【合氣道01/13】本当の自分

クラス:合氣道

日 時:2015年1月13日(火)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:4名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 鳥船
  • 四方切り
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継いでから送り足
    • 継いでから線を換える足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り転換6種(偉そうにやる)
    • 逆半身片手取り歩み足転換(相手の向こう側を意識)
    • 逆半身片手取り歩み足転換から相手と同化して崩す
    • 正面打ち入身投げ(相手を迎え入れる心地で)
    • 正面打ち四方投げ(相手の脈を正確に取る)
    • 正面打ち一教
    • 正面打ち内回転投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

 

居残り稽古(希望者のみ)17時~18時

参加者:1名

 

内 容

  • 正面打ち小手返し
  • 正面打ち呼吸投げ2種
  • 正面打ち二教
  • 正面打ち三教

 

雑 感

今回は参加者4名のうち3名が足袋を履いてました。

足袋を履いて稽古をするのもだいぶ定着したようですが、まあ、それだけ寒いということもあるのだと思います。

王子は畳が「冷たい」というレベルではなく、もはや触れている足裏が「痛い」と感じるくらいなので、足袋を履いていないと氣持ちが引っ込んで皮膚の感度も下がるし、稽古にも集中しにくいでしょう。

 

毎度書いてますが、足袋を履くと体感温度が高く保てるだけでなく、足の親指と第一中足骨に意識が集まって腰も安定します。

よその道場でお稽古に参加するときには当然そちらの規則に従ってもらいますが、PLATFORMではそういった事情もあってむしろ足袋着用を奨励しております。

足袋をお持ちの方は、じゃんじゃん履いてください。

 

特に、雲才足袋と表記されているものは下の部分が「石底」という丈夫な構造になっており、武道の稽古で使ってもへたりにくいようです。

「稽古で履くのに新しいのを買ってみようかな」と思っておられる方にはオススメいたします。

 

さて、稽古の内容についても少し書いておきます。

今回は正面打ちをお稽古しました。

正面打ちは、お互いに手刀で切り結ぶ形を取るので、つい相手の体とガチーンとぶつかってしまいがちです。

そうやってゴチゴチとぶつかる経験が何度も重なると、「きっと次もぶつかるに違いない」という氣持ちが無意識に起こるようになってくるので、私達は衝突を避けようとして相手の体を大きく迂回する経路を取ってしまいます。

 

しかし、これでは入身するときにも相手と距離が離れてしまいます。

頑張って足をたくさん使って、相手との距離を詰めようとしても、どうしても身体的に同化できない。

お互いの間に「スキマ」ができてしまう。

 

こういうとき、本人は「こんなに頑張っているのに、まだ動き方が足りないのか…」と思ってしまうかもしれませんが、実は「動き方が足りない」のではなくて、「必要以上に動きすぎている」のです。

相手を前にして「この人との距離を詰めなければ」と思って身構えるとき、知らず知らずのうちに当人の重心は後ろに引けてしまっています。

「この人の背後に回るのは容易なことじゃないぞ」と思えば、当然「できないかも」とか「やっぱ自分には無理かな」とかいったことを想像してしまうものです。

そして、そういう想像をすればするほど、足は動かなくなり、腰は重くなってしまう。

 

いくら相手の体が大きいとは言っても、体長数十メートルもある恐竜ではないのですから、直径1メートルくらいの水溜まりをひょいと迂回する程度の動きで十分背後を取れます。

でも、水溜まり相手だとできることが、人間相手だとできなくなってしまう。

というのも、人間は水溜まりのように止まっていてはくれないし、こちらが失敗したり無様に転んだりしたら、それに対して「あまり望ましくない反応」をするかもしれないからです。

だから、ついそういったことを意識してしまい、身体はカチコチに固まり、心は「きっと無理」という後ろ向きな未来を描き始めることになります。

 

そして、それゆえに、余計に頑張らないと目的を達成できないのです。

なんの気負いもなく自然体で立っていれば、そのまま歩いて行けばいいわけですが、「無理そう」とか「頑張らなきゃ」とかいったことを考えて無意識に重心が後ろにかかっていると、スタートからしてマイナスになります。

