【合氣道05/05・05/06】時間がなくなってきました

二回分の記録をまとめて書きます。


クラス:合氣道

日 時:2015年5月5日(火・祝)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:4名


内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 線を換える送り足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 後ろ両手取り呼吸投げ(輪っかの中に指先を通す)
    • 後ろ両手取り入身投げ
    • 後ろ両手取り四方投げ
    • 後ろ両手取り呼吸投げ(相手が坐ろうとした椅子を引く)
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

クラス:合氣道

日 時:2015年5月6日(水・祝)・15時~17時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:6名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継いでから送り足
    • 送って継いで送り足

(休憩)

  • 体術
    • 三種類の腕(観念の使い分けの稽古)
    • 諸手取り呼吸投げ二種(取らせてから・取らせながら)
    • 諸手取り四方投げ
    • 諸手取り入身投げ

(休憩)

  • 体術
    • 諸手取り一教
    • 諸手取り天秤投げ
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

最近、「日誌読んでます」というお言葉を何人かの方からいただくようになり、たいへん励みになっております。

長くて理屈の込み入った話が多いと思うのですが、お読みくださりどうもありがとうございます。

 

ただ、今月から稽古の回数が増え、プライベートでも時間がなくなってきているので、稽古日誌を全部の回について書くのがいささか困難になってきました。

まあ、もともと義務でやっていることでもないので、無理のない範囲で続けていこうと思っています。

読者のみなさまは、今後もゆるゆるとお付き合いくださいませ。

 

さて、二回分です。

ゴールデンウィークでしたが、いつも通り火曜も水曜も稽古をしました。

祝日ということもあってか、久々に人数が多かったです。

このところ参加者が二名とか三名の回が続いていて、だいたいにおいて「体術で組む相手がずっと同じ」という状況でした。

やっぱり色んな人と組めたほうが稽古は楽しいですね(ひゃっほう)。

 

5日(火)の取り手は後ろ両手取り。

記録を見ると、後ろ両手取りはちょうど二週間前の火曜にもやってました。

後ろ両手は前まであまりやっていなかったんですが、この春から取り手のバリエーションを意識的に増やして、生徒さんのレベルアップを図っているのであります。

 

後ろ両手取りでは取りと受けの動線がかなり立体的に交差するので、頭で動作を組み立ててから動こうとすると、途中でお互いの腕がこんがらがってしまいます。

相手が後ろに回っていて目視できないということもあるので、いつも以上に皮膚の感覚を敏感にして、相手の存在を肌で感じる必要があります。

 

稽古に参加された方は、接触する直前に受けの腕にできる「たわみ」に自分の腕の曲がり具合を添わせる感覚を覚えておいてください。

もっと言えば、稽古中に私が見せたように、実際には「添わせる」という後手に回った形で技を行わず、相手の腕がほどよくたわむようにこちらから進んで取らせに行きます。

相手と自分の腕の「同化プロセス」は、本当は接触前から始まっているんですね。

 

この「接触前から始まっている」という意識の持ち方は、初心のうちからよくよく稽古してください。

後手に回ってしまってから対処する癖が一度ついてしまうと、段位や級位が上がってからこれを直すのは非常に困難です。

できるできないはともかくとして、「触れる前から始めておく」という意識で稽古するだけで、後々大きな違いが生まれますので…。

 

「向こうが触ってきてからしか相手の身体は操作できない」と思っている人が多いと思いますけれど、そんなことはありませんよ。

このことは熟練のウェイターや配車係の動きを見ているとよくわかります。

彼らは、相手の動線から的確に身を外し、声のトーンを巧みに変えて「ここぞ」というタイミングでスッと近寄って声をかけ、手や目の動きによってお客様が進むべき方向の指示しています。

彼らこそ、相手に触れずに人を導く「マジシャン」達です。

 

こういった「マジシャン」達のやっていることは、武道の技術とほとんど同じです。

たとえば、「相手の線からいなくなるように」というのは体術の稽古で私がいつも言っていることですし、相手の体感に自分の身を添わせてスッと間近に入るのは「入身」の技術に通じます。

手や目によって方向を指示することも、正中線上で手を動かしたり、自分たちが進む方向と目付けを合わせる技術と本質的には同じです。

 

こういうのは武道の稽古をしていなくても、できる人はできます。

というのも、武道を成り立たせている技法体系それ自体は、「人間のコミュニケーションの在り方を逆用した殺傷技術」だからです。

人間が集団で暮らす際、お互いにくっついたり離れたりを繰り返す仕方には法則性があります。

人間は、どういうときに他人の存在へ生理的な反感を持ち、どういうときには抗いがたく惹き付けられてしまうのか?

