【ダンス04/09】覚醒へ至る道

クラス:ダンス

日 時:2015年4月9日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:3名

 

内 容

  • 身体をゆるめ、心身を統一するエクササイズ
    • 足と脚のグルーミング
    • 手と腕のグルーミング
    • 肩の上げ下ろし
    • 胸と脇のグルーミング
    • 邪気の吐出
    • 臍下に氣を集めるワーク
  • 明確な意識と神経の連携を育てるエクササイズ
    • 肩の一点を意識して動かす
    • 指先が描く円の平面をコントロールする
    • 骨盤の一点を意識して動かす
  • コントラクション・リリース

(休憩)

  • バレエ・エクササイズ
    • 腕のポジション確認
    • プリエとルルベ
    • タンデュ
  • 胸の中心にスポットライトを当てる振り付け練習
  • 収めの呼吸(心を静める)

 

雑 感

先週初めて体験に来られた方が、今回から正式に入会されました。

楽しく参加してくれているようで、私としてはたいへん嬉しいです。

なんだか最近は「ダンスを通じた瞑想の教室」みたいになってきてますが、まあ、私のほうで「他にしたいこと」がないのでね。

「変なところの来ちまったなぁ」と思って、よろしくお付き合いください。

 

突然ですが、ヨガの最も重要な古典の一つである『ヨーガ・スートラ』には、ヨガの修行カリキュラムが以下の八つに分けて説明してあります。


1、ヤマ(禁戒/してはならないことを定める)

2、ニヤマ(勧戒/自己規範としてするべきことを定める)

3、アーサナ(坐法/いわゆる体育、身体の使い方を修める)

4、プラーナヤーマ(調氣/呼吸法による氣の操作)

5、プラティヤーハラ(制感/感覚に振り回されないように制御)

6、ダーラナ(凝念/意識を内外の対象に一点集中する)

7、ディアーナ(静慮/心を静めエゴを溶かす、禅)

8、サマーディ(三昧/自分の存在の最奥に到達する、悟り)

 

これを八支則(アシュタンガ)と呼ぶそうで、私も文献をいくつか読んで知っているというレベルの素人なんですが、合氣道の稽古をしていて「このカリキュラムは実によくできているなぁ」と何度も唸ったことがあります。

いやはや、先人達のなんと偉大で勇敢であったことか…。

 

さてさて、私個人の「感想」は置いといて、ここから解説に入ります。

 

八支則によると、まず修行者は禁戒(ヤマ)と勧戒(ニヤマ)を守ることで自身の生活を整え、修行に取り組みやすい環境、練習を続けやすい心身の状態を作って、それから身体の使い方(アーサナ)の訓練に入ることになります。

心の修行よりもまずは身体からです。

武道でも「体・氣・意」と言われますが、いきなり「氣の流れ」や「意識操作」に進むと普通は修行に失敗します。

やっぱり順番としては、まず一番身近な対象である身体に向かった方がいいです。

具体的には、習った手順通りに動けるように全身の神経系を機能させていき、「こういう動きをしたい」と思っただけで、実際にその通りに動けるような「賢い身体」を作っていくことになります。

 

この「自分は思った通りに動ける」という事実が深く実感できると、そこから先の段階に進む勇氣も出やすくなりますし、先々瞑想の修行に入った際、身体の不調によって意識が寸断されなくて済みます(身体があんまり固いと、同じ姿勢を保って坐ることだってできないですからね)。

そして、身体の使い方に習熟してきたら、今度はプラーナ(氣)のコントロール(プラーナヤーマ)に移ります。

 

ひょっとすると、このへんはアーサナの練習と同時進行でやる場合も多いかもしれませんね。

実際、体操と呼吸法は合氣道の稽古でも最初からセットでやってますし。

人によっては身体のコントロールより先に氣のコントロールができるようになる場合もあるので、そういう人の成長を妨げない上では、同時進行は意味があるかもしれません。

まあ、身体のコントロールが不十分だと、結局もっと後になってから苦労しますが…。

 

身体のコントロールと氣のコントロールができたら、感覚の制御(プラティヤーハラ)に移ります。

自分の感覚に振り回されないよう、感じることに優先順位をつけていく。

たとえば、瞑想中に身体のどこかで痒みを感じても、すぐに身体をかきむしってしまっては心を静められません。

近くで大きな音が鳴ったときにいちいちビックリしていては、不動心など夢のまた夢です。

だから、ここから先の瞑想の修行段階に進む上では、自分に起こる感覚に対して反射的な反応をしないで済むよう、「待った」をかけられることが求められるのです。

 

