【合氣道04/19】色のついた思念

クラス:合氣道

日 時:2015年4月19日(日)・12時~15時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:2名

 

内 容

(12時~14時)

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足

(休憩)

  • 受身・膝行・転換
  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 相半身片手取り入身の捌き三種
    • 相半身片手取り入身投げ三種
    • 相半身片手取り四方投げ
    • 相半身片手取り一教
    • 相半身片手取り天秤投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

(14時~15時)

  • 体術
    • 諸手取り呼吸投げ三種
    • 諸手取り入身投げ四種
    • 諸手取り一教
    • 諸手取り二教
    • 諸手取り呼吸投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

この日は朝方に少し雨が降っていましたが、昼までには止んでいました。

稽古をしていても、肌に触れる雨上がりの空氣は心地よく、道場の窓を開け放っていると、鳥たちの声や木々を揺らす風のさざめきなどが聞こえてきて、心が和みました。

 

こういった「音」たちは、私達が稽古中に「瞑想」へ入るのを大いに助けてくれます。

現代においてどうなのかは知りませんが、お寺に置いてある大きな鐘も、もともとはそういう役目を持っていたと聞きます。

寺で修行するお坊さん達は、来訪者達によって不意に鳴らされる鐘の音をきっかけにして、スッと「瞑想」に入っていくことができた。

「音」というものには、人の意識を純化させる「偉大な力」があるのです。

 

「聞こえてくる音に耳を澄ます」という在り方は、人の心を自然と透明にしてくれるものです。

丁寧に耳を澄ませていると、グチャグチャに散らかった自分の内側に、代わりに「音」がストンと入ってきて、その「音」もやがては遠くへと消えていく。

そうして、聞こえていた「音」が徐々に消え、「耳を澄ますモード」だけが残ったとき、人は「とても静かな場所」に居ます。

この「本当は初めからあった場所」をもう一度見出すための方便こそ、私が「瞑想」と呼んでいるものなのです。

 

頭の中に渦巻いている「あーでもない、こーでもない」といった詮無い思考と、私達は日常的にあまりにも深く同化してしまっているので、心にはいつも何かしらの「色」がついています。

「相手に勝ってやろう」とか、「後輩の前で失敗して恥をかいては堪らない」とか、「自分の技はちゃんと効いてるんだろうか…」とかとか、体術の稽古で技をかけたりかけられたりしていると、様々な「色のついた思念」が頭をよぎるものです。

 

合氣道のお稽古では、これら「色のついた思念」をひたすら見つめていくことになります。

大事なことは「ただ見つめる」ということです。

いかなる思念も、それが自分の中に生まれたのには一定の必然性があります。

「こんなの見たくない」「自分はそんなことを思う人間じゃない」と否定したくなることもありますが、そうやって抑圧してしまうと、今度は「もっと厄介な形」でもって外側に出てくるようになります。

 

「色のついた思念」って、実は子供と同じなんです。

子供は、大人の注意を集めるのが仕事です。

まだまだ自力で生きていくことのできない彼らは、大人に常に氣にしてもらっていないと、いつ死んでしまうかわからないからです。

子供達は、大人の助けを借りて生き延びるために、いつも「ちゃんと見てもらおう」と必死です。

それで彼らは、私達の頭を悩ませる悪戯を一生懸命に工夫したりですとか、狭い家の中でバタバタと暴れてみたりですとか、時には自分より小さい子をいじめてみたりさえするのです。

というのも、そういうことをすれば、たとえ結果として親や先生から怒られることになったとしても、少なくとも一時的に大人の注意を集めることができると、彼らは熟知しているからです。

 

親や教師達は眉間にしわを寄せて、口をとがらせてこう言います。

「なんでそんなことをするの!」

でも、子供達は黙っています。彼らにはまだ自分の内側にある「それ」を、言葉で大人に伝えるだけの力がないからです。

言葉で伝える力がないから、行動でそれを伝えようとするのです。

 

彼らが言いたいことはたった一つ。

「ねえ、お願いだからこっちを見てよ」

ほとんどこれだけです。

 

彼らのまわりにいる大人達の多くは、子供の行動を評価したり、分析したり、解釈したり、あるいは無視したりするばかりで、「ただそのまんまに見る」ということをまずしません。

ひょっとすると、自分自身が子供の頃に誰かからそういう風に見てもらったことがないからなのかもしれませんが、「評価も解釈もしないで、その子が生きている姿をそのまんまに見る」ということが多くの大人にはできないのです。

 

子供達は言葉で言う力がないから、代わりに行動をエスカレートさせていきます。

もっと目立てるように、もっと大人達が困ったり狼狽したりするようにと、行動を過激なものへと徐々に変えていくのです。

 

それでも自分の氣持ちに氣づいてもらえないと、その子の生命力は段々としぼんでいきます。

たぶん、その子が「生きてるのってツマラナイな」って感じるようになっていくからだと思います。

 

私達の中にある無数の「色のついた思念」は、子供とおんなじです。

それらは「評価も解釈もされずに、ただ見てもらえる」のを待っているんです。

 

