【合氣道04/29】弟子の資格

クラス:合氣道

日 時:2015年4月29日(水・祝)・15時~17時

場 所:芦屋市立体育館・青少年センター柔道場

参加者:5名(体験1名を含む)

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 継いで送る足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 正面打ち入身投げ
    • 正面打ち呼吸投げ
    • 正面打ち四方投げ
    • 正面打ち一教
    • 正面打ち内回転三教
    • 正面打ち内回転投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

祝日ということもあってか人数多めでした。

うちのホームページを見て来られたという体験の方もお一人いました。

ただ、入会についてはまだ考え中とのこと。

 

これは武道に限らないと思いますけれど、何かを習う際にはやっぱり「相性」が大事です。

いくら師範の言ってることが理に適っているように聞こえても、たとえ師が卓越した技能を披露しているように見えても、「なんかちょっとこの人は信頼できそうにないなぁ」と思うようであれば、習うのは止めておいた方がいいです。

 

こんなことを言うから余計に人が来ないのかもしれませんが、でも、やっぱり師弟関係においては「信頼感」ってすごく大事だと思うんです。

だって、師弟関係は「商取引」ではないから。

「先生、私はこれだけお金を払うので、これこれこういうくらいのことができるような人間にしてください」「はい、わかりました。金額に見合うだけの努力をします」「商談成立」とかいった話にはならないんです。

 

弟子は、入門する段階では師が本当は何を言っているのかを理解していません。

そもそも師が何を言っているか判断できるような尺度を自分の中に持っていないからこそ、その人は弟子となるのです。

そういう意味では、「この人は私にとって有用な技術を持っているので、そのためであれば頭を下げるのもやぶさかではない」とかいった風に弟子になることは誰にもできないのです。

 

もちろん、入門時点ではそれでもいいですけど、そういう「駆け引きマインド」を捨てられないと、たいていすぐに修行は行き詰まります。

というのも、「本当の師」は弟子が持ち出してくる駆け引きになんか、決して応じないからです。

彼は金にもなびかないし、おべっかを使って外側から操作することもできない。

そういう浅薄なもので動かせるのは、せいぜい師の表面的な振る舞いだけです。

 

そして、師はそういった表面的な振る舞いを通じて、「あなたにはまだ教わる準備ができていない」という無言のメッセージを弟子に向かって送り続けます。

その「師の愛」に自力で氣づけた弟子から次のステップに進めますが、氣づかないと何年修行しても「最初の場所」から動けません。

残酷ですが、そういうものです。

 

弟子に「教わる準備」ができていれば、「教え」は器から器へ水を移すように、自然と起こります。

まるで浸透圧の関係で水が移動するように、それはこちらが「起こそう」と思わなくても、勝手に「起こる」。

弟子の心身はあたかも磁石になったかのように、「教え」を引き寄せ始めるのです。

 

でも、そのようなことが自然と起こるためには、師と弟子の「波長」が合っていないといけません。

いくら師が丁寧に教えを授けていても、師の語る理論がどれほど整合的であっても、弟子の側が師と同じ「チャンネル」に合わせられないうちは、本質的なことは何も起こりません。

多少は知識が増えたり、個人的な身体能力が増大することはあるかもしれませんが、弟子の意識が根底から覆るようなことはない。

 

むしろ、「チャンネル」がずれて混線したまま話し続けることによって、弟子の人生は空費されてしまい、それと同時に、師の時間もまた無駄になります。

それは、師にとっても弟子にとっても不幸なことです。

だから、最初の出会いの段階で直観的に「この人とは合わない」と思ったら、弟子入はなるべくしないほうがいいです。

そんな風に「立派なことを言う人」や「人間的に素晴らしい人」を探すより、「自分に合う人」を探した方がいい。

私はそう思います。

 

この意味で、師弟関係って恋人との関係に似ています。

「この人って素敵!」と思ってのぼせ上がっちゃう相手って、往々にして人間的に特に優れていたりですとか、他の人にはない特殊な技能を持っていたりとかするわけじゃないんですよね。

むしろ、私達が誰かに強く惹き付けられるのって、そういう「実体のあるもの」によってではなく、どのようにでも解釈可能なある種の「空虚さ」みたいなものによってじゃないかしらん?

