【合氣道04/01】学ぶのはいつだって自分です

クラス:合氣道

日 時:2015年4月1日(水)・15時~17時

場 所:芦屋市立体育館・青少年センター柔道場

参加者:2名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 線を換える送り足
    • 継いで線を換える送り足

(休憩)

  • 体術
    • 逆半身片手取り転換・氣の流れ六種
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 逆半身片手取り四方投げ
    • 相半身片手取り四方投げ
    • 正面打ち四方投げ
    • 逆半身片手取り一教
    • 逆半身片手取り外回転投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

このところ、呼吸法について解説する動画を撮ってYouTubeにアップしているのですが(ここから見られます)、カメラを前に思いつくまま喋っていると、実に色々なアイデアが湧いてきます。

今回のお稽古でも、喋っているうちに色んなことを思いつき、教えていて自分でも大いに学ぶところがありました。

 

正直、私は「これをこそ伝えたい」というような確固たる思想的内容があって動画を撮ったり教えたりしているわけではないんです。

実態としては、まず「伝えたいという想い」だけがあって、その想いに突き動かされてカメラや生徒さんを前にして喋っているうちに、「伝えたい内容」を後から発見することになっていると言ったほうが、たぶん正確だと思う。

 

まあ、とにかく、教え始める前に私は何を教えることになるのかを知らないです。

もちろん「こういうことをやってみようか」とか「こんな言葉遣いを試してみようか」とかいった事前準備と日常的な工夫はするけれど、そうして準備をした通りになんて進んだ試しはほとんどないし、たまに準備した通りに進んだりすると、教えていてちっとも面白くないのです。

 

これは合氣道の体術やダンスの即興と同じですけれど、私は自分で教えているときには、その瞬間瞬間で現に起こっていることを丁寧に感じて、「伝える内容」よりも「伝わっているという事実」のほうを大事にすることにしています。

つまり、「橋を架けないで一方的に『教育的な物品』を対岸から投げ続けること」よりも、「とにかく橋を架けるように努力し、『ここに橋があります(通行可能です)』と相手に告げ続けること」を優先しているということです。

橋を架けないまま物を投げれば、まあ、「数打ちゃ当たる」かもしれないけれど、当たったところで橋がなかったらその人はどこにも行けません。

「イッテーな。誰だよ、こんなもん投げたの」とか「おお、こんな素晴らしい物が空から降ってくるとは」とか言って、受け取った相手は呪ったり祝ったりするでしょうけれど、橋がなければ、その人は「今までと同じ所」にずっと留まってしまいます。

 

大事なことは、相手が自分の足で「外部」に向かって踏み出すことです。

教師には、橋を架けようと努力することができるし、「ここに橋があります」と相手に向かって言い続けることもできます。

でも、生徒に自分で橋を渡らせることまではできません。

相手の手を掴んで、力尽くで橋のこっち側に連れてきたって仕方がないのです。

 

そういうやり方では、どんな橋を渡っている間であっても、きっと生徒は途中で何も見ないでしょう。

あたかもキレイにパッケージされたツアー旅行に何となく参加している人のように、周りの氣分に合わせて騒いでみたり、写真を撮ってみたりはしても、本人の内側には何の変化も起こらない。

どれほど橋の上から素晴らしい景色が見えていても、本人はそれに氣づけない。

というのも、「他人に強制された学び」は、本人の「見る意志」を挫くからです。

 

見るとは、「見よう」と欲すること。

生きるとは、「生きよう」と欲すること。

 

だから、本人の「見ようとする意志」や「生きようとする意志」を挫く教育は、どれほど外面が愛情深く見えたとしても、偽物だと私は思います。

「自分で橋を渡ってごらん」と告げると、「そんなこと自分にはできません」としばしば言われちゃうんですが、それでもやっぱり私の言うことは変わりません。

 

あなたには自分で歩く力があるのだから、もはや私が要らなくなるところまで、どうか自力で橋を渡っていってください。

 

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