【合氣道04/14】明確に意識しましょう

クラス:合氣道

日 時:2014年4月14日(火)・15時~17時

場 所:芦屋市立体育館・青少年センター柔道場

参加者:3名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き(乗る稽古)
    • 送り足
    • 送ってから継ぎ足
    • 線を換える送り足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 逆半身片手取り入身から導いて氣を流す
    • 横面打ちの打ち方を練習
    • 横面打ちの捌き方を練習
    • 横面打ち四方投げ
    • 木刀で構え方と斬り方を練習
    • 横面打ち一教
    • 横面打ち呼吸投げ
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

今回は横面打ちをやりました。

たぶんうちの教室で横面打ちを稽古するのは初めてのことです。

なので、まずは形を練習してもらい、そのうえで「この取り手はどういう状況設定なのか」ということをご説明しました。

 

形だけを外から見ていると、横面打ちというのは「相手が横から袈裟に斬ってきたのを捌いてかわす」ような動きに見えます。

でも、実際にやっていることは違うのです。

「打たれてる」んじゃなくて、「打たせてる」んです。

 

稽古においては、必ず取りが先手を取って、受けの正中線を抑えます。

これはお互いの身体が接触するよりも前、取りが自分の番が回ってきて場に出ていった時点で忘れずにしておくべきことの一つです。

 

「身体が触れてからじゃないと相手の動きをコントロールできない」と思う人が中にはいるかもしれませんが、それは短見というものです。

実際には、私達は直接相手の身体には触れないでも、かなりの程度までその心身の運動をコントロールすることができています。

言葉による操作も行っているし、身振りによっても操作している。

 

でも、一番の根本は「意識」です。

「こうしたい」という「明確な意識」が相手の先を取ったときに、「未来」というのは決定されるものなのです。


はい、いきなり話が怪しくなりましたね(笑)

こっから先を読み進める方は、「スピリチュアル系のアブナイ話じゃないか」と眉に唾して聞いといてください。

 

さてさて、たとえば私達が道を歩いているとき、向こうから歩いてくる人を見て、「あ、このまま行くとぶつかる」ということがかなり前もってわかる場合がありますね。

そういう時って、まだお互いの身体が触れ合っていない段階で、微妙に進路を変えたりですとか、「すれ違うときにどう身をよじろうか」とモゾモゾ「予行演習」をしてみたりするわけです。

 

また、反対に「どう避けたらいいかよくわからない人」というのがいますね。

たとえば、スマホに没頭しながら道の真ん中をヨタヨタと歩いていたり、考え事に熱中しているのか、こちらの存在に氣づきもしないで突っ込んきたりするような人たちです。

こういった人たちは、事前にこちらで進路を細かく調整して避けるのがかなり困難です。

 

たぶん大方の人は、この両方の経験があるんじゃないかと思います。

 

では、問題です。

いったい両者の体験的な違いはどこに由来するのでしょうか?

 

 

…チッチッチッ…

 

 

チーン。

はい、終了。

わかりました?

 

正解は、まあ簡単というか、私が答えを先に半分以上書いちゃってたんですが、「自分が歩いていることを本人がちゃんと意識しているかどうか」ということですね。

 

歩くという行為は、常に何かしらの「目的地」を設定することを必要とします。

仮に、「健康増進という目的」のために家の周りを散歩している場合や、歩くのが楽しくてただ歩いてるというような「自己目的的な歩行」の場合であっても、瞬間瞬間の「目的地」は必要になります。

言い方を換えれば、「ここ」から「あそこ」へという方向性がないままでは、歩くということは私達にはできないんです。

できたとしても、それは外見が歩いてるっぽく見えるだけで実際には「別の運動」なのです(たとえば、もし歩きながらスマホに没頭しているとしたら、それはまあ、「歩行運動」というよりも「目と頭の運動」と見た方が適切でしょう)。

 

「自分が歩いていることを意識している」ということは、自分にとっての「ここ」と「あそこ」を結び合わせようとして、絶えず自分のルートを選択し続けているということです。

「ここ」もなく、「あそこ」もないまま歩くなんてことは、私達にはできません。

そこには必ず「今」と「未来」という二点があり、その二点を結ぶ「意識の線」がある。

 

