【ダンス04/16】「身体への氣づき」を大切に

クラス:ダンス

日 時:2015年4月16日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:3名

 

内 容

  • 足と脚のグルーミング
  • 脚の骨を意識の線で繋ぐ
  • 手と腕のグルーミング
  • 肩を上下させてゆるめる
  • 肩の一点を意識して動かす
  • 左右の指回し(左脳と右脳の使い分け)
  • 邪気の吐出
  • 臍下丹田に氣を落とすワーク
  • 骨盤の一点を意識して動かす
  • 正坐で丸める・反る
  • コントラクション・リリース

(休憩)

  • プリエとルルベ
  • ワカメ体操
  • 胸で描く軌跡を意識するダンス

 

雑 感

去年の年末に入会された方から、「先生お寺で修行してました?」って唐突に聞かれました。

 

ないよ~。

でも、なぜにそう思うの?

 

どうも私の書く話が「お坊さんのお説教っぽい」らしいです。

いやはや、さすがにそんなこと言われたの生まれて初めてだなぁ。

 

というか、このところしょっちゅう「そんなこと言われたの初めてだなぁ」というような体験をしてます。

このあいだは合氣道クラスの生徒さんから「先生って実は体育会系ですよね」と言われまして、その時は「え、マジで…?」と思ったけど、後になって我が身を顧みると「たしかにそうかもなぁ」と納得した部分もけっこうありました。

あるいは、「言われたことを納得できるような人間にあとから変わった」のかもしれませんが、いずれにせよ「現状そういう人間である」という意味ではおんなじなんだから、私にとってはどっちでもいい話です。

 

ということで、「体育会系の坊さん」が今日も元氣に文章を書きます(笑)

 

このところのダンスクラスでは、「明確に自分の身体の一点を意識する」ということを中心的なテーマに掲げて、レッスンを続けています。

この「一点」は別にどこでも構いません。

どこにするかは自分で決めます。

ただし、曖昧に「なんかこの辺」というのではなく、明確に定めるということが大事です。

 

心身統一合氣道の創始者である故・藤平光一氏は「臍下の一点」というものをたいへん重視していました。

ヘソの下に、力を入れようと思っても入らない一点がある。

その一点に氣持ちを静めるようにすると、心も身体も盤石の安定した状態になるのだ、というのが氏の主張です。

 

これは私もけっこう練習したんですけど、実際にやってみると「一点」を意識し続けるというのは、思っている以上に難しいんですよね。

だいたいにおいて、「点」がぶれちゃうんです。

この「臍下の一点」は、数学的な点と同じで、「場所だけが定まっていて大きさのない一点」であるほうが望ましいのですが、慣れないと「点」ではなくて広い「面」になってしまったり、「ここ!」という場所がはっきり自分で意識できなかったりします。

 

ところで、このような「曖昧さ」はまた、「自分の身体感覚への不明瞭さ」でもあります。

きっと現代日本に生きる中年男性のほとんどの方は、ご自分の内臓を感じたことが一度もないんじゃないかしらん?

自分の胃がどこにあるか、肝臓がどこにあるか、左右の腎臓はそれぞれどのあたりにあるか、そういうことを意識したことがある「おじさん」はたいへんに稀な存在でしょう。

 

私がこういうことを言うと「そんなの感じられるわけないだろ」とだいたい反論されるんですが、そんなことないですよ。

嘘だと思ったら、今度お腹いっぱいにご飯を食べたときに、ご自分の左肋骨の下あたりを触ってみてください。

きっと胃がパンパンにふくれて、外からでもある程度触知できるはずです(ひょっとすると太りすぎてて脂肪か胃か自分で区別のつかない人もいるかもしれないですけれど…)。

 

それから、食物を呑み込んだ後に、食道のどのあたりを食べたものが移動しているかとかも、感じようとすればある程度までは自分でわかります。

オシッコが溜まるとヘソ下の膀胱が張る感じが自覚できるし、腹部を押したり揉んだりすると、中で大腸や小腸が動くのが感じられるはずです。

 

