【合氣道04/21】本当に勇敢な人

クラス:合氣道

日 時:2015年4月21日(火)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:3名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 継いで線を換える足

(休憩)

  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 逆半身片手取り入身から導いて氣を流す
    • 後ろ両手取り入身投げ三種
    • 後ろ両手取り四方投げ
    • 後ろ両手取り呼吸投げ
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

久々に晴れた一日。

これから一週間ほどは暖かい日が続くとも聞きました。

善き哉。

 

天氣のおかげもあってか、この日は道場の空氣も幾分か澄んでいたように感じました。

あるいはそれは、単に私個人がそう感じたに過ぎないのかもしれませんが、そういう「主宰者の体感」って参加者にも徐々に伝播していく傾向がありますから、私が氣持ちよく愉快に稽古をできているかどうかは、参加する側にとっても重要なことだと思っています。

 

私は常々「のびのびと愉快な心持ちで稽古したい」と思っています。

「修行」というと、「辛くても我慢して、額に汗して頑張る」というイメージを持つ人が多いと思いますが、本当に自分にとって楽しいと感じていることなら、「辛いこと」を辛いと思って我慢したり、頑張ったりする必要はなくなるのじゃないかしらん?

 

自分が興味を持っていないこと、楽しさを感じられないことを無理してやっていると、「辛いこと」の辛さは、その人の中でどんどん大きくなっていってしまいます。

そして、やがては「大して辛くないこと」さえも辛く感じるようになっていき、それに伴って我慢したり頑張ったりすることは増えていきます。

 

傍から見て「辛い修行」を日々続けている人は、周りからは不思議がられます。

 

「なんであんな大変そうなことがずっとできるのだろう」

「きっと毎日頑張ってやっているに違いない」

「努力の人だ、えらいなー」

 

たぶん、周りの人たちはそんな風に思って見ている。

でも、渦中のその人は、そもそも全然「辛い」とは感じていなかったりします。

「努力している」とも思っていなかったりします。

本人は、「辛さ」を耐えるつもりなく耐え、努力するつもりなく努力している。

 

その活動力の源泉がどこにあるかと言えば、やはり「やってて楽しい」ということに尽きます。

「やってて楽しい」と思っている人は、プラスアルファで修行に何かを求めたりしません。

「楽しい」という時点で、その人の努力は既にかなりの程度まで報われてしまっているから、「こんだけ努力したんだからもっとよこせ」とは特に思わない。

「あー、楽しかった、さあ次行こう」とさっさと前に進んでいくことができる。

だから、まるで自動運動する車輪のように、休みなく活動を行えるのです。

 

でも、「楽しむこと」ができなくなっていると、「自分は楽しくないことを無理してやった」という不快感が後々まで残ってしまうので、その埋め合わせが済むまでは本人は先に進むことができません。

自分が我慢して耐えた「辛さ」が、先生から褒めてもらったり、人々から尊敬されたり、何かしら特殊な能力が発現したりすることで報われるまで、どうしても次に進むのを躊躇ってしまうようになる。

そうでないと、何だか「損した気」がしてくるからです。

 

だから、「無理して修行する人」は、段々とケチ臭くなっていきます。

努力すればするほど、「もっとよこせ」的マインドに居着くようになり、常に不満を抱いて生きるようになる。

 

そういう人は、「こんなに頑張っているのに先生が自分を見てくれない」と言っては裏で自分の師を批難し、「誰も自分を尊敬してくれない」と嘆いては他者への敬意を失い、「いつまで経っても全然上達しない」と悲観しては自分の無能を呪います。

まだ「欠けたもの」が満たされていないと本人は感じている。

そして、「それ」は誰か他人が満たしてくれるもののはずだと、頑なに信じているのです。


しかし、自分の中の「欠けた何か」は他人が満たしてくれるものではなく、自分自身で満たすものです。

それは、「今ここを深く楽しむこと」によって、自分の力で満たしていくのできるものなのです。

 