そしてこの「意識の線」(これ以降は「意識線」と呼びます)が、武道の稽古中は攻撃や防御の際に身体の外側に出てるんですね。

多くの人はあまり自覚的に見ることをしないですけれど、例外なく誰でも出てるんです。

曖昧であるか、明確であるかの違いはあれど、出てない人はいないです(ただ、「複雑な出し方」を心得ている達人の場合、私の力量が足らず「読み切れない」ということなら起こりますが…)。

 

「自分は歩いている」と意識していない人は、歩いていることへの明確さがありません。

言い換えれば、「自分はこれからどこに向かって進んでいったらいいのだろう?」という問いへの意識がぼんやりしている。

だから、そういう人とすれ違うときには、的確に避けるのが難しいです。

「身体」そのものは歩いていても、あまりにも「意識」を欠いた状態で歩いているので、「意識線」が進行方向にむかって出ないんですね。

「意識線」が出ていれば、私達はそれを見て相手の動線から我が身を外せるんですが、そもそも何にも出てないと予想もなにもないです。

こういう場合につく予想があるとしたら、「この人は半分眠りながらデタラメに歩いているから、これから先どんな風に転んでも不思議はない」ということくらいでしょう。

 

そして、「どんな転び方をするかわからない人」が前からヨタヨタやって来た場合、もしも相手が自分の同胞であれば「もうちょっと注意して歩けよ」と忠告でもするでしょうけれど、関心の無い赤の他人であれば、相手が不意に転んだときに巻き込まれるのはイヤだから、「すれ違う前に別な道に行こう」と私達は思うはずです。

たとえば、道路を渡って反対側の歩道に行くとかね。

いずれにせよ、大きくこちらの進路を変えて相手のことを避けると思う。


「纏っている空氣が曖昧な人を前にしていると氣持ちが悪くなる」というのは、生物としてごくごく自然なことです。

だって、自然界においては、「これから何をするかよくわからない動物」を前にして、いつまでもぼんやり相手の出方を待っていたりしたら危険だからです。

それゆえ、生き残ることを最優先に考える個体は、「曖昧な空氣」を前にしたら、必ず「さっさと逃げる」という手に出ます。

猫や鳥なんかを見ているとそれはよくわかります。

あいつらは、「こちらにどこまで距離を詰められたら、致命的な仕方で未来が予測不可能になるだろうか」ということを、ちゃんと身体で読みながら逃げていますからね。

 

ただ、人間の場合は猫や鳥と違って「社会的な付き合い」というものがあるので、逃げてばっかりもいられません。

そういう場合に古くから使われてきた方便が、「敬して遠ざく」というものです。

要するに、身体を遠ざけられない代わりに、敬語や恭しい態度とを使って「心理的な距離」を空けるのです。

 

親しい人に対して敬語を使って話しているうちに、なんとなく自分と相手との距離が遠ざかっていくように感じた経験はありませんか?

それは、敬語というものが、もともとそういうものだからなんです。

近くに身を置きながらも、相手に直接触れないで、遠回りに森羅万象を名指す言語運用、それが敬語です。

 

陛下とか殿下とかの尊称もそうです。

「陛」とは宮殿の階段のことですから、「陛下」とは「宮殿の階段下」を指します。

殿下も意味としては「殿舎の下」のことですね。


なんでわざわざそんな遠回しに名指すようなことをするかと言えば、陛下とか殿下とかくらいになると、相手を直接名指すのが危ないからですね。

だって、あまりにもこちらより「エライ」人というのは、どんな風に自分を損なうかが十分に予測できないわけですから、そりゃ呼び方選びも慎重になります。

それで、相手を直接は呼ばずに、その人の近くにあるものを迂回的に名指して呼ぶということになるのです。

相手を尊敬するがゆえというよりも、何よりもまず自分の身を守るために。

 

閑話休題。

こと「意識」に関する限り、「曖昧さ」というのは危険な要素です。

「曖昧な意識」は本人にとっても危険だし、周りの人たちにとっても危険です。

だって、「曖昧な意識」のままで生きていると、「未来」のことが本人にも他人にもちゃんと予測がつかなくなってしまうのだもの。

 

「曖昧さ」を減らし、「明確さ」を増大させることによって、人の「意識」は覚醒します。

そして、この覚醒状態のことを私は「瞑想」と呼ぶのです。

 

なので、自分を助け、友人を安心させてあげるためにも、みなさんもっと「瞑想」をしましょう。

いや、ホントに。

 

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