とにかく、まあこういうことを続けていますと、段々と自分の内臓の状態がわかるようになってきます。

「胃が今はこのあたりにこういう形で存在しているみたいだ」とか、「腸の働きが今日はいささか悪いようだ」とかいったことが、自覚できるようになってくる。

で、面白いのは、自分のがわかるようになると、他人の臓器も見えるようになってくるということです。

「ああ、この人の胃はあの辺にあって、肝臓はここで、腎臓はここだな」というのが、なんとなく外から見ていてわかるようになってくるんですね。

 

まあ、私は「治療家」ではないので、見えたところでそれを使って相手の身体を治したりとかできないのですが、相手が感じている「内臓感覚」を我が事のように共有できるというのは、コミュニケーションを円滑にする上でたいへんに有用です。

たとえば、「あ、今この人は内臓がこういう感じになってるから、話すときには声のトーンをもう少し柔らかくしたほうが良いかな」とかいろいろ考えますもの。

 

ええと、何の話をしていたのだったか…。

 

そうそう、「一点を意識する」っていう話でしたね。

「自分の身体を明確に意識する」のって、すっごく大事ですよ。

「自分の感覚が明確になると相手の感覚もわかるようになる」と私はすぐ上で書きましたけれど、他にも、「自分の意識が不明確だと『何のために何をしているのか』がはっきりしなくなってしまう」という点も、やはり見過ごせません。

 

「何のために何をしているのかわからなくなる」というのは、言い方を換えれば、「優先順位をつけられなくなる」ということでもあります。

意識が不明確になると、私達は「何のためにこんなことをしているのか」が自分でもよくわからないまま、日々の仕事をこなしていくことになりがちです。

「ああ、めんどくさいなぁ」と思うような雑務は誰しも日常的にたくさんあるわけですけれど、意識が不明確な状態ですと、自分の考えが「めんどくさいなぁ」というところで、そのまま止まってしまうんです。

ぼんやりした意識で雑務をこなしていると、自分の中に「こうしたいから、これをする」というような「やる順番」がまるでないので、「めんどくさいなぁ(でも、必要だからやるっきゃねーか)」とはならずに、「めんどくさいなぁ(ああ、早く終わんないかな、ホントめんどくさい)」となって、「出口のない思考のループ」にはまりこんでしまうんですね。

 

こうなると、そりゃあ時間が経つのも遅く感じますよ。

だって、本人にとっては何の変化もないのだもの。

同じ所をグルグル回っているだけで、しかも、やっていることといえば、「『終わり』が来るのをただ待ってる」というたったそれだけ。

それじゃあ退屈もしますよ。

 

「終わり」が来るのをただただ待ったりなんかしないで、積極的に自分から何かを作り出していくためには、「明確な意識」が必要不可欠です。

「自分は『与えられた時間』をこれに使う」と主体的に意志して優先順位をつけないと、「創造的な営み」は実現できないのです。

 

別に「創造的な営み」って言ったって、そんなに「特別なこと」はしなくていいんです。

優先順位が自分の中にあれば、日々の食事を作ることも創造的な営みになりえますし、部屋の掃除をするのも「氣持ちよく新しい活動ができるよう清浄な空間を確保する」という意味で、十分に創造的だと私は思います。

 

優先順位がつけられれば、「やるべきこと」だけを精一杯やって、「やる必要のないこと」はやらずにおくことができます。

生活はシンプルになり、「めんどくさいこと」は「それでも、やっぱり必要なこと」へと少しずつ変わっていきます。

 

私がこういう話をすると、「生活をシンプルにすることと踊りがいったいどう関係するんだよ!」と突っ込む人もいるかもしれないですけれど、やっぱり「自分の身体」から始めるしかないんじゃないかなぁと、私は思うのであります。

「自分の身体」に目を向けて丁寧に意識してあげることって、本当に本当に大切なことなんですよ。

 

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