【合氣道03/31】愉快な心持ちで稽古しましょう

クラス:合氣道

日 時:2015年3月31日(火)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:4名


内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 送ってから継ぎ足
    • 線を換える送り足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り転換・氣の流れ六種
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 逆半身片手取り四方投げ(氣の流れ二本目)
    • 逆半身片手取り呼吸投げ(氣の流れ一本目)
    • 逆半身片手取り呼吸投げ(氣の流れ三本目)
    • 逆半身片手取り入身投げ(氣の流れ四本目)
    • 逆半身片手取り一教
    • 逆半身片手取り内回転投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸


雑 感

春です。

窓を開けると道場の外には桜が咲いており、吹き入る風もまた心地よいです。

何が言いたいかというと、寒くなくなって稽古がしやすくなりました。


もう畳の冷たさに怯える必要は無いのだ。

足袋を履いてないと足裏が痛くて稽古に集中できないとか、そういうことも無いのだ。

善き哉。


春になると身体も開いてきます。

寒さの中で閉じていた骨盤や肩甲骨がユルユルと開放されてきて、動きも氣持ちも伸び伸びしてきます。

だからこそ、春は新しいことを始めたくなる季節でもあるわけですが、合氣道を愉快に稽古していく上でも大変に良い季節であります。


ところで、私はいつも「合氣道」と表記していて、「合気道」とは書いてません。

これには明確な意図があります。

それは、「氣」という文字が「エネルギーの開放と循環」を促す意味を持っており、反対に「気」という文字が「エネルギーの固定と切断」を意味することと関係しています。


…ってサラッと書くと、「ふーん、そうなんだ」と単なる豆知識みたいに読み流す方がおられるかもしれないですけれど、これは私にとってはただの「トリビュアルな豆知識」ではなくて「身体的な事実」です。

たとえば、以下の写真をご覧ください。


これらは、今さっき私が説明のために筆ペンでノートに書いた文字ですが、これらの文字の前に手の平が画面に向くよう左手を差し出し、ちょうどバイバイをするように手を振ってみてください。


どうでしょう、「気」と「氣」の違い、わかりましたか?

「気」の前に手をかざして振ると左から右に振るときに抵抗が少なく感じ、「氣」の前にかざして振るときには右から左に振るときに抵抗が減ります。

 

いや、別に「そう感じるのが正解」というわけではなく、私の感覚ではそうなんですね。

皆さんはどうでした?

 

とりあえず、私の感覚で話を続けさせてもらいますね。

「気」という字の前で手を振ると時計回りに氣が巡りやすい。

「氣」という字の前で手を振ると反時計回りに氣が巡りやすい。

 

で、日常生活において時計回りと反時計回りがどういうところにあるか思い返して欲しいのですが、上から見て時計回りというのはネジを締めたり蛇口を閉じる時の方向です。

反時計回りにするとネジは抜けて、蛇口からは水が流れ出します。

日常的に使う色んな道具は、時計回りに動かすと締まったり閉じたりし、反時計回りに動かすと開いて流れるように作られているものが多い。

たぶんそのほうが、人間の運動として「しっくりくる」ということなんでしょう。

 

他にも、頭上から見て時計回りに回ると身体が重くなり(求心的作用)、反時計回りに回ると身体が軽くなる(遠心的作用)ということも起こります。

これは、その場でグルグルと回った後に、誰かに身体を抱えて持ち上げてもらうと確認できます。

 

小さい子達が遊んでるのを見ると、回る方向を本能的にそのつど選んで回ってます。

彼らの身体を抱えてグルグル回してあげるときも、回すと笑う方向と回すと表情が硬くなる方向がある。

その時々の子供の身体の欲求として、どっちがよりふさわしいかによって反応が変わってくるようなのです(ひょっとすると、北半球と南半球で方向が逆になるのかもしれませんが、私は南半球に一度も行ったことがないので感覚的に違うのかどうかは知りません)。

 

はい、胡散臭い話ですね。

陰陽五行などの東洋哲学による理論的な説明はできるっちゃできますが、最終的には「とにかく私はそう感じる」ということしか言えません。

だから、こちらとしては「あなたもまたそう感じるべきだ」とは申しません。

ただ、たとえ誰がどう感じようとも、私自身は「『気』は断絶を意味し、『氣』は循環を促す」という風に感じて生きているのです。

 

だから、文章を書く際にも誰かと話すときにも、この二文字を意識的に使い分けています。

さすがに友人知人とメールのやり取りをする際などには、相手も読みづらいでしょうからいちいち全部「氣」の字では書きませんが、このブログのような自分のスペースで文章を書くときには、なるべくすべて「氣」の文字で表記を統一しています。

昔の記事では「気」で書いてたんですが、あるとき「ああ、これはやっぱり感じが違うわ」と思い、以降ずっと「氣」のほうを使って文章を書いてます。

それは、私が「氣」というものを「止まることなく循環させるべきもの」だと思っているからです。

 

「氣」というのは、ある意味で水と同じなんです。

水は、雨水や川の水、海水や雲へ形を変えて流れ続けることによって、この地球上で様々な働きを為すことができる。

しかし、いかに水と言えども、一所に長く留まれば腐ります。

「現に活発に循環している」ということこそが、水にその命を全うさせている要なのです。

 

「氣」もまた同じです。

「氣」は丹田などの身体の各センターに一定量溜めておくことができますが、それをいつまでも外に出さないように溜め続けると、やがて「氣」は「気」として機能し始めます。

つまり、本人の生命力を止めたり閉じたりする方向に作用し出すのです。

 

さて、ますます胡散臭い話になってきましたので、こっからは眉に唾つけて聞いといてくださいよ。

 

