【合氣道04/22】迷うことと迷わないこと

クラス:合氣道

日 時:2015年4月22日(水)・15時~17時

場 所:芦屋市立体育館・青少年センター柔道場

参加者:2名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 送ってから継ぎ足
    • 継いでから線を換える足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 両手取り天地投げ(止まって取らせてから)
    • 両手取り天地投げ二種(捌きながら取らせる)
    • 両手取り天地投げの変形
    • 両手取り四方投げ
    • 両手取り入身投げ
    • 両手取り一教
    • 両手取り二教裏
    • 両手取り呼吸投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

相変わらず参加者は少なめ。

あともう二~三人くらい参加者がいると、順番に色んな人と組んで稽古ができるのですが、生徒が二人だけでは、ひたすら同じ人と組んでやっていくことにならざるをえません。

 

たしかに、ずっと相手が変わらないと氣は合いやすくなるかもしれませんが、同じ人とばっかりやっていると、「チューニング能力」が伸びませぬ。

身長や体重は人によって違うし、筋肉の量も筋緊張の分布の仕方も、人が10人いればみんな異なります。

そして、そういった「色んな注文」にこちらの心身の波長をそのつど合わせるということも、合氣道の大事なお稽古の一つなのです。

 

といってすぐに一言足すのですが、「合わせる」というのはあくまで稽古を進めていく際のプロセスの一つであって、「最終的な目標」ではありません。

色んな人に合わせられると、「目の前の人に身体的に共感しやすくなる」という部分はあるんですが、ただただ相手に合わせて「わかる、わかる」と言ってあげることしかできないと、「じゃあ、これから二人でどうしよっか」と言うところまで話が進んだときに、「あ、えーと…」と言葉に詰まってしまいますからね。

 

「相槌を打つときは勢いが良くても、急に話を振られたとき、咄嗟の判断が自分でできない」というのでは、合氣道的には困ります。

というのも、合氣道では「先の先」と言って、必ず相手の行動の先を取ることを重視するからです。

「相手に触れる前には八割方勝負を終えておく」というのが、合氣道の稽古をする上での原則なのです。

 

「『触れる前に勝負をつける』なんて、そんなことできるわけないじゃん」と思う人がいるかもしれないですけれど、できちゃうんですね、これが。

というか、皆さんも日常的に「そういうこと」をかなり頻繁にやっているはずです。

 

本当ですよ。

私達は、自分と他人の身体同士が接触する前の時点で、既にお互いの間で大量の情報をやり取りしています。

そして、その「空氣中に溢れかえっている事前情報」を元にして、相手と直面するより前の段階で、自分の振る舞いを既にある程度まで決めてしまっているのです。

 

たとえば、勘の良い子供は、親が実際に叱言を口にする前に、自分のやってることを突然止めたり、自室に引っ込んだりすることによって、それを回避することがあります。

「そろそろ注意したろか、こいつ」という親の思念は、親自身の体臭や脈拍や呼吸の変化となって外部に情報発信されており、そういった親の身体情報を肌で察知できる子は、「こら、止めなさい!」の「こ…」の音を発しようとして口腔周辺の筋肉や表情筋を親が強張らせた瞬間を捉えてサッと身を翻し、叱言のタイミングを「スカす」ことができるのです。

 

少年部で教えていると、「こういうこと」が本当に上手い子に出会うことがしばしばあります。

この手の「感受性が鋭い子達」というのは、きっと自分の身を守る必要が、他の「いささかぼんやりした子達」よりも大きかったのでしょう。

彼らは、こちらが「そろそろ止めねば」とほんのちょっと思っただけで、もう「回避行動」を取り始めます。

こちらが叱言を言うために距離を詰め始めるに先んじて、彼らは道場の奥のほうへ移動を始める。

そうして、ジリジリと逃げる彼らを大人が大股で追いかけていって近寄った時には、もう耳の感度をすっかり落としてしまっているため、こちらの「こら!」という声が深くまでは入らないようになっています。

「聞く耳を持たない心身のモード」を、大人が隣接するより前に、既に作ってしまっているのです。

 

こういう彼らの「先の取り方」を見ていると、「実にあっぱれなものだ」といつも思います。

手玉に取られているのはむしろ大人達のほうです。

たぶん彼らは「親の先を取って逃げないと生きにくい家庭」でずっと生活してきたのでしょう。

だから、こと「叱言」に関する限りは、たいへんハイレベルな「先の先」を体現することができている。

 

彼らからしたら、その技術はもはや意識して使ってさえいないくらいに、よく身に馴染んだものなのでしょう。

というのも、それは彼らにとって欠かすことのできない「サバイバルテクニック」なのだから(合氣道の体術に「それ」が十分に活かされていないのが、私としてはなんとも残念なんですが…)。

 

