【合氣道04/07】「自分の稽古」をしましょう

クラス:合氣道

日 時:2015年4月7日(火)・15時~17時

場 所:芦屋市立体育館・青少年センター柔道場

参加者:2名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 線を換える送り足

(休憩)

  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 逆半身片手取り四方切り
    • 相半身片手取り入身投げ三種
    • 相半身片手取り四方投げ
    • 相半身片手取り一教
    • 相半身片手取り小手返し
    • 相半身片手取り呼吸投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

今回は王子が取れなかったので、火曜なんですが芦屋で稽古をしました。

参加者は凱風館の方が一名とPLATFORM会員の方が一名で計二名。

このあいだ会員間でトラブったこともあるし、ここ最近来ていた女学院の学生も学校が始まったから、まあ人数としてはきっとしばらくはこんなものでしょう。

 

当たり前ですが、私は誰が来ても来なくても稽古をします。

それも「自分の稽古」だと思って稽古します。

 

いちおう私は「教える」という形式を取ってはいますが、「手取り足取り」ということまではいたしません。

武道の師範は「サービス業」じゃないですからね。

 

もちろん、説明はわかりやすいものになるよう試みますし、全体のペースを見てやることをそのつど工夫もします。

でも、生徒の方々のご機嫌を取ったり軽々に迎合したりはしません(きっぱり)。

 

もし私が生徒の方に良い氣分になってもらえるように振る舞ったとしたら、それは「そうしたほうが道場全体に活気が満ちる」という計算が私の中で立った場合だけです。

生徒の方が伸び伸びと氣持ちよく稽古できる環境は、私の生命力を高めることにも繋がりますから、みんながニコニコして稽古をしてくれるのであれば、あえてバカみたいなこともするし、冗談だって言います。

 

でも、生徒の方にニコニコしてもらうことそのものは私の目的ではなく、あくまでも道場を活き活きした場所にするための手段の一つに過ぎませんから、「言うべきことをちゃんと言わないと相手の生命力がかえってたるむ」と私が判断したときには、「そこはちゃんと直したほうが良いですよ」というような耳の痛いこともお伝えすることにしています。

「できれば今の自分のまま変わりたくないので、そういう話は聞きたくない」という人にも、私はなるべく「そうは言っても、そこを直さないとあなたの命の働きは段々しぼんじゃいますよ」と言います。

本当にそう思うからです。

 

そのうえで、何度言っても変わらない人には私も段々何も言わなくなります。

というのも、自分で変わる氣のない人を変えるなんてことは、たとえブッダにだってできやしないからです。

他人にできるのは、「変わるための勇氣」を本人が出せるように外から支援するところまでです。

そこから先は完全に「個人の領域」なので、私には介入できない。

いや、別にしてもいいけど、「余計な介入」は相手の生命活動を歪める結果になりやすいから、私はなるべくそういうことはしたくないんです。

 

私が思うに、今の世の中で無数に見られる「余計な介入」は、形を変えた「支配欲求」の発露以外のなにものでもありません。

「自力でなんとかすべき問題」に外から土足でズカズカと踏み込む人は、親切なんじゃなくて自分勝手なんです。

自分の弱さや不安を紛らわせるために相手を利用したくて仕方ないのです。

そういう人は自分の精神的な安定のために、思い通りにコントロールできる他人を何人かストックしておきたいと、心の底では本氣で思っている。

 

彼らは他人が「生き物」ではなく「道具」になっていないと怖いんです。

「生き物」はいつどんな風に変化するか予想がつかないし、いつか自立して自分の元から離れていってしまうかもしれないですから。

だから、そういう可能性を排除したい人たちは、身近な人間を「人」として扱わず「物」のように扱うのです。

 

傍目には丁重に扱っているように見えても、「人の物化」を目指している人の「愛情表現」にはいつもねじれと分裂があります。

それは多くの場合、「言っていることとやっていることが食い違う」という仕方で現象します。

たとえば、我が子のことを「愛してる」と口では言いながら、子供が近寄ると身をかわすとか、そういった「表現の食い違い」がいつも彼らにはつきまとう。

 

彼らはたぶん「寂しがり屋」なのだと私は思っています。

他人が離れていってしまうのが怖いのです。

「一人っきり」が怖いんです。

だから、他人のやっていることに「余計な介入」をして、手元に置いておこうとする。というか、縛り付けておこうとする。

 

ダンスでも合氣道でも「一人稽古」ほど大事なものはありません。

「一人っきりで自分の心身を使って遊ぶことができる」というのは、武道においても舞踊においても決定的に重要な能力です。

なぜなら、いずれも「個人の自立」を必要とする技法だからです。

 

「正解」なんかどこにもありません。

他人に「答え」を聞いて回って、それでいったいどうしようというのですか?

