【ダンス03/26】瞑想的に生きる

クラス:ダンス

日 時:2015年3月26日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:2名

 

内 容

  • 我執と瞑想状態についての解説
  • 身体をゆるめるエクササイズ
    • 足と脚のグルーミング
    • 腕のグルーミング
    • 肩の一点を意識する
    • 邪気の吐出
    • 下丹田を活性化するワーク
    • 骨盤の一点を意識する
  • 胴体の体操
    • 正坐で丸める・反る
    • 正坐で伸ばす・縮める
    • 上記二つの複合動作

(休憩)

  • バレエ
    • プリエとルルベ
    • バットマン(タンデュとジュッテ)
    • ピケ・ターン
  • ダンス
    • 胸の中心を意識する振り付け

 

雑 感

今回は、レッスンの最初に少し黒板に板書をしつつ、瞑想状態の重要性について解説を行いました。

 

「瞑想」と一口に言ってもいろいろな定義があり、人によって解釈も体験内容も様々です。

そういった各種瞑想体系について、全てを網羅的に整理してまとめるだけの力は私にはありませんが、ここで私が「瞑想」という言葉で意味しようとしていることがどんなものであるのかについてだけは、示しておこうと思います。

 

今の私にとって「瞑想状態」とは、「判断を保留しながらもそれと同時に行動することができるような心身のモード」を指した言葉です。

「判断を保留にしていたら行動なんてできるわけないだろ」と言う人もいるかもしれませんが、そうでもないですよ。

だって、人間というのは、目の前の状況を「なんかよく分からん」という風に思いながらも、それと同時に「よく分からない」という事実を勘定に入れて自分の思考を記述したり何かしらの行動を起こしたりすることができる、まことに希有な生物だからです。

私の師である内田先生は、あるところでこう書いています。

 

ラカンの比喩を借りると、こういうことだ。私が船に乗っているとする。夜の闇の海上に何か揺れるものが見えた。それは何か気になる規則的な動きをしている。機械であれば、その何かを既知のものに同定するだろう。「何だか分からないもの」が何であるか(鯨である、難破船である、月の反射である…)とりあえず決定する。というより機械には「決定しない」ということができない。しかし、人間は何かを見たけれど、それが何かを「決定しない」ということができる。「何時何分、経度何度、緯度何度、しかじかの物を確認す」とだけ航海日誌に書き記すことができる。「それが何を意味するのか分からないものが、ある」ということを受け入れられるのは人間の知性だけである。

(内田樹(2004年)、『他者と死者』、海鳥社、124頁)

 

人間には「何だか分からないもの」を、分からないままに受け入れて保持しておける能力があります。

機械の場合はそうはいかず、分からないという状況を維持することができない。「何であるか」を決めてしまってからしか、何をも為しえないのが機械です。

 

そして、この能力、「未知なるものの『未知性』を壊さないでおける能力」を持っているというわずか一点によってのみ、人間はそれ以外の動物と異なっているのです。

というのも、動物もまた「それが何であるか」についての判断を留保する力を持たないからです。

 

たとえば、山の獣除けに設置された畑の案山子について考えてみましょう。

動物は畑の案山子を見て「ああ、あそこに人間がいる」と思ったら警戒して行動するでしょうし、「ああ、あれは人間の偽物だ」と思ったら警戒を解いて作物を荒らしていくでしょう。

動物は案山子を「人間だ」と判断するか、「無害な偽物だ」と判断するか、そのどちらかに反射的に決めてしまいます。

文学作品に出てくる擬人化された動物ならともかく、現実の野生動物たちは、己の判断に自力で「待った」をかける術を持たないのです。

 

「そんなの人間だって一緒じゃないか」と言う人もいるかもしれないですが、違いますよ。

人間には「あれは人間かもしれないし、案山子かもしれないし、それ以外の全く別のものかもしれない。とりあえず、まだよく分からないから、分かるまでは慎重に行こう」という風に、「最終的な判断」を遅らせながら自分の暫定的な行動を選択することができるんですから。

