【合氣道01/18】相手より先に創造する

クラス:合氣道

日 時:2015年1月18日(日)・10時~12時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:2名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 鳥船
  • 四方切り
  • 足捌き
    • 送ってから継ぎ足
    • 送って継いで送り足
    • 送って線を換えてから継ぎ足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り転換6種
    • 逆半身片手取り歩み足転換(相手の正中線を意識)
    • 逆半身片手取り四方切り4種(自分の正中線を意識)
    • 逆半身片手取り四方投げ4種(相手の手首を取る)
    • 逆半身片手取り入身投げ(身体の向きをはっきり作る)
    • 逆半身片手取り小手返し(まっすぐ入ってまっすぐ足を引く)
    • 坐技呼吸法(意識で相手を貫いて崩す)
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

晴れていたおかげもあってか、今回はそれほど寒くなかったです。

参加者はPLATFORMのメンバー2名。

そのうちのお一人は、年明けからの合氣道クラス全6回にフル参加しています。

今は詰めてやりたい時期なのだそうで、お稽古中の顔つきも引き締まっており、とても集中している様子です。

 

その方に限らず、このところ、稽古へ参加する方たちの集中力が増してきているように感じています。

生徒の方がぐっと意識を集中すると、突然ガラッと動き方が変わる場合もありますが、そのような瞬間に立ち会えるのは、教えている人間として嬉しいものです。

 

そういった参加者の様子をここ最近見ていたためでもありますが、今回は「きっちり動く」ということをテーマにお稽古しました。

動きを曖昧にせずに、キチッ、キチッと手順通りに動く。いわば「楷書」の練習です。

 

今回参加したメンバーは、こういう練習を少し堅苦しく感じたかもしれませんが、自分の姿勢や動きの線を丁寧に確認しながら練習するのも大事なことです。

参加者は今日やってみてわかったと思いますが、線を明確に定めて動くようにすると、自分の姿勢がどういう場面で崩れやすいかが、はっきり自覚できます。

どこで無理な動きをしているか、どこで意識が曖昧になるか、そういったことを丁寧にチェックする作業は人数が多いと難しいですが、今回は2名だけということでじっくり時間をかけて確認できました。

 

今回のような「楷書」的な稽古は、なるべく「減点方式」にならないようにするのが重要だと思って、指導している間、氣をつけていました。

というのも、手順通りできていないところを次から次に見つけて、「ここがダメ」と言って注意していると、相手のできていないところを「修正」しているのではなく、一方的に「監視」しているような状況に近くなってしまうからです。

そうなると、指導される側には「間違うことへの恐れ」が兆しやすくなりますので、ますます動きが縮こまって固くなり、その結果として、余計に「ここができていない!」と叱責されることになってしまいます。

これでは「相手の動きを良くしようとし過ぎて、かえって動きを悪くする」という負のループに入ってしまう。

 

なので、今回私は「減点方式」ではなく、「一問一答マルバツ方式」で指導するよう意識してみました。

無数に設問を用意しておいて、「それら全部に解答できないと減点する」というやり方ではなく、「やるべきこと」をなるべくシンプルに少ない数で提示して、そこができているかどうかだけを見るようにしたのです。

 

たとえば、「相手の正中線を意識する」とか「自分の正面をまっすぐ切る」とか、そういうシンプルな課題を設けて、それができているかどうかにだけ意識をフォーカスしてもらいました。

「結果としてうまく動けているかどうか」はあまり優先せず、「今の課題をきちんと認識できているか」や「その課題へ意識をちゃんと向けることができているか」を重視しました。

「何ができたか」を見るのではなく、「こういうことをしよう!」という「意志の密度」がその時どれだけ濃くなっているかを見たわけです。

 

この「意志の密度」は、体術で「場の在り方」を決める際にとても重要になります。

「場の在り方を決める」というのは「結界を作る」とも表現しますが、これをしないと、道場内のどこが「立ってよい場所」でどこが「立ってはいけない場所」かが決まりません。

だから、「結界」を作らないでぼんやり立っている人にとっては、道場内の全ての空間は均質に見えます。

そういう人にとっては、どこも同じくらい「立ってよい」ように思えるし、「立ってはいけない場所」があるということにも氣づけません(師範にお尻を向けたまま平氣でいたり、受身を取るスペースが無いところに向かって相手を投げたりしてしまうのは、だいたいこういう方です)。

 

もっと言えば、道場内の空間に「濃淡」がないと、そもそも動きというものは生まれてきません。

別に「濃淡」がないのっぺりした空間を無理して動いてもいいですけれど、そういう動きには「必然性」がないです。

「動きに必然性がない」というのは、言い方を換えれば「やらなくていいことをしている」ということですが、どうしてそういうことになってしまうかというと、「自分のやること」をきちんと決めないで、何となくぼんやり動いてしまうからです。

 

なので、ぼんやりしている人は日常のあらゆる局面で「先」を取られ続けます。

「場のルール」をいつも誰かに決めてもらって、後からそこに乗っかってしか動けず、「他人が作った結界」における「他人が定めた必然性」に、ただただ流されていってしまうのです。

 

だいたいそうやっていて失敗すると、当人は「だって『そういう空氣』だったから、他にどうしようもなかったんだ」と言い訳するものですけれど、それは結局、他人が「結界」を作る前に、「自分のやること」を決められなかったからです。

他人より先に「自分の結界」を作っていれば、「そういう空氣」になるもっと前に、打てる手がいっぱいあったはずなのですから。

 

武道では先に「ルール」を決めたほうが主導権を握ります。

集中した「意識」によって、何も無いまっさらな空間に「濃淡」を先に作ったほうが勝つ。

 

これは、「積極的に創造を意志する人間が勝つ」と言い換えてもよいです。

でも、もし遅れれば、誰かが先に作った「結界」に従うほかはありません。

 

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