これでは、100メートル走ればいいところで、自分からさらに50メートル後ろにさがってしまうようなものです。

 

合氣道の動きは、先生の見本をただ見ているだけだと「あ、なんか自分にもできそう」と素人目から見ても思えます(私自身よくそういう感想を聞きます)。

動きとしてはそんなに難しいこともしてないし、高度な身体能力がないと再現できないような運動(空中三回転ジャンプとか)もほとんど入っていないからです。

 

でも、自分で実際にやったことのある人はどなたも知っていますね。

「こんな簡単そうなことが、やってみると全然できないもんだ」ということが。

 

変な話なんですが、往々にして合氣道の体術を難しくしているのは、稽古している本人自身なのです。

人間というのは「簡単で楽な道」を探しているようでいて、実は「難しいこと」が大好きです。

自分でハードルを吊り上げておいて、それを努力に努力を重ねて乗り越えようとします。

 

というのも、そのほうが達成感があるからです。

私達はことトレーニングにおいては、辛いことに耐えているときのほうが、「意味のあることをしている」という実感が得やすいので、「意味」を作り出すために「痛み」を捏造するということをたまにします。

 

たとえば、瞑想においては「無念無想だ、何もせずただ在れ」とかいったことが言われます。

「何もしないでいる」ということは一見すると簡単そうですが、実際にやってみるとすごく難しい。

というのも、「本当に何もしないだけでいいんだろうか?」とか「瞑想はもっと難しいもののはずだから、実は今の自分は瞑想できていないんじゃないだろうか?」とかいった疑問が次から次に湧いてくるからです。

 

「何もしないでいる」なんてことは生まれたばかりの赤ん坊でもできますが、大人には難しい。

大人の場合、瞑想をする前までは存在していなかった問題を、瞑想をしながら新たに作り出してしまうからです。

つまり、自分から進んで自分のやっていることを難しくしてしまうわけです。

 

ここには、「どうして人間は難しいことを好むのか」ということの、もう一つの理由が表れています。

それは、「難しいからできない」という「壁」が自分のまわりを取り囲んでくれていると、今ここにいる「ありのまま自分」を見つめなくても済むという点です。

 

そもそも、「実際にはできるだけの能力があるのにできない」という場合、当人は本当に自分の持っている力に氣付いていないのでしょうか?

私はそうは思いません。

人間は自分が持っている力に潜在的には氣付いています。

そして、その「力」に心のどこかで怯えている。

怯えているから、潜在的には氣付いているのに、表層では氣付くことがないように誰もが自分で自分に「リミッター」をかけています。

というのも、もし「こんなことができるだけの力が自分にはあったのだ」ということに氣付いてしまったら、その持てる力を全面的に開花させるために、多くの物事と向き合わなければならなくなるからです。

 

さきほど、「問題を難しくしているのは当人自身だ」と私は書きましたけれど、「自分の力」に氣付いた人間は、「問題をわざわざ難しくすることによって自分はこれまで何から目をそらして生きてきたのか」を直視せざるをえません。

つまり、技術を習得する過程を通じて、人としても変わらなければならなくなるわけです。

 

そのためには、ずっと必死に守り通してきた「できない」という「壁」を、もう一度ぶち抜かないといけない。

「今のままの自分」であり続けることを捨てて、できないと思っていたことができるような「新しい自分」へ変わっていくためには、これまで自分を守ってくれていた強固な「壁」を思い切って壊さないといけないのです。

 

それは恐いことでもあるし、多くの場合、苦痛も伴います。

この「変化に伴ってもたらされる痛み」の予感が、人を「できない」に縛り付けることは実に多いです。

 

でも、できる。

本当はできるのです。

なぜなら、私達はみんな「できるだけの力」を持って、この世に生まれてきたのですから。

 

当人にとって必要なのは、「できる自分」を受け入れるための覚悟を決めることだけです。

 

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