【合氣道04/15】剣は、鞘から抜かないために振る

クラス:合氣道

日 時:2015年4月15日(水)・15時~17時

場 所:芦屋市立体育館・青少年センター柔道場

参加者:3名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 継ぎ足
    • 継いで送り足
    • 継いで線を換える足

(休憩)

  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り四方切り四方向
    • 逆半身片手取り四方投げ
    • 逆半身片手取り入身投げ
    • 逆半身片手取り一教
    • 逆半身片手取り二教裏
    • 逆半身片手取り内回転投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

前日のお稽古で、「身体が触れる前に意識の剣で切り結ぶ」といういささか難しいことをしたので、今回は基本の動きに徹しました。

 

でも、たまには「難しいこと」をするのもいいものです。

やってるそのときは「なんじゃこりゃ、全然できん~」ってなるかもしれないですけれど、終わってからもう一度前に習ったことを復習してみると、「あ、これはこういう意味だったのか」という発見がいろいろできたりもします。

それは「難しいこと」をどうかこうか通り抜けたことによって、「自分の基準」が上がったからですよね。

 

前は氣にもとめなかった物事に、瞬時に氣づく。

それまで当たり前のように聞き逃していた言葉が、胸に刺さる。

 

そういうことが起こるのは、それだけ余裕ができたからです。

「難しいこと」をやって戻ってきたときには、たとえ頭では理解できていなくても、身体はわかっているものです。

「自分はもっと困難な状況にも対応できる」と。

 

なんであれ「高度な技術」というのは、「それを使うために覚えるもの」というよりも、「使わなくても何とかできるようになるために覚えるもの」だと、私はとある先生から教わりました。

普通は、技術を覚えるとすぐ実際に使いたくなるものですが、「高度な技術」を覚えることの本当のメリットは、「それを披露すると他人からチヤホヤしてもらえる」というような「せこいこと」にあるのではなくて、「こういう技術を自分は知っているから、このラインまでは自力で何とかできる」という確信を自分の中に持てることです。

 

技術をしっかり修めていると、自分に何ができて何ができないかの見極めがかなり具体的に行えます。

だからこそ、「高度な技術」を使わざるを得なくなるギリギリまで、冷静に状況の推移を見ていられるし、自分の手に負えない状況であれば、すぐさま他人に必要な協力を要請することもできる。

そして、こういった「冷静な判断力」こそ、「高度な技術」を習得することの意味のほとんど全てと言ってもいいくらいのものです。

 

たとえば、体術で相手の身体を一発で再起不能にするような危険な技を習得したとして、「やったぜ、さっそく使ってみよう」と思うような人は、遠からず自分の身を滅ぼすでしょう。

「生兵法は怪我の元」とも言いますが、技術を中途半端に修めたとき、それを実際に使うこと自体を目的にする人は、申し訳ないですけれど、武道修行には全然向いてないです(私が師範だったらそういう人には「本当のところ」は教えないです、危ないから)。

 

人間の身体を効果的に破壊できる技術を身につけたとき、「『こんなこと』できるようになっちゃって、これからどうしよう…」と不安になるような人は、武道修行に向いてます。

「『これ』を使うことになるとしたら、ホントのホントにピンチになったときだけだな」と自分を戒められる人は、「ホントのピンチ」が来るそのときまで、冷静に周囲の状況を見ていられるでしょう。

また、そういう人は自分が身につけてしまった「おぞましい技術」を、どうしたら実際に使わないで済むかをきっと日常的にも考えるはずですし、そうやって考え続けることから本人が得る学びも大きいだろうと思います。

 

でも、今の世の中では「技術」を「お金」で換算することに私達は慣れすぎてますから、「せっかく苦労して技術を身につけたのだから、それを使って自己利益を増大させるのは自分の当然の権利だ」と思って疑いません。

これだけ頑張って習得したのだから、だいたいこれくらいはリターンがあってしかるべきだ、と。

 

ダメですよ、何かをとことん学ぼうという時に、いつまでもそんな「がめついこと」を言っていては。

だって、技術というものは本来的に「自分のために習得するもの」じゃないんですから。

技術とは、自分以外の誰かを守ったり助けたりするためにこそ習得するべきものです。

専門的な技術とは全て、その技術を持っていない人たちが見えないものを代わりに見て、彼らが聴くことのできない声を代わりに聴くためにこそ学ぶものなのです。

 

というか、そもそも「他者のために学ぶ」というマインドセットで修行をしない人間には、技術をちゃんと習得することそのものができません。

「自分の利益」のためだけに技術を習得しようとする人間は、必ず最後の最後で壁にぶつかって、それ以上は先に進めなくなります。

ちゃんとそういう風になってるんです。

 

そこから、「自分のため」ではなく、「誰かのため」に学ぶことができるようになるかどうか、です。

「学ぶことによって、自分にはどうしても『守りたいもの』がある」と思えた人だけが、「『終わり』であると同時に『始まり』でもある扉」を開けることができる。

「開ける」というか、こちらの心構えができた瞬間に、「向こうから勝手に開く」んですが、まあ、とにかくそういうものです。

 

「難しいこと」をしてからもう一度「元の世界」に帰ってくると、世界の色合いはちょっとだけ変化しています。

それは「あなた」が変わったからです。

世界は元のままですが、その世界を見る人自身が変わったのです。

 

きっと前は見えなかったものが見えるようになっていたり、前は聞こえなかった声が聞こえるようになっていたりもするでしょう。

でも、決してその「自分に宿った新しい力」に溺れてはいけません。

何度でも繰り返しますが、それは「自分」のために使っていいものではなく、「他の誰か」のためにこそ使うべきものであるからです。

 

もし「力」の側に呑みこまれて、自分のためだけにそれを使おうとしたならば、もはや「学びの扉」がその人に対して開くということはないでしょう。

本人がそのことに、再び自力で氣づく時が来るまでは。

 

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