受け渡すこと、次々とパスすることこそ、「氣」を活発に働かせる秘訣です。

そして、合氣道はお互いに「氣」を出し合って稽古するのが大前提ですが、現代日本のほとんどの人達は、自分の外側に強固な「バリア」を作っていて、「氣」を外に出すことができない状態がデフォルトになっています。

 

そんな風に私達がついつい「バリア」を作ってしまいがちなのは、おそらく「外部からのストレスを中に入れないようにするため」と「自分の内側のドロドロした嘘や誤魔化しが不意に外部へ漏れてしまわないようにするため」でしょう。

まあ、理由はどうあれ、私の見るところ7~8割くらいの人は「氣」を明確に意識して外に出すことができていません。

 

そういえば、先日友人の結婚披露宴で行った京都のブライトンホテルの従業員の方々は、食べ物をサーヴする時や来賓の方をエスコートするときに、かなりはっきりと「氣」が出てました。

私はホテルのブランドについては門外漢なんでよく知らないんですが、あそこはきっととても良いホテルだったのでしょう。

 

とにかく、多くの人は「氣」が明確に外に出せないのでいるので(たとえば、コンビニの従業員とかだと店長クラスの人しか「氣」はまず出てないです)、閉じっぱなしの「気」を「氣」として外に出せるようになるだけで、合氣道は見違えるように上達します。

というのも、「自分の中で気を止める」ということをやめると、自然と相手との間に「氣の結び」を作ることが出来るようになり、あれこれ体の使い方を細かく工夫しなくても、勝手に自他の存在が調和するようになるからです。

具体的には、相手に送った力がこちらに跳ね返ってこなくなったりとか、お互いの接触している部位が特別に意識してくっつけようとしなくても、ピターっと密着するようになったりします。

 

相手に送った力が跳ね返ってくると、それに対してさらに力を加えて押し切らないと相手を崩したり倒したりできないので、ゴツゴツとぶつかります。

お互いのインターフェースもブツッと切れてしまう。言い換えれば、「結び」が断絶してしまう。

でも、「氣」が豊かに湧きだして外側へと巡っていくようになると、送った力は相手にそのままダイレクトに伝わるので、こっちには返ってこなくなります。

また、お互いのインタフェースも柔らかくなり、自他の境界が徐々に曖昧になっていく。

これこそ「結び」のできている状態でありまして、これがわかっていないと、習った形をそのまんま外側だけ真似するばかりで、「氣の流れ」の稽古をすることはできないのです。

 

合氣道には、実のところ形(かた)というものがありません。

合氣道の開祖である植芝翁先生は、「もし自分で全く新しい技を作り出したと思ったときでも決して自惚れてはいけない、新しい技を生み出せるように教えているのである」とおっしゃっていたそうです。

また、受けがまだ技のかかっていない段階で先に転んでしまったりすると、植芝先生は「作るな!」と言って弟子達を叱ったと言います。

 

合氣道の稽古において動きの手順を定めてあるのは、あくまでも稽古の安全性の確保と、心身の錬磨を行いやすくすることを目的とした方便であって、「それが古より変わらず受け継がれてきた形だから」というわけではありません。

大人数で稽古する際に各自がてんで好き勝手に動いては危ないし、「今はこの動きをする」と決まっているほうが氣持ちのブレもなくなってトランスに入りやすくなりますから、それで「一応の手順」を決めてあるだけの話です。

 

そうはいっても、「どうせ手順は決まっているから」と、曖昧な意識状態でダラダラと予定調和に動いたら全く稽古になりません。

翁先生が「受けを作ってはならない」と弟子を叱っていたのも、「今ここで起こっていることを無視して、勝手に動くな」という意味で言っていたのだろうと思います。

「他でもないこの『今ここ』に、もっときちんと耳を澄ませ」と。

 

だから、「合氣道には形はなく、動けばそれが技になる」という方向で稽古をすることこそが、翁先生の示された「合氣道の本当の道」であると私は信じます。

合氣道に「形」がないのは、それが本質的に即興舞踊のようなものだからです。

もし仮に、前もってある程度シナリオ(手順)が決まっていたとしても、いったい何が起こるかは実際にやってみないとわからない。

そして、動きの中で瞬間瞬間生起する無数のシグナルと濃密なコミュニケーションを行いながら、とにもかくにも自分のステップを踏んでいくと、一息ついてふと振り返ったとき、自分の辿った跡が一本の道になっている。

この「たまさか出来上がった道」のことを、私達は後から便宜的に「技」とか「踊り」だとか呼んでいるだけであって、動いている最中にはただ「万物との和音」があるだけなのです。

 

合氣道の稽古は、お互いに「氣持ち」を出し合って行うのが大前提です。

それは別に難しく考えなくても、愉快に稽古をしていれば誰でもできます。

というのも、愉快な心持ちにあるときは、人は自然と「バリア」を解くものだからです。

 

「バリア」を捨てれば、自ずと「結び」が生まれます。

人とも結べるし、音や景色や動植物とも結べます。

一度「結び」を作れるようになると、「こんな簡単なことがどうして前はできなかったのか」と不思議に思うこともありますが、できないときにはどんなに頑張ってもできなんですよね、これが。

 

でも、「『結び』は愉快なときには誰でもできる」ということについてだけは、私が保証いたします。

愉しそうに一人遊びに興じている子供を見ていれば、きっとそのことはわかるでしょう。

彼ら子供達が、何者とも敵対せず、ただ「宇宙の真ん中」で遊んでいる姿というのは、本当に光り輝いて見えます。

そして、その「天なる心」を大人もまた、合氣道の稽古を通じて取り戻すことができると信じ、私は教えているのであります。

 

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