私は師範という立場から「こういう風に動くんですよ」と示しますが、それは別に「正解」でもなんでもなくて、ただ「湯浅はそう言っている」というだけの話です。

そのような単なる「一個人の意見」を聞いて、「この人の言うことを信じてみよう」と思ってくれる人がいることで道場での指導は成り立っているわけですが、別に私の言うことが「正しい」という保証はどこにもありはしないのです。

 

「正しいか正しくないかはわからないけど、とにかく信じてやってみよう」といった「学ぶ側の主体性」がないと、いかなる学びも成り立たないという「基本的な話」を私は今しています。

つまり、「湯浅の言うことを信じてやってみる」と決意することに「魂の有り金」をかけられる人だけが、本質的なことを学べるということです。

 

これは、私が教育者として優れているかどうかとかいった手の話ではありません。

たとえ私の教育方法がどれほど優れていても、生徒本人が主体的に学びに来ていないと何も変化は起こらないし、反対に「とにかく信じてやってみよう」と思っている人は、どれほど拙劣な指導からでも何かを学ぶものです。

結局、変わるかどうかは本人次第ということに尽きます。

 

形としては私に教わりに来ているとしても、「自分の稽古」をしている人はいくらでもいます。

そういう人は、どこで誰に習っていても「これは自分の稽古だ」と思って参加しています。

反対に、「自分は他人の稽古にたまたま混じってるだけだ」と思っていると、耳元で何を言われても全部聞き流してしまう。

なぜなら、そういう人は学びに来ているのではなくて、「一人でいる寂しさ」を他人の中に混じることで紛らわせに来ているだけだからです。


茨木のり子の詩にこんなのがあります。

 

一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな森だよ

夢がぱちぱち はぜてくる

よからぬ思いも 湧いてくる

エーデルワイスも 毒の茸も

 

一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな海だよ

水平線もかたむいて

荒れに荒れっちまう夜もある

なぎの日生まれる馬鹿貝もある

 

一人でいるのは賑やかだ

誓って負けおしみなんかじゃない

 

一人でいるとき淋しいやつが

二人寄ったら なお淋しい

おおぜい寄ったなら

だ だ だ だ だっと 堕落だな

 

恋人よ

まだどこにいるかもわからない 君

一人でいるとき 一番賑やかなヤツで

あってくれ

(『茨木のり子集 言の葉3』、ちくま文庫、103~104頁)

 

武道も舞踊も、それをきちんと技術として扱える人というのは、だいたいにおいてみんな「一人でいるときに賑やかなやつ」です。

これは経験的に言って確かです。

 

自分の淋しさを誰かに一方的に癒やしてもらおうと期待している人同士が二人で寄り合ったら、必ずもたれ合いか引っ張り合いになって苦しみます。

おおぜい寄ったなら、そこには「堕落」が待っている。


ダンサーは、観る者に対してまず自分の身体を差し出して与えねばなりません。

武道を稽古する者も、受けの人にエネルギーを届けなければ技はかけられない。

一方的に相手から受け取ることだけを期待して場に立つ者は、必ず後手に回るものです。

 

一人っきりでいても幾ばくかの満足を見出すことのできる人だけが、率先して自分が持っているものを他人に分かち与えることができます。

でも、自分で自分を満足させることのできない人や、自分で自分をいつも退屈させているような人は、先に誰かが与えてくれるまで決して動こうとはしません。

そうして、「なんで誰も自分に与えてくれないんだ」と四六時中不満げに口をとがらせることになるわけです。

 

私はたとえ誰が来ても来なくても「自分の稽古」をします。

誓って負けおしみなんかじゃない。

誰も来なければ、それこそ「一人稽古」をすればいいのです。


それは私が教える立場であっても、人から習う立場であっても変わりません。

なぜなら私は、私以外の誰も私に代わって「自分の稽古」をしてはくれないと、よくよく知っているからです。

 

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