【ダンス05/07】他者を敬う

クラス:ダンス

日 時:2015年5月7日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:3名

 

内 容

  • グルーミング(下半身⇒上半身)
  • 肩をゆるめる
  • 鳩尾をゆるめる(邪気の吐出)
  • 下丹田を活性化させるワーク
  • 正坐で丸める・反る
  • 四つんばいで丸める・反る(脚と骨盤の一致を意識)

(休憩)

  • ダンス
    • プリエとルルベ
    • アップとダウン
    • 胸を中心に踊る振り付け
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

久々のダンスクラスでした(主観)。

いまや合氣道クラスは多いと週に四回開催してますから、全部自分で教えている私からすると、かなり時間が空いたように感じてしまいます。

7月からダンスクラスも週二回に増やそうと思ってますが(開催曜日についてはまだ検討中です)、6月から合氣道の少年部も始まりますし、比重がだいぶ偏ってきてます。

最初はダンスクラスしかなかったのになぁ、うちの教室。

 

今回の参加者は三名。

ダンスの経験者も二人いますが、それぞれに専門分野が異なっています。

うちのレッスンはダンスジャンルの垣根をこえて、いろんなテクニックをごちゃ混ぜに教えていますから、参加者の専門とは違う運動をしてもらうことも多いです。

でも、どの方も「これは自分の専門じゃないから」と言って、嫌々やっている様子はありません。

私が「今度はこれをやってみましょう」と言うと、「できるかな…」と不安そうな顔をされることはありますが、「これは自分には必要ない」と思っているようには見えません。

きっと、私のところに何かしらのテクニックを学びに来ているわけではないからでしょう。

 

彼らとは違って、何かしらのテクニックを習得しに来ている人というのは、「自分が求めている技術」には強い関心(「執着」と言ってもいいです)を示しますが、それ以外の練習には熱心に取り組みません。

そういう人は、レッスンそのものの参加態度もだいたいにおいて誠実ではないです。

だって、先生のことを「必要な硬貨を投入したら求める技術を吐いてよこす自動販売機」か何かだと思っているのだもの。

教えてくれる人のこと「人間」だと思っていない。

「金を払っている自分のために何かを与えてくれて当然の存在」だと思って、はなから見下しているのです。

 

まあ、かく言う私自身が長らくそういう「舐めた生徒」だったからわかるんですが(笑)、教師を「一個の人間」として敬うことさえできない人は、どれだけ時間と労力を費やしても何も学べません。

「まったくあの先生は何にもわかってない!オレはコーヒーが飲みたいって何度も言ってんのに、コーヒーのボタンを押すたびにお汁粉ばっか出しやがる!」とかいったような不平を陰で言い続け、先生がいったい何を思って「お汁粉」ばかり出してくるのかを、自分で考えてみないからです。


「先生に敬意を払いましょう」というようなことが、学校や習い事の教室でいつもうるさく言われるのは、単なる道徳的なお話ではなくて、「他者を敬うモード」を身につけないと「智」にアクセスすることができないからです。

別に、先生のことを必ずしも「尊敬」しなくてもいいんです。

ただ、先生というのは権利上、生徒をどのような仕方で損なうかわからない存在ですから、先生からもたらされる「教え」によって深く傷つけられることがないように、「身をよじってかわす用意」が生徒の側には必要となります。

 

そして、この「身をよじってかわす用意」こそが、「敬う」という身体技法なのです。

恭しく丁寧に応接するのは、相手が「危険な存在」だからです。

別に「尊敬」しているから丁重に扱っているというわけでは、必ずしもありません。

たとえば、武道の道場では床に置いてある木剣や模擬刀などの武器を手に取るときは、必ず自分も坐って両手で扱うように指導されますが、そういう風に丁重に扱うように言われるのは、武器というものが本来的に「危険なもの」だからです。

 

「危険なもの」の危険さをマネージするためには、それに相応しい身体の処し方というものがあり、これが多くの場合、「礼儀」と呼ばれるものです。

特に、武道の師範はダンスの教師以上に「危険」です。

師範の氣分次第で、弟子は理不尽で過酷な修行を言いつけられるかもしれないし、いつ破門にされるかもわからない。

一般の人が「武道の道場」という言葉から、礼儀正しく格式張った雰囲気を連想するのは、だから、ゆえなきことではないのです。

 

師が「危険」なのは、本質的に師が弟子にとって「理解も共感も絶した他者」だからです。

何を考えていて、どういうことを基準に物事の判断をしているのかがさっぱり見えない。

こういう人が一番「怖い」。

ばっちり武装しているけれど、その力の使い方に分かりやすい法則がある人は、武装の程度によっては「危険」かもしれないけれど、それほど「怖い」わけではないです。

でも、「他者」というものは本来的に「その危険さが全く予見できない」という意味で、「私」にとっては「怖い」のです。

 

そして、そういう「怖い人(他者)」のほうに向かって、恭しく歩を進めるとき、人は長いあいだ自分を取り巻いていた分厚い殻を破って、「未開の地」へと踏み出すことになります。

その過程で、それまで「価値がある」と思っていたものが突然無価値に思えてきたり、ずっと仲が良かった人と何となく話が合わなくなったりします。

「未開の地」を独りで歩き続ける中で、たくさんのものが失われ、新しいものにも多く出会います。

それが、本当の意味で「何かを学ぶ」ということなのです。

 

「先生を敬う仕方が身についていない人」というのは、先生を「他者」だと思っていません。

理解も共感も可能な「自分の同類」だと思っている。

人として対等に付き合っていくだけなら、別にそれでも構わないですが、その人から何か本質的なことを学ぶ際には、こういった「あ、わかるわかる!」という安易なシンパシーが先へ進む上での障害になることが思いのほか多いのです。

 

繰り返しますが、別に私はシンパシーが「悪い」と言ってるんじゃないんです。

先生を「友達」みたいに思う態度もほほえましいものだし、人間的にくだらない先生を心の中で見下すことだって誰しもあるでしょう。

ただ、「この人は自分には得体の知れない異邦人だ」と思って相手を見ない限り、「自分の世界」はいつまで経っても元のままなのです。

 

もちろん、「元のままでもオレはいいよ」と言う人は、そこに留まったらいい。

わざわざ「未開の地」になんか行かなくたっていいでしょう。

しかし、本当は誰もが「異邦人」なんです。

自分の家族や親友、恋人でさえ、時として「理解も共感も絶した他者」となりえます。

「ああ、あの人のことがまたよくわからなくなってしまった…」という嘆声を私達が不意にもらすのは、むしろ「例外的に親しい人」に対してであるはずです。

というのも、そういう「わからなさ」に何度も何度も躓くくらい必死にわかろうと思う相手のことを、私達は「親しい人」と呼ぶのですから。

 

「親しい人」がわからなくなると、それまで何事もなく維持されてきた自分の世界観が、唐突に「ぐにゃり」と歪みます。

どんなに堅牢なものに思えても、「それ」はいつ壊れるかわかったものではありません。

「親しい人」はいつどんな風に変わってしまうかわからないし、どんな形で失われるかも予見不能です。

 

「親しい人」でさえ私達にとって「異邦人」なのに、どうして他人のことがわかるでしょう?

「礼儀」を知らないティーンエイジャーが危なっかしく見えるのは、彼らが「他者」を知らないからです。

「どうせこいつも同類だ」と高を括っていた相手から手痛い反撃を受ける可能性を、彼らが全く考慮していないからです。

 

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