 

だから、恋人に対して「この人はすごい!」って思っちゃうのは、やっぱり「思い込み」なんですよね(残念ながら)。

相手が抱えこんでいる「空虚さ」の中に自分が勝手に見出した「何か」が、その人のことを「すごい」かのように見せてるだけであって、周りで見ている人たちは「まあ、本人が良いって言うんなら止めないけど…」と白い目で見ていたりするわけです。

 

でも、人間の「思い込み」が持っている力って、侮れないものがあります。

というのも、自分の師のことを「この人はすごい!」って心底思っていると、実際には大してすごくもない人が先生であっても、弟子はその一挙手一投足から日々たくさんのことを学んでいくことができるからです。

 

弟子は、自分が抱いている「思い込み」を推力にして、「周りが見えなくなっちゃうくらいの激しい恋」をすることへ躊躇している人たちが、決して辿れないような困難な道を一直線に進んでいきます。

もちろんそのような道は、往々にして痛みや失敗を伴うものですし、他人にけっこう迷惑もかけます。

しかし、痛みや失敗や人の目を気にして、何年も「最初の一歩」を踏み出せない人たちに比べると、「恋する人」は急激に変化していきます。

たとえ目の前が地雷原だろうと、「彼ら」は進むのを躊躇いません。

「彼ら」が怖れるのは、「恋した相手」がいつか必ず失われるという避けようのない事実についてだけです。

 

「恋する人」は自分たちの時間が有限であることを知っています。

だから、「彼ら」は躊躇わない。

躊躇って煩悶している時間よりも、まだ生きてくれている自分の相手と一緒に過ごせる今この時をこそ、大切にしたいと思うがゆえです。

 

師弟関係においては、「この人は自分の師たりえるかどうか」と値踏みしてから信用することは意味を持ちません。

そういう仕方で弟子になる人はどこにもいない。

それはちょうど、「この人は自分の恋人たりうるだろうか」と値踏みしてから恋に落ちる人がどこにもいないのと同じです。

 

お互いの「波長」が合っていると、人は相手のことをいちいち値踏みしたりしないで、そのまんま信頼することができます。

でも、「波長」が合っていない相手と無理して一緒にいる場合には、人はついつい「証拠」を求めてしまう。

「愛する根拠」を集めて自分自身を納得させないと、心が波立って落ち着かないからです。

そして、「この人と一緒にいると将来どんな『イイコト』があるだろう?」というようなことばかりを、いつも気にして過ごすことになる。

 

でも、そんなこと、誰にわかるんですか?

未来はまだ何も決まっていません。

それは、相手と一緒にこれから創っていくものです。

相手も変わっていくし、自分も変わっていく。

そして、いつか必ず二人ともこの世からいなくなってしまう。

 

メリットとデメリットを秤にかけている間に、何度だって有意義な失敗ができるし、何度だってやり直すことができます。

「そっちの未来」に、自分の魂を預けられるかどうかです、弟子になれるかどうかは。

「絶え間ない変化」の中で「いつか必ず来る終わり」に怯えながら歩み続けている人は、師と共に過ごす日々を「かけがえのない時間」として生きます。

そういう人間が、何も学ばないわけがないんです。

 

私の年齢やら肩書きやら業績やらを棚に上げて、「この人のいうことは間違いない!」と、信じられるかどうか。

今の自分に見えるものだけで判断したり、他人からの意見を聞く度にグラグラしたりしないで、「この人について行こう!」と思えるかどうか。

 

それを自分の胸に聞いてみて、「YES」と返事がかえってきたら、入門をお勧めいたします。

でも、もしも自分の答えが「NO」だったなら、入門は考え直したほうが良いです。

でないと、お互いの時間を無駄にすることになるでしょうから。

 

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