それをよくよく理解した上で、お互いが触れ合うより前に「殺せる立場」を先取るための術が、武術の核にはあるのです。

 

もちろん、「相手とのコミュニケーションを最初から取らないで力尽くでバッサリ切り捨てる」というような技法もありますけれど、日本の武術は「お互いの調和」を重んじます。

そのような「調和」を実現した上で、「二人の行く先の舵取り」は自分のほうでできるようにしておくための技術が、日本の武の体系には詰まっているのです(そして、二人の行く先の舵取りを「相手だけが死ぬ方向」へ切ると殺法になるわけですね)。

 

だから、「人間ってどういう風に他者とかかわるのだろう?」とか、「どうしたら相手を的確に導くことができるのだろう?」とかいったことをずっと氣にして生活している人は、武道の稽古をしたことがなくても、武道的な技術を使えるようになっていることがあります。

ただ、彼らは武道家と違って、そういった技術を他の人たちが心地よい時間を過ごせるように使っている。

生産的、創造的な仕方で使っているわけです。

 

武道家はこういったコミュニケーション・スキルを、相手の心身を「壊す」ために使う仕方に習熟しています。

実際にそういう使い方をするかどうかはともかく、「破壊的な使い方」を知っていないと「創造的な使い方」をさらに深めていくことができないからです。

「破壊」と「創造」は同じコインの両面であり、どちらかの可能性だけを排除することはできません。

もしこの「相反する者同士の共存」を忌避すれば、「破壊」の方向へ自然と天秤は傾いていってしまうものです。

 

たとえば、「破壊的な使い方」を覚える過程で同時に心を鍛えていなかった者は、ちっぽけな自分の虚栄心や支配欲を満足させるために、技術を使うようになります。

身近な友人や家族を縛って意のままにしようとしたり、自分より弱い者を孤立させて己の孤独を誤魔化そうとしたりしてしまう。

 

武道の技術はコミュニケーション・スキルだから、「そういう使い方」もできます。

私達の中に「愛する人を失う怖れ」が兆す限り、「相手が決して失われないように縛り付けたい」という想いに打ち克つことができない限り、こういった「負の使い方」は人々を魅了し続けるのです。

 

人間というのは絶えず変化していくものです。

氣持ちだって移り変わっていくし、いつ誰が死ぬかもわからない。

 

他人の氣持ちが自分から離れていくのが寂しい。

相手がやがていなくなってしまうことに耐えられない。

 

そう思って潜在的に恐怖を抱え込んでいる人間は、「力の負の使い方」に呪縛されてしまいます。

そうして親は我が子を縛り、教師は生徒のことを縛り、恋人達は自分のパートナーを縛ってしまうことになる。

「そういうことをしないためにはどうしたらいいのか」を考究することが、もはや誰かを殺すために武術の技法を使う必要がなくなった現代において、武道家が優先的に担うべき仕事だと私個人は思っています。

 

と書くと大仰ですが、一言でいうと、「ま、お互いあんまり『せこいこと』は言わずに、何があってものびのび息をしていようぜ」ということに過ぎません。

私が言いたいことはホントにそれだけです。

一番大事なことというのは、いつだって「とてもシンプルなもの」だと愚考する次第であります。

 

水曜の諸手取りについても書きたいことがあったのですが、話がとめどなく長くなりそうなので、またの機会に(すみません)。

ひとまず、稽古に参加した人に向けて、ワンポイントアドバイスだけ。

 

「氣が出ているときの意識状態」(瞑想状態・安定打坐)を、途中でブツッと切らないようにしましょう。

指先からほとばしる水の流れを感じたら、その意識をキープしたまま動いていくこと。

相手がこちらの手を掴んできてから氣を出すのではなく、相手がこちらの身体に触っていてもいなくても、ずっと氣を出し続けるように。

氣が抜けるとそこが隙になって相手に入り込まれますので、せめて「自分の番が回ってきたら全員投げ終わるまで瞑想状態をキープ」くらいはできるところまで練習していきましょう。

 

氣を出す稽古においては、いついかなる場合であっても、相手にとらわれず「自分のありのままの立ち方(自然体)」を維持できるかどうかが問われます。

そういう意味でこれもまた「心の使い方」の稽古ではありますが、いきなり心だけを磨こうとすると練習法が抽象的になりすぎて頓挫する可能性が高いので、まずは呼吸法から始めることをオススメします。

要するに、まずは物理的に身体を使って稽古するのです。

 

「心を透明にする感じ」がわからなければ、先に「感覚を明確にする」ことから始めてください。

自分の中から「曖昧さ」や「ぼやけた感じ」がなくなるように、日常の事務作業などをテキパキ行うよう意識すると、それだけで感覚は徐々に明確になっていきます。

 

どうしても稽古中に相手へ氣持ちが囚われてしまう人は、こんな感じで「一人稽古」をよくおこなってみてくださいませ。

ではでは。

 

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