきている」と感じるものです。

 

もちろん、実際のところはわかりません。

他の人宛の言葉を私のほうで勝手に「これは自分宛だ」と「誤読」してしまった可能性は、十分にあります。

でも、そういう「誤読」を教わる側ができたのは、教える側の人たちが「ヘソで相手と向き合う習慣」を身体化していたからこそだと思うのです。

 

その証拠に、相手と向き合うことを避けようとする人の言葉というのは、決して誰にも刺さりません。

というのも、相手と向き合うことを拒否している本人にとって、「誰にも言葉が刺さらないこと」はむしろ望ましいことだからです。

うっかり自分の言葉が誰かに刺さってしまったりしたら、今度はその人とかかわらざるを得なくなるかもしれない。

だから、誰とも向き合いたくない人にとっては、「言葉が刺さらない」という結果は、「失敗」ではなく、「努力の成果」とも言えるのです。


相手と丁寧に向き合って、誠実に在ること。

 

私にとって「教師の条件」はたったこれだけです。

知識の多寡や技術の高低は問題にはなりません。

なぜなら、これらの条件さえ満たせていれば、知識も技術も教えているうちにあとから勝手についてくるはずだからです。

 

きちんと向き合うことができていれば、教えている途中で自分の力量が足りないということがわかったときに、その事実を自他に対して誤魔化さないで済みます。

相手と向き合うように、自分の欠点や弱点と向き合い、それを克服するための努力を開始できる。

 

だから、他人を教えれば教えるほど、教えている自分のほうも成長していくことができます。

新しい生徒が訪れてくるたびに、その人と向き合うことを通じて、自分の器を大きくしていくことができる。

 

私は、そんな教師でありたいです。

 

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コメント: 2
  • #1

    Kim (火曜日, 30 12月 2014 23:32)

    いつもながら、胸に伝わる言葉で綴られていて、雑感とは言われますが、それを分かち合ってくださりありがとうございます。胸に伝わるのはもちろん身に覚えがあることが書かれているからですが。
    この一年ありがとうございました!そして、素晴らしい新年をお迎えください。

  • #2

    湯浅和海 (水曜日, 31 12月 2014 07:09)

    >Kimさん
    コメントありがとうございます。

    教室を開くことに限らず、自分の主宰する場を創る際には「勇気」が要ります。
    もちろん、活動を続けていくためには「知識」や「技術」も必要になりますけれど、その前に大事になるのは、最初の一歩を踏み出すための「勇気」であると思っています。

    合氣道の稽古でも、自分の順番が回ってきた時に試されているのは、実は「技術」ではなくて「勇気」なのではないかと、最近は思うようになりました。
    勇気をもって「そのまんまの自分」を出せなければ、今のところ技術がどれだけ身についているのかをきちんと検証できませんし、相手もその検証に親身になって付き合ってはくれないのではないかと思います。

    実のところ、以前は自分の書いた文章に誰かがコメントをつけるのが恐かった部分がありました。
    というのも、「批判や反論をされるのではないか」と、私は心のどこかでビクビクしながら書いていたからです。

    そういう態度を見たある人から、「文章が過剰に自己防衛的だ」と批判されたこともあります。
    その時の私は議論するのがおっかなくて、その人の真意を確認しきらずに煙に巻いてしまいましたが、今思えば、「他人から何か言われるのが恐くて、誰もコメントができないような書き方をしている」ということだったのかもしれません。

    ようするに、私はビビリながら書いていたのでした。
    でも、今年は前よりちょっとだけ「勇気」を出して文章を書けたように思います。
    実際、こうしてコメントをしてくださる人も現れたわけですし(笑)

    いつもお読みくださり、本当にありがとうございます。
    良いお年をお迎えくださいませ(^^)