 

人間は、動物のように「危険なもの」か「安全なもの」かをさっさと決め込んでしまって、「ものすごく警戒するか完全に無警戒になるか」という両極端に走らず、次に起こることを冷静に観察しながら、判断を先送りにすることができます。

このように、警戒と無警戒の「中間地点」で自分自身を宙づりにしながら、どっちにも着地しないで微妙なバランスをとり続けるという芸当は、およそ人間にしかできないことなのです。

 

私にとって「瞑想状態」というのは、このような「中間地点に留まっている状態」のことです。

それは、あらゆる「最終的判断」を留保しつつ、できる限りの情報を集め、取れる限りの行動を取る用意ができた状態です。

 

またこれは、「肚が決まった状態」と言ってもいいです。

「肚が決まる」というのは、「物事を判断する」のとは別の次元で起こる身体的な現象です。

「物事の判断がつかない状況」で、「これから何が起こるかは全く分からないのだけれど、とにかく自分にできることを精一杯やろう」と心に決めた状態、または、「判断できない」という状況を丸ごと受け入れた状態、とも言えます。

 

このような「中間地点」には、多くの場合、長く留まることができません。

なぜなら、私達人間の知性にも、機械的・動物的な部分が多く含まれており、すぐに「安直な答え」へ飛びつきたがる傾向があるからです。

だから、多くの人は辛抱して「答え」を出すのを待つことが、なかなかできない。

 

また、仮に「判断を先送りにする」ことはできても、「それと同時に行動する」となると、できない人はけっこう多いです。

「うーん、何だかよく分からないな」ということはすぐに認めるものの、そこから「まあ、よく分からないけど、ひとまず今はこうこうこういう方針で行ってみよう」とはならずに、「よく分からないから何もしない」という「消極的な無為」へと多くの人たちは自動的に流されていってしまう。

でも、それは結局、「『よく分からない』ということが自分にはよく分かった」という風に、判断を放棄しているだけなのです。

 

「中間地点」に留まる場合、「分かりやすい答えに飛びつく」のも差し控えないといけないし、「分からないということが分かった」という風に思考停止するわけにもいきません。

これには勇氣と忍耐が要ります。

 

また、身体が偏っていると、ある種の動きを反射的に取りたくなってしまうので、「中間地点」に長く留まるためには身体の歪みや偏りを個別に取り除いていかねばなりません。

たとえば、姿勢がいつも前のめりになっている人は、あともうちょっと待つべきところで堪えきれずに、一人だけ突っ込んでいってしまいがちです。

他にも、首肩が強張って重心がいつも浮ついている人は、わずかなショックから身体が大きく動揺しますので、パニックに陥りやすい。

 

身体を整え「自分の真ん中」に留まること、それこそが「瞑想」の基礎を形作ります。

また、そうして「自分の真ん中」に長く留まっていると、次第に息が深くなっていくことにも氣づくでしょう。

というのも、「真ん中」に留まっていると、身体は何かしらの外的目標(褒められたい、愛されたい、自分の力を誇示したいetc)に向けて駆り立てられることが無くなって、余分なエネルギー消費をしなくてよくなっていくからです。

余分なエネルギーを使わなくなると、身体は自分自身の生命力を高めることに集中できるようになる。

そしてその過程で、息が深まったり、皮膚の感度が敏感になったり、視界が鮮明になったり、といった身体的な変化が起こるのです。

 

また、そんな風に生命力が高まってくると、氣持ちも透き通って「透明」になってきます。

感情の波が徐々に静かになっていき、怒りや恐れや悲しみなどの負の感情に振り回されることがなくなってくる。

 

そして、これはとても大事な点なのですが、感情に振り回されることがなくなればなくなるほど、感情のほうを自分の意志で主体的に利用することができるようになってくるのです。