でも、これが多くの人にはたいへん難しい。

現代日本に生きる私達は、「物事を楽しむ能力」が極めて未発達な状態にあると思います。

「楽しむ力」よりもむしろ、「我慢する力」のほうが一般的には評価される傾向にある。

 

それは、人々の「我慢する力」が高いほうが、「言った通りに動く人形」を作る上では都合が良いからです。

だから、「人間」よりも「人形」を欲する人が社会に増えれば増えるほど、「我慢する力」が評価される風潮は強まっていきます。

 

社会は「我慢する人」を欲し、「我慢する人」は社会からの承認を欲します。

両者は依存し合っている。

社会は「我慢する人」を賛美してその生き方を奨励し、「我慢する人」はそういった賞賛の言葉をよりいっそう効率よく人々から引き出せるように工夫を凝らすことになるわけです。

 

これに対して、「楽しんでいる人」はただただ自分の楽しさの中で自足しているから、何かに依存する必要を特に感じていません。

彼らは、誰に対しても「もたれ掛かろう」と思ったりしない。

 

でも、そういう人って、周りからはあんまり注目されません。

なぜなら、既に深く満足している人は、他人に「あれをしろ、これをするな」といった命令をしないからです。

誰にも何も要求しない人は、しばしば周りからほっておかれます。

だって、仮にほっておいても、特に誰の害にもならないのですから。

 

ただし、「楽しそうに生きている人間」を見ると、それだけで嫉妬する人というのが世の中には必ず一定数いますので、そういった人たちの非難の的にはなります。

これはもう二千年以上も昔からずっと変わっていない、人間社会の構図の一つだと思う。

 

私が考えるに、「嫉妬する人」たちというのは、「楽しそうな人」を見ているとだんだん惨めな気分になってくるのだと思います。

「自分はこんなに努力して、我慢を重ねて生きているのに、あの人はなんであんなに楽しそうにしていられるんだ!」と思って、憤慨するのじゃないかな。

まるで「他人の楽しさ」によって「自分の努力」が貶められているように、彼らは感じてしまうのだと思う。

 

そういった事情があるために、「自分の生に深く満足している人間」には、いつもどこからか批難の言葉が浴びせられます。

言葉で足りないと、実際に殴られたり石を投げられたりもする。

 

享楽的で先のことを考えない人間。

お花畑の理想論を語る楽観主義者。

 

だいたいにおいて、「楽しむ人」たちはそんな風に評価されます。

「楽しむ能力」をまったく欠いてしまっている人々にとって、「今ここを深く楽しんでいる人間」は理解も共感もできない「異邦人」ですから、時として「不気味な存在」にさえ映るかもしれません。

 

それゆえ、「楽しむ人」はいつも勇氣を試されます。

というのも、彼らはあらゆる人からほっておかれ、誰からも構ってもらえないかもしれないわけですし、場合によっては、「楽しむ力」が枯れてしまった人たちによる一方的な攻撃にさらされるかもしれないからです。

そういう「ほっておかれる寂しさ」や「攻撃される不安」を前にして、それでも「楽しむこと」を選ぶためには、やっぱり勇氣が要るものです。

 

では、その勇氣はいったいどこから来るのかと言えば、これもやっぱり「心底楽しむこと」によって自然と湧いてきます。

心の底から楽しむことができたとき、人は自分の寂しさや、他人から批難されることの不安に、少しだけ耐えやすくなるものだからです。

そうして、「怖いけど、もう一歩前に踏み出してみよう」と思えるように、段々と変わっていくのです。

 

そんな風に、毎日毎日「一歩」を踏み出し続けている人が、「いつも楽しそうな人」です。

少なくとも、私にとってはそうです。

 

だから、「いつも楽しそうな人」に出会うと、私は「とても勇敢な人なんだな」と思ってその人を見ます。

本当に、そう思って私は見ています。

 

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