閑話休題。

私達は実際に行動する前に、その結果を実はかなり正確に予測できています。

たとえば、「折り入ってご相談があるのですが…」と部下や後輩から話を持ちかけられた際にも、相手が肝腎の相談の中身についてまだ何も口にしていないうちから、「相手の覚悟がどの程度で、その話が自分にだいたいどういった影響を及ぼしそうか」ということについては、かなり確度の高い予測ができているものです。

 

時には、相手がこちらに向かって無言でツカツカと進み出てきているだけの段階で、「あ、これは今のうちにこっちも腹を決めておかないとな」と察して居住まいを正すような場合だってある。

それは私達が相手の身体が発している無数の情報を元にして、「先方の腹の決まり具合」とか「この後の会話によって自分がこうむる可能性のあるダメージ」とかをそこそこ予測することができているからです。


このように、別に合氣道の体術に限らなくても、私達は日常的に「高度な情報戦」を絶えず繰り広げています。

武道家はそれらをかなり意識的に自覚して見ていますが、一般の人々も「特別に自覚して見ていない」というだけで、誰もが「情報戦」をしてはいるんです。

だから、その空氣中を飛び交っている莫大な情報に、お互いの身体が接触する前の段階で何かしら手を加えることによって、「先」を取ったり、相手をしかるべき方向に導いたりすることが、合氣道家には(もちろん限界はありますが)ある程度までならできるわけです。

 

スポーツ化した競技武道をやっている人たちは「そういうこと」にあんまり興味がないかもしれないですが、少なくとも合氣道は「そういうこと」にばっかり関心を払っている武道です。

「触れる前に勝負を決めておく」というのは誇張じゃなくて本当にそうなんです。

だって、スポーツの目的は「相手に勝つこと」ですけれど、合氣道を含め日本古来の伝統を継ぐ武道は、「負けないこと」、言い換えれば「とにかく死なないこと」が最優先課題だからです。

 

武道においては、たとえ勝っても、死んだら意味がないんです。

やり合ったら死ぬかもしれない相手と、毎度毎度一か八かで切り結んでいたら、命がいくつあっても足りません。

命がかかっている局面で、毎回「バクチ」を打つわけにはいかんです。

 

なるべくなら、相手の刀が鞘の中にあるうちに、「あ、この人とやったら死ぬ」ということがわかっておいたほうが良いです。

そうすれば、相手が刀を抜く前に「参った!」と言うこともできるし、まだお互いの距離が離れているうちにすたこらさっさと逃げることもできる。

 

でも、実際にお互い刀を抜いて、相手の間合いに入って、剣がこちらの頭上に振り下ろされた頃になってから、「あ、この人とやったら死ぬ」とわかったって、もう手遅れです。

もっと早めに実力差を察知して「致命的なデッドエンド」を回避する手を必死で模索できる人でないと、武士というのは長生きができなかったんじゃないかな。

 

相手と面と向かって斬り合わねばならない状況に陥る前に、「あ、この人には近づかないどこ」とか「この人を敵に回すとヤバそうだな」とかいったことを察知して、「斬り合い」そのものを事前に回避するために、日々の生活の中であれこれ努力する。

それが「兵法」というものだと思います。

 

えーと、話が脱線しっぱなしですね。

何の話をしていたかというと、「合氣道の稽古では、『相手の言い分』にあんまり迎合しすぎず、自分のほうから積極的に『未来』を作っていくことも大事だ」という流れでしたね、たしか(ホントにそうか?)。

 

もちろん、相手の言い分に耳を傾けることは大事です。

特に、深く傷ついた人がもう一度立ち上がるためには、「これから目指すべき未来を示すこと」よりも、「誰かが何も言わず寄り添ってくれている時間」のほうが大きな意味を持ちます。

「未来」を見るのは、時間の経過によって傷がそこそこ塞がってからでいい。

 

でも、傷があるていど塞がってきた後になっても、相変わらず黙って相手の言い分に耳を傾け続けたら、今度は段々と相手の「生命力」がたるんで、張りを失い始めます。

せっかく回復してきた元氣の使いどころがないと、その人の「命」に弾力がなくなってくるのです。

 

だから、「相手の『命』がどうしたら伸びるか」ということを考える際には、「女性的な受容性」も「男性的な行動力」も、時期によってどちらも必要になります。

そして、その両方を修行の過程で同時に要求してくるところに、合氣道の難しさと面白さがある。

 

相手の言い分を聞きすぎると、動きの線は正確になるけれど、冴えが出ない。

相手の言い分を聞かずにズバズバ斬ってばかりいると、大きな力は出るのだけれど、そのエネルギーが相手にきちんと伝わらない。

相手の心身にこちらの生命力が十分に浸透するような線を丁寧に探しながら、それでいて決然と、迷うことなく動いていかねばならないのです。

 

はい、たいへんに難しそうですね。

でも、もし難しくなかったら、世界中でこんなにたくさんの人が合氣道をやってないですよ、きっと。

 

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