たとえば、怒りの感情を利用することで、歪んだ性根を正すような叱り方をすることができたり、喜びの感情を増幅して、周りの人々にその波動を分け与えることができるようになります。

このことは、どれほど強調してもし足りないくらいに大切な、「瞑想の効果」の一つです。

 

怒りを主体的に利用するのではなく、怒りに受動的に支配されたままだと、「怒りをぶつけて力を誇示したい」とか「溜まった鬱憤を晴らしたい」とかいった自己都合が優先し、叱る相手のことが見えなくなってしまいがちです。

それでは、本当の意味で「相手のために叱る」のは難しい。

でも、感情をこちら側から支配できるようになると、怒りを使うことが今現在本当に必要であるかどうかについて、自分自身で見極めることができるようになってくるのです。

 

ところで、感情を支配し、自分でそのつど適切な仕方でこれを利用するためには、全ての感情から均等に距離を置いた「中間地点」にいないといけません。

逆に言えば、「中間地点」に留まることができるようになってくれば、「感情に支配される状態」から、「感情を選択できる状態」に変わっていくということです。

 

そのとき人は、「自分は不幸だ」と感じることも、「私は幸福だ」と感じることも、どちらも好きに選ぶことができるようになります。

というのも、本人には「どっちを選んでも同じだ」ということがはっきりわかっているからです。

もちろん、別に自分の選択によってこの世界が具体的に変わるわけではありません。世界そのものは元のままです。

でも、その世界を見ている自分自身はいくらでも変えることができます。

「同じ世界」を「別な仕方」で見ることはいつでも可能であり、それゆえに、「幸せな世界」と「不幸な世界」のどちらの世界に住むことにするかも、人間は自分の力で選べるのです。

 

「中間地点」に留まること。

私にとっての「瞑想」とはこのことです。

それは言い方を換えれば、「人間自身の力で己の運命が選択可能になる場所へと身を置くこと」です。

 

「瞑想」が深まらない限り、人は「自分が何のために何をしているのか」について曖昧な氣持ちを抱えたまま、己の人生を生きていかねばなりません。

そして、そんな風にいつも氣持ちが曖昧であるがゆえに、本人は何をしていても全身全霊でその行為に取り組むことができないのです。

「まあ、そのうち準備ができたらやればいいさ」とぶつぶつ言っては、結局何もしないまま年を取っていってしまう。

 

「自分は何のために生まれてきたのか」を知りたければ、少しずつでも「曖昧さ」は除去していかねばなりません。

というのも、「明確な意識」を持って生きる人だけが、「そうか、自分は今日この場所でこの人と出会うためにこれまでの人生を生きてきたのだ」と心から信じることができるからです。

 

もちろん、その宿命観は別に「フィクション」だって構わないんです。

なぜならここで問題になるのは、そうして自分で作り込んだ「フィクション」に有り金を全部かける覚悟を持てるかどうかだからです。

 

「今ここで自分がこうしていることは、宇宙の始まりから決まっていた」という「フィクション」を信じることに自分の魂を預けられる人は、一日たりとも無駄に生きたりはしません。

与えられた一日一日を全力で生きます。

なぜなら、それこそが彼の喜びの源泉だからです。

彼は彼自身の喜びのために、「手を抜く」ということをあえてしないのです。

 

動物のように感情に支配されている限り、「自分の宿命」は見えてきません。

感情を選択できない人は、いつも怒りに突き動かされ、恐れるがゆえに自分の命を内側に引き込み、悲しみによって過去に縛られ未来に向かって動いていけない。

 

感情を自分で選択できて初めて、「自分の天命」も己の意志で選ぶことができます。

「このために自分は生まれてきたのだ」という「大嘘」を、命がけで守ってみせることができるようになる。

 

それが私にとっての、「瞑想的な覚醒」です。

ぼんやりと曖昧に眠ったままで生きることなく、明確な意識を携えて覚醒して生きる。

それが「瞑想的な生き方」というものなのです。

 

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