【合氣道04/28】嘘つきな武道家

クラス:合氣道

日 時:2015年4月28日(火)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:2名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 線を換える送り足
    • 継いでから線を換える足

(休憩)

  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 逆半身片手取り入身の基礎練習
    • 諸手取り入身投げ六種類

 

雑 感

この日は合氣道クラスのレギュラーメンバー二名が参加。

お二人とも先月中頃に審査を終えていて、もう袴を着用してもよいはずだったのですが、今は袴がたいへんに品薄でして、注文してから届くまでに一ヶ月近くかかってしまいました。

 

先週やっとお二人の分の袴が届き、一月遅れにはなりましたが、今回のお稽古でお渡しできました。

違和感なく穿いておられたので、たぶんすぐ慣れるでしょう。

これを励みに、今後もお稽古を楽しみながら続けていただきたいです。

 

さてさて、今回はひたすら「入身」の練習をしました。

「入身投げ」というのは、本当はけっこう「おっかない技」なのですが、稽古ではあえて「マイルド」なやり方をしています。

そのことについてちょっとご説明いたします。

 

本来であれば、「相手の近くに身を入れた時点」で勝負はついています。

「入身する」というのは、「相手の懐に安全な仕方で入ってしまう」ということなので、入った後は「煮る」のも「焼く」のもこちらの都合でできてしまいます。

一度安全に「懐」へ入ってしまうと、相手の身体情報をハッキングし放題になるし、急所も打ち放題です。

だから、入身された時点で、本当は相手はもう「死んでる」んですね。

『北斗の拳』のケンシロウじゃないですが、「お前はもう死んでいる」なのです。

 

今回のお稽古に参加されたお二人には、私の技を受けてもらって、入身されるということがどれほど「致命的」かということを、身をもってわかっていただけたと思います。

日常的に「あんな場所」に他人に踏み込まれる事ってまずないと思いますが、ああいう「あ、死ぬ」という感じが自分の身体でわかっていないと「入身」は習得できませぬ。

いささかビックリさせちゃったかもしれませんが、「死ぬ感じ」が自分の身体でわかっていないと、「なんのためにこんな動きを練習しているのか」がいつまで経っても理解できないのであります。

 

人間というのは、「殺そう」と思って頑張ってもなかなか死にませんが、「やあやあ、どうも」と言ってフレンドリーに近づいてくる人間に、パッと懐に入られると、一瞬で殺されることがあります。

たしか映画の『ハンニバル』だったと思うのですが、逃亡中のハンニバル・レクター博士が、彼を探していた捜査員だったかの大腿動脈を、道ですれ違いざまに平然と一刺しして失血死させるシーンがありました。

「入身」って実際にはあんな感じで使います。

人を殺すときには、別に大鉈を振るってぶん殴る必要はありません。

相手が無防備なうちに、さっと懐に入って「急所」を一刺しするだけでいいんです。

 

ハンニバル・レクター博士とは反対に、「殺してやる」という色濃い邪念を纏った人間は、「危険人物」であることが離れたところからでも明瞭に察知できるので、近づかれる前に誰もが反射的に「バリア」を張ります。

そんな風に「バリア」を張っているときには、神経が昂ぶって全身が臨戦態勢になっておりますし、あらゆる防衛反応が即座にオートで発動するようにもなっています。

こういった状態の人に「入身」をするのは、たいへん困難です。

ただ、よほど「平和ぼけ」をしている人は、「危険人物」を前にしてもこういった「最低限の防衛反応」さえ起こらない場合がありますが(そういう人は稽古中に当て身を急所に入れられかけてもボーッとして何が起こるか待ってしまうことがあります。そんなことでは「いざというとき」に死にますよ、ホントに…)。

 

とにかく、こちらが「殺そう」と思って頑張っていると、相手は全身に搭載された「生物としての機能」をフル活用するので、たいへん大きな抵抗に遭います。

一度こうなってしまうと、その「抵抗感」を上回るだけの「生の腕力」を出さないと、相手に致命傷を与えることができなくなる。

それで、「膠着状態に陥ってからゴリゴリと力比べをする」という、お稽古中によく見かける事態へと推移していくわけですね。

 

でも、スポーツはどうか知りませんが、本来の武道の殺法はそんな非効率的なことはしません。

「殺せる位置」に入って、「急所」に当てた刃をちょっと引くだけです。

人を殺すのに別に腕力はそんなに要らないんです、「入身」さえちゃんとできているならば。

 

と、こう書いてくると、「合氣道というのはなんとおっかない武道なのか、習いに行くのは止めとこかな…」と思う人もいるかもしれませんが、ちょっと待ってください。

ここまでは「入身」という技術の基本原理についての話です。

たしかに「入身」の技術はかなり「おっかない」使い方もできますが、別な使い方もできます。

それは、相手を「殺すため」だけではなく、「活かすため」にも使えるのです。

 

