【合氣道05/03】自分の足で…

クラス:合氣道

日 時:2015年5月3日(日)・17時~19時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:3名(うち体験1名)

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 後ろ受身

(休憩)

  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 相半身片手取り入身投げ三種
    • 相半身片手取り四方投げ
    • 相半身片手取り一教
    • 相半身片手取り天秤投げ
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

水曜に来られたのとは別な方が体験で参加。

楽しかったそうなのですが、お仕事の関係で稽古に来ることのできる曜日が少ないらしく、「参加できても月に一回~二回になりそう」とのことでした。

稽古そのものは本当に楽しかったようなのですが、さすがに「多くて月二回」となると、おそらく稽古でやることの手順を覚えるのがたいへんなのではないかと思いました。

そういった事情もあり、隔月開催のワークショップでも「エッセンス」は提示していることをお伝えし、合氣道クラスの入門よりそちらの継続参加をおすすめしました。

 

ただ、その方の稽古への向き合い方を見ていると、示された見本をパッと真似してその場でできるようになっていたので、集中力と見取りの能力は高いように感じました。

本人のやる氣次第では、道場での稽古回数は少なくても、十分に習熟は望めるかもしれません。

というのも、合氣道で大事なのは「道場でみんなと行う稽古」よりも、むしろ「日常的な一人稽古」のほうだからです。

 

これは同門の先輩にあたる或る人がおっしゃっていたのですが、「たとえばピアノを習うときに、自宅で弾く練習をしないで次のレッスンに行く人はいないだろう」と。

習ったことは、次のレッスンの日までにちゃんと自分で復習して、最低限のことはできるようにしておく。

また、鍵盤の上に載せた指が自在に動くよう、基礎練習も怠らないようにせねばなりません。

そういうことをしないでおいて、レッスンで先生が用意してくれたプログラムに寄り掛かっていても大して上手くはならないです。

そこには「上達するのは自分だ」という意識が欠けているから。

 

世の多くの人たちは、先生のことを「生徒を上手にしてくれる人」だと思っているように見受けられますが、違いますよ。

先生というのは、「いまの生徒にとって必要な練習の仕方を提示してくれる人」であるに過ぎません。

決して、「何の意識も持たずにボケーッとした生徒を、ボケーッとしたままでも上手になるよう仕立て上げる人」ではないのです(ただし、深い覚醒状態にある師だけは例外で、彼が近くにいるとそれだけで「ボケーッとした生徒」の覚醒を促すこともあります。しかし、そういう師は本当に、本当に、稀な存在なので、自分から進んで師を探しに行かないと、死ぬまでに一人見つけられるかどうかさえ危ういです)。

 

良い先生というのは、多様な練習法とそれぞれの注意点や落とし穴について熟知しています。

そして、「今この生徒にとって必要な練習法や観点は何か」ということを的確に言い当てることができる。

 

私の基準では、「うむ、君は今度はこっちに行きなさい」と個々の生徒に合わせて即答できる人が良い先生。

対して、「うむ、君たちを今度はこっちに連れて行ってあげよう」と言って、十把一絡げに引っ張り回すのが無能な先生です。

あとの先生のほうが一見すると「リーダーシップ」がありそうに思えるかもしれませんが、個々の生徒を見ることのできる冷静な観察眼のない先生がリーダーになろうとすると、往々にしてフォロワー(生徒)ともども自分を破滅させます。

というのも、他者を冷静に観察できない人は、そもそも自分のことさえも観察できていないものだからです。

そういう自己観察力の低い人は、人々を破滅に導く「自分の中の邪念」にまったく氣づくことができない。

 

自分自身への関心が大きすぎる人は、自分のことを観察し損ないます。

「それ逆じゃない」と思われるかもしれませんが、本当なんですよ。

自分への関心が大きい人は、自分のことをよく見ているようで、実際には観察することに失敗しています。

というのも、自分がどんな人間であるかということを気にしすぎる余り、「自分との距離」がたいへん近くなってしまっているからです。

 

人は何かをきちんと見ようと思ったら、必ず対象物から距離を取ります。

合氣道の体術で、「お互いの物理的な距離を詰めるときには相手を見るな」と教えられますが、それは人間の生理的な傾向として、目を使おうとすると対象と無意識に距離をおきたくなってしまうからです。


目が対象と近づきすぎたら何も見えません。

「見えない」というか、「何を自分が見えているかを解釈する余地がない」と言った方が良いかもしれません。

自分に関心を持ちすぎている人にも、これと同じ事が起こります。

自分を見ようとする余り、自分とぴったり同化してしまって、何も見えなくなるのです。

 

自分が何を「知りたい」と思っているのか。

何を「知りたくない」と思って忌避しているのか。

どのような「欲望」を隠し持って生活しているのか。

周りの人たちは、それらをどれくらい見透かしてこちらのことを「評価」しているのか。

 

こういった「自分に関する情報」は自己認識の精度を上げる際にはたいへんに有用ですが、自分との距離が近すぎるとさっぱり見えてきません。

こうなると「自分のこと」も見えなくなるし、「他人のこと」もわからなくなって疑心暗鬼に陥ります。

なぜなら、「自分のこと」を見るのに夢中になりすぎると、「他人のこと」を見る心の余裕までなくなるからです。

 

だから、人を導けるような「良い先生」になりたいと望む人は、まず「他人のこと」より「自分のこと」をよく見た方がいいのです。

でも、決して「近く」でジッと見ようとばかりせず、自分を見るときの「焦点距離」がどれだけ自在に変えられるかを、いろいろ試してみるのです。

 

あるときには、自分の感情や悩みにどっぷり同化してしまい、自分との距離が「ゼロ」になってしまう。

それに呑み込まれ、一緒になって大忙しで右往左往する。

また、別な時には、自分の高揚感さえもがまるで他人事のように遠くに感じられる場合もある。

そんな時には「あ、そういえばこの高揚感は昔体験したあの感じにも似ているなぁ」とかいったようなことを思い返しながら、同時に、その感覚にそっと寄り添えるように意識的な覚醒を保つ。

 

「距離が近いと見えない」というのも貴重な体験であり、「自分自身から分離していく」というのもまた、私達の意識に新しい「味わい」をもたらしてくれるものです。

そして、その両者の間を行き来できるだけ心の弾力が備わったとき、「他者への観察力」が、いえ、もっと正直に言えば「他者を氣遣うゆとり」が、結果として私達にもたらされるのです。

 

この「他者を氣遣うゆとり」を、自分の心に日々維持しようと努めている人が、私の定義する意味での瞑想家であり武道家です。

別に「厳しい修行」をしているかどうかは関係ありません。

たとえ「厳しい修行」をしていても、「修行に打ち込むことで自分と向き合うことから逃げようとしている人」は世の中にいくらでもいますから、「やってること」はどうでもいいんです。

 

問題は、「どういう意識でそれをしているか」です。

たとえ頻繁に道場へ来ていても、無意識な人は「先生が自分を上手にしてくれる」と期待してばかりで、「私は自分の稽古をしにここへ来ているのだ」という意識を持ちません。

反対に、たとえ道場に行けない期間が長くても、武道的な意識で生活している人にとっては、家庭も職場も「修行の場」となります。

 

だから、結局は本人次第なのです。

何度でも言いますが、師にできることは「歩くべき道を示すこと」までであり、「実際に道を歩く」のは弟子自身にしか決してできない仕事なのです。

 

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