ここまで来てようやく瞑想の修行に入れます。

これより前の五段階をすっ飛ばして、現代人がいきなり坐禅を組んだりしたら、たぶん大多数の人はかえってノイローゼになると思いますから氣をつけた方が良いです。

今の日本社会はあまりにも粗雑な情報が多すぎて、その中を泳いで渡っているうちに、私達の意識もまた粗雑で曖昧な状態になってしまいがちです。

これは私の持論ですが、瞑想は「明確な意識」からしか生まれません。

曖昧さはなるべく除去しておかないと、モヤモヤした妄想に瞑想してしまい、心はむしろ迷走します。

 

さて、瞑想の修行段階ですが、まずは第六支則のダーラナ法(一点集中法)から入ります。

本当は、対象を固定せずに自分の心身の状態を含めた森羅万象へと広く氣づきを保てるほうが高級ですが、最初は対象を一個に絞って意識のピントをピタッと一発で合わせられるように練習した方が効率が良いです。

 

そういえば、仏教だと「止観法」というふうに分類しているみたいですね。

呼吸や音や文字など、集中する対象を一つに固定した瞑想(止/サマタ)と、対象を絞らずにただ氣づきだけが流れる状態を目指すもの(観/ヴィパッサナ)との二つに分けるようです。

 

あ、いちおう付言しておくと、さっき上でもチラッと書きましたように、私はヨガに関しても仏教に関しても完全に門外漢なんで、これらは全て私が合氣道の修行していてわかったことに過ぎませんので、あしからず。

 

さて、逃げも打ったし、続きの解説をば。

意識のピントがズレなくピタッと合わせられるようになったら、今度はディアーナ(静慮)の段階に移ります。

だいたいにおいて、一点集中を一生懸命になって練習している段階ではまだまだ心に「凝り」が残っています。

「もっときちんと集中しよう」とか「修行の成果が出るように頑張ろう」とかいったことを考えて、それで心の波が昂ぶってしまっている場合が多いのです。

なので、次はこれを静める必要があります。

心の波が平坦な状態、「高くもなければ低くもない」という心身の動的平衡状態に常に留まれるようにしていくわけです。


そうしてディアーナが徐々に深くなっていくと、今度は「自分の心の向こう側」が見えるようになってきます。

湖の水の濁り(我執)が取れ、荒らぶっていた波が静まれば、自然と「水の底になにがあったか」がわかります。

それは「そもそもの最初からそこにあったもの」なのですが、水が濁って湖面が波立っていたために見えなかっただけなのです。

この「元々あったもの」を発見する段階が、八支則最後のサマーディと呼ばれます。

 

だいたいこんな感じの流れで修行は進みます。

道に迷ったら、自分が今どの段階にいるのかを確認すると方針が決まるかもしれません。

たとえば、「そうか、自分はまず身体の使い方にもっと習熟しないとな」とか「瞑想中に感覚に振り回されちゃってるから、それを先になんとかしなきゃ」とかね。

 

繰り返しますが、私はヨガはやったことないので、実際のところは知りません。

私が知っているのは、合氣道の修行の進め方を知るうえで『ヨーガ・スートラ』の八支則はとても参考になるというところまでです。

 

まあ、第一と第二支則に関してだけは、もっと後回しでもいいような氣がしますけれどね。

だって、「まず生活を整えてから修行に入りましょう」とか言われても、「そもそも生活を自力で整えられるだけの生命力がないから修行して強くなりたい」という人だって当然います。

そういう人に「生活を先に整えてからまた習いに来なさい」と言ってはかわいそうです。

アーサナやプラーナヤーマの修行を積むと、日常生活の雑事に引っ張り回されないで済むだけの「心身の粘り強さ」がついてきますから、「生活を整えるのはそれからでもいいんじゃないかなぁ」と愚考する次第であります

 

で、なんでわざわざヨガの古典の話なんかしたかというと、これがダンスクラスで私が教えていることともかなりの程度まで重なるからです(ビックリしました?私も書いてる途中で氣づいたので驚きました)。

 

私はレッスンの最初に身体をほぐすメニューを組んでいますが、これによって重心が安定し全身が協調して動くようになるので、新しい動き(アーサナ)を覚える際の助けになります。