あるときには、自分の心に怒りが現れる。

あるいは、悲しみが現れる。

恐怖や不安や憎悪や嫉妬や…、それはもうありとあらゆるものが「瞑想」の実践中には現れます。

 

もちろん、そういった「自分の内側の子供達」に、「こんなのは自分じゃない!お前なんか嫌いだ、出て行け!」って言い放つことは、いつだって可能です。

けれど、そういうことを言われると、「彼ら」はもっと目立つ仕方で、もっと私達が困るような時と場所とを選んで、自身を表すようになります。

「そうすれば、今度こそ自分の存在に氣づいてもらえるだろう」と、「彼ら」は期待するからです。

 

こうして、自分自身を見つめることから逃げ続けた人々は、あるとき「致命的な仕方」で失敗を犯し、まわりの友人や知人たちからの信頼を全く失ってしまうことになります。

場合によっては、本人が信頼を失うだけでは済まず、周囲の人や組織も巻き込んで、甚大な被害を発生させてしまうこともある。

 

だから私は、合氣道でもダンスでも、「個々のテクニック」を習得することよりも、「瞑想」のほうを重んじます。

というのも、いくら「テクニック」をたくさん身につけたとしても、それがその人自身を本当に救えるかどうかはわからないからです。

 

「テクニック」は、どこまでいっても結局「道具」に過ぎません。

大事なのは、その「道具」を使う人間が、「何のためにそれを使おうとしているか」ということだと、私は思っています。

 

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コメント: 2
  • #1

    平尾剛 (月曜日, 20 4月 2015 14:24)

    はじめまして。平尾剛と申します。
    と、正確にはどこかで顔を合わせているとは思いますが、こうして話す(書く?)のは初めてなので「はじめまして」から始めさせていただきます。

    色のついた思念は子供と同じ。大変共感致しました。

    僕は試合に向けての心構えを作るためにあるときから読経を始めました。
    僕にとってこれは邪念を払拭するために始めたことで、その意味では「瞑想」をしていたのだと思います。
    ラグビーというスポーツの性格上、次々に浮かぶのはやはり恐怖心です。「恐怖という色がついた思念」とずっと格闘しておりました。
    どうにかしてやり過ごそうとするのだけどどうにもうまくゆかない。
    途方に暮れつつも、それでも続けているとあることに気がついた。
    「格闘する」からだめなんだと。
    その恐れをただ見つめるにとどめおく。
    「なんとかしよう」とすること自体、別の色で染められた思念なのだから、そこから離れなくてはいけないんだと。

    それに気がついてからは無心で試合に臨めることが多くなりました。

    湯浅さんのこのテクストを読んでいてあの頃が思い出されました。
    さらにはこのようなふくよかな表現を借りてさらなる深みへと足を踏み入れることができた気がしています。

    ありがとうございます。
    またどこかでお会いできるのを楽しみにしております。

  • #2

    湯浅和海 (月曜日, 20 4月 2015 21:03)

    >平尾剛さん

    はじめまして、PLATFORM主宰の湯浅です。
    お読みいただけただけでも嬉しいのに、コメントまでしていただき、たいへん励みになります。
    ありがとうございます。

    平尾さんの場合は「ラグビー」でしたが、私は「踊り」をやっていてどうしようもない行き詰まりを、かつて感じました。

    私は十代後半の五年間、ずいぶん必死になってダンスの稽古をしていました。
    しかし、ダンスのテクニックをたくさん習得していく中で、私はなぜか踊ることが楽しく思えなくなってしまったのです。

    頑張って練習して「上手い」と人から言われるのは、最初はただただ嬉しいことでした。
    けれど、何度もそう言われているうちに、私はそういった「賞賛の言葉」を誰からもかけてもらえなくなるのを、次第に怖れるようになっていったのです。

    始めたばかりの頃は、下手でも下手なりに十分楽しかったのですが(友人からは「踊っているのか暴れているのかわからない」とまで言われたものでした)、私はいつのまにか、「楽しいから踊っている」のではなくて、「褒めてもらいたいから踊っている」という状態になっていたのだと思います。
    踊ることは私にとって、「楽しむべき遊び」ではなくなり、「自尊感情を支えるための単なる道具」になってしまっていた。

    そこから抜け出す過程で、合氣道(私はいろいろと思うところがあって、自分で書くときには「気」ではなく「氣」の字を使って表記しています)にはずいぶん助けられました。
    そして、今も多くの学びをそこから得ています。
    もともとは、「内田先生に直接お会いするため」といういささか不純な動機から習い始めた合氣道でしたが、本当に素晴らしいご縁をいただいたと思っております。

    それから、平尾さんのおっしゃる通り、前に凱風館で武術関連の講習会があった折りに、遠くからお顔を拝見したことがあります(その時は直接お話しなどはしませんでしたが)。
    私もまた、今後どこかでお会いできるのを楽しみにしています。
    どうもありがとうございました。