無防備な相手の「懐」にスッと入ることができると、たしかに「急所」が打ち放題ではあるのですが、そういった「どこに打ったらこの人は死ぬか」という情報は、「懐」に入ることによって初めて開示された「個人的な秘密」でもあるんですね。

「それ」はずっと必死に隠されてきた。

「誰の目にもぜったい触れないように」と、「バリア」によって保護されてきたものなのです。

 

「入身」すると、その人がいったい何から自分の身を守ろうとしているのか、どうして自分で自分をそんな風にがんじがらめにしてしまっているのかが、フッと理解できることがあります。

たぶんこういうのって、カウンセラーの人とかも経験があると思うんですが、お互いの間である種の「親密さ」(専門用語では「ラポール」と呼ぶそうですね)が形成されると、コミュニケーションの水準がもう一段深くなって、「相手の核」にメッセージがダイレクトに届くようになります。

これが体術で言えば、「相手にエネルギーが届く状態」であり、言い換えれば「技がかかる状態」です。

 

そこから「技」を実際にどうかけるかは、取りの側の自由裁量に委ねられています。

相手をそのまま殺すようにもかけられるし、反対に、相手の身体を導いて動かし続け、活き活きとした躍動感が相手の身に宿るまで「一緒に踊る」ということもできる。

そのどちらにするかは、いつも取りの側が選ぶのです。

 

植芝盛平翁先生は、晩年に「皇族の前で演武をして欲しい」という依頼がきたとき、一度はそれを断られたそうです。

当時、翁先生は肝臓をかなり悪くされていたらしいので(モンゴルで馬賊につかまったとき、同行していた自身の宗教的な師である出口王仁三郎師を助けるため、「バケツいっぱいの塩水を飲み干せたら見逃してやる」と言われて本当に飲んでしまったそうです)、そういったご自身の体調不良ゆえに依頼を断られた部分もあるとは思うのですが、演武を断った理由はそれだけではなかったようです。

 

翁先生自身の語ったところによると、「演武というのは『嘘』であるから、それを高貴な皇族の方々にお見せするわけにはいかない」ということでした。

本当であれば、合氣道の技は「一撃必殺」であり、受けた相手は二度と起き上がっては来ない。

相手が起き上がってくるのは、そういう風に技をかけているからであり、それは稽古をするための方便に過ぎないのだ。

それゆえ、演武で何度も相手が起き上がれるように技をかけることは「嘘」を演じていることと同じであり、そのようなものは皇族の方々にお見せするべきものではない。

 

それが翁先生自身が語った、「演武をしない理由」です。

合氣道は一見すると「穏やかでエレガントな武道」に見えるかもしれませんけれど、それは私たち合氣道家が懸命に「嘘」をつき続けているからです。

本当は一発で「終わり」にできるのに、あえて「終わり」にしないで「対話」を続けることを選んでいるのです。

 

師は「終わらせること」よりも「対話を続けること」を選びます。

「なんだ、まだ君は向かってくるのか。もう死んでいるというのに、どうしてそれがわからないんだい?」と、受けを取る人間(弟子のことです)に対して師は辛抱強く語りかけ続ける。

そして、「あ、そうか自分はもうとっくに死んでいたんだ」と弟子が悟って、「途中で死んでしまわないように導き続けてくれていた師の愛」に氣づいたところで、弟子は師のもとを去って「次代の師」となる道に踏み出す(あるいは、人の師となった後になってから、自分が受けていた「師の愛」を知る)。

武道修行というのは「そういうもの」です。

 

「入身」というのは本当に「危険な技術」です。

「ボケーッとして年中隙だらけの人」にであれば、修行不足で「邪念」がまだ十分に消えていない「粗雑な入身」であってもけっこう効いちゃうので、師範は教える相手を丁寧に選ばないといけません。

「入身」を中途半端に会得した段階で「せこい復讐」にその技術を使いそうな人には、絶対に「本当のところ」は教えてはならないのです。

 

なぜなら、「武道の危険な技術」というのは「原子力」みたいなもんだからです。

人間としての成熟が足りていない段階で「手に余る力」だけを得てしまうと、それを「善用」するどころか「コントロール」することさえも、私達にはできやしないのです。


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コメント: 2
  • #1

    こっしー (水曜日, 29 4月 2015 09:31)

    先日 合氣道を稽古する目的は、お互いの生命力を高める為だと言う事を教わりました。
    危険な技も、同格と言う互いの呼吸を合わせる動きに変えて、気持ち良く伸びが出るような技に持って行くという様な事が出来ると、楽しく稽古出来ますね。

  • #2

    湯浅和海 (水曜日, 29 4月 2015 18:18)

    こっしーさん
    合氣道の稽古って、やってること自体はけっこう殺伐としているように私は感じていて、そういう「暗い部分」はやっぱりちゃんと知っておきたいなぁとも思っています。
    そして、それを知った上で、「じゃあ、どうしたら創造的に命の力を使えるんだろう」ということを考えたいのです。
    「壊す」のに比べると、「創る」のってホントに難しいですけどね(^_^;)