また、全身がゆるむと呼吸がよく通るようになるので、これはのちのち行うプラーナヤーマの補助にもなっている。

 

最後のダンスを踊るパートが、私としては「瞑想の時間」です。

表層の意識によって身体に細かく指示を出してコントロールしようとするのではなく、潜在意識が働くにまかせて動いていく。

心と身体の状態が整ってくれば、自然と身体そのものが元々持っていた「生き物としての動き」が出てきます。

私としては、生徒さん一人一人から「それ」をこそ引き出したいんですね。

 

でも、「自分はこれこれこういう人間だから先生みたいに動けるはずがない」とかいった風に思ってしまうと、自分で自分の動きに制限をかけることになります。

それは形を変えた「エゴ」ですから、できれば落としてしまってください。

「私と同じように動けるかどうか」なんてどうでもいいので、「自分の命に元から備わっていた『生物としての動き』ができるかどうか」だけを氣にしていてほしいと思います。

そして、そのような「生き物らしい動き」ができるためには瞑想状態が必要不可欠であり、瞑想に入るためには、身体の使い方に習熟し、全身によく氣と呼吸とを通していないといけない、という話になるわけですね。

 

今回から、レッスンの最後に合氣道の稽古と同様、「収めの呼吸」をすることにしました。

というのも、人間の心身の生理的傾向から言って、思い切り身体を動かした後のほうが、心が静まりやすいからです。

たぶんこの「思いっ切り動いた後の時間」は、現代人にとっては瞑想に入りやすいベストなタイミングの一つだと思います。

 

これはバグワン・シュリ・ラジニーシ(通称OSHO)というインドの瞑想家の発見でもありますが、現代人は頭の中にガラクタを溜め込みすぎなので、いきなり坐って瞑想したりせず、まずは思い切り身体を動かして心身を浄化すること(カタルシス)こそが、心を静めるためには必要なのです。

バグワンはそのことに氣づいて、現代人のための瞑想法として「アクティヴ・メディテーション(活動的瞑想法)」をいくつか発明しました。

これらは、最初にかなり激しく身体を動かすパートを設けて、それから瞑目して坐るという順序を踏んでいます。

そのほうが、いつも何かに追い立てられがちな現代人は、落ち着いて自分自身と向き合えるからです。

 

スポーツ選手を目指していてもいなくても、私達は身体を動かすことをしばしば欲します。

それは私達の内側に「絶え間ない命の流れ」があるからです。

その「命の流れ」が、外側に向かって表現されることを私達に対して望んでいるとき、人は誰しも落ち着いて坐ってはいられなくなるのです。

 

「命」が提示するこの「表現されたい」という望みをきちんと叶えてあげないうちは、私達は自分自身と向き合う余裕を持てません。

内側に「まだ表現されていない命の滞り」があると、人は自分の人生を取り逃している氣がして焦るものです。

でも、「自分のやるべきこと」ときちんと向き合える勇敢な人ばかりじゃないから、本人は焦って右往左往していても、表層を取繕うことだけに終始してしまう場合もしばしばあります。

 

そんな風に表層だけをいじり回している間は、その人の「命」は内側深くでまだくすぶっている。

それだから、余計に焦るんですね。

だって、そうして塗り固められた「嘘」を生きていても、自分の「死」は確実に近づいてきてしまうわけなのだから。

 

「自分がやるべきこと」を精一杯やり切った後というのは、氣持ちのいいもんです。

そういう時には、空の色さえも違って見えます。

瞑想というのは、このような「空の色が違って見える」とかいった程度の「ささやかな贈り物」を、自分の人生から日々受け取るための方便です。

 

少なくとも、私にとってはそうなのです。

 

追記:専門家の方から、「八支則は修行の段階ではなく、全ての中に八つのことが含まれている」とのご指摘を賜りました。

どうもありがとうございます。

ただ、今回の私の文章は学術的・資料的な厳密さよりも、今現在、幸福に日々を生きることに困難さを感じている方々へ、当面の方針を決める参考にしてほしいという想いを優先したものです(私自身の知識が曖昧だった部分については、ただいま再勉強中です)。

それゆえ、「ヨーガの専門的な資料」として読まれるよりは、何かしらの形で「心身の錬磨」を志している方々の修行の道しるべとしてご活用いただけますと幸いです。

 

次の記事へ

前の記事へ