【ダンス05/14】幽霊みたいに

クラス:ダンス

日 時:2015年5月14日(木)・19時~20時30分

場 所:コミスタこうべ302号室

参加者:3名

 

内 容

  • 「動を内に含んだ静止」と「動の消失としての停止」について
  • グルーミング(下半身⇒上半身)
  • 鎖骨はがし
  • 邪気の吐出
  • 下丹田を活性化させる
  • 肩の一点を意識して動かす
  • 骨盤の一点を意識して動かす
  • 呼吸法(身体の中心に息を通す)

(休憩)

  • 阿吽の呼吸
  • 指先から動く振り付け

 

雑 感

ダンスクラスではこの二ヶ月ほど、身体の中心へ意識を向けてもらうようにメニューを組んできました。

「中心」というのは、たとえば骨盤や背骨といった身体の解剖学上の「コア」にあたる部分、または、武道で正中線と言ったりバレエでセンターと呼んだりする「軸意識」のことです。

 

これら「中心」の感覚が深まってくると、身体の使い方はとても効率がよくなります。

自分の身体がその「中心」だけしか存在しないような感じがしてきて、無駄な動きをしなくなるし、雑念も消えてきます。

「中心」が定まれば定まるほど、身体があっちやこっちにブレなくなるし、そうして身体からブレがなくなると、不思議なもので心もざわつかなくなるんですね。

 

また、「中心」の意識を細く細く研いでいくと、外側から人や物が自分の身体にぶつかってきても、その衝撃をスルッと受け流すことができるようになっていきます。

それはちょうど、細い木の棒を風が吹く場所に上から吊しておくようなものです。

幅の大きな木の板だったら風に翻弄されるでしょうが、細い棒なら、棒の中心に直接当たる強風以外は簡単に受け流してしまえるでしょう。

 

人間も「中心」の意識が曖昧ですと、身体の実体や氣配が太くなってしまいます。

図像的に表現すると、「幅の広い板」だったり、「半径の大きな円柱」のような氣配になります。

これでは、そこに居るだけで場所塞ぎになってしまいますから、ちょっと人混みを歩くだけでも通行人とガンガンぶつかります。

「中心」を抑えられてしまうと人間というのは動けなくなりますが(武道ではそうやって相手を「金縛り」にかける技法があります)、こんな風に「中心」の意識が太いと、しょっちゅう色んなものに引っかかっては立ち往生するため、簡単に身動きが取れなくなってしまうんですね。

 

おそらく、こういった「中心」に関する感覚は、昔の日本であれば誰もが意識せずに使いこなしていたと思います。

今ほど機械文明が発達していなかったときには、機械に頼れない分、身体をうまく使うしか日々の仕事の労力を減らす方法がないわけで、自然と効率的な身体の使い方を人々は習得していったはずです。

 

でも、今の時代に生きる私達は機械に頼り放題ですから、身体の使い方がどれほど劣化してしまっていても、そのことに氣づく契機がありません。

まわりに「中心の感覚に従って生きている人」もほとんどいないし、そういう身体技法がかつての日本には在ったということそのものを知らない人がとても多い。

 

うちの教室のレッスンやお稽古は、こういったことに氣づいてもらうための場でもあります。

私程度のレベルでは大したことはできませんが、それでも普通一般の常識とは違う世界への「橋渡し」くらいはできるかと思い、お導き役をいたしております。

 

というわけで、この二ヶ月ちょっとの間、ダンスクラスでは「中心」をメインテーマにすえてレッスンをしてきました。

一塊になっている肩を溶かして、一枚の板になっている胸を溶かして、大きく横幅を取っている骨盤とお尻を溶かして、手や足はあくまで中心から運動が伝わっていく付属物だと考えてもらう。

そうして「中心以外」が溶けて流れ去っていくと、だんだんと自分の存在感が希薄になっていきます。

というのも、「中心以外」を全部溶かすと、「自分の中心」というものそれ自体が実はどこにも存在してはいなかったのだと、回り回って自覚されるようになるからです。

 

このことがわかると、「自分の中心」という実体のない「魂」だけが後に残って、そのへんを遊弋しているような体感になります。

なんというか、まるで「幽霊」にでもなったような氣分がしてくるのです。

 

普通、ダンスというと「自己表現」みたいに考えられがちですが、私は自分で踊っているときに、どうもそういう感じがあんまりしないです。

もっと言えば「自分で踊っている」という感じさえしないことがあります。

まるで「誰かの呼び声」に応えるように、身体が勝手に動き出してしまうことがあるのです。

 

「中心の感覚」が研ぎ澄まされてくると、「エゴ」が落ちます。

「こうしたい」とか「あれはイヤだ」とかいったことを、あんまり思わなくなる。

思わなくなると言うか、「自分のことのように感じなくなる」と言ったほうが実感には即しています。

「自分の感情」と「自分自身」との間の距離が遠ざかっていくような感じになるんです。

 

そういうときには、私が「自分の感情」だとこれまで思ってきたものって、本当に「自分の」なんだろうかという疑問も生まれてきます。

それはたまたま「私」によって演じられてきた、「別の誰かの感情」だったんじゃないかと思える瞬間がある。

恐怖とか、怒りとか、悲しみとか、踊っていてもいなくても、私達は生きていれば色々な感情と遭遇しますが、時にあまりにも感動が深くなりすぎると、それは「自分のもの」に思えなくなるんです。

あまりにも感動が大きすぎて、「これが自分だ」とずっと思っていた小さな枠組みの中へ、感情が収まりきらないんですね。

海の水全部をコップ一杯に収めることができないのと同様、それは外へと外へと溢れ出していってしまう。

 

深いところから涙が溢れてくるときには、まるで「自分で泣くことのできない誰か」が、私の身体を通して泣いているように感じることがあります。

それは、「自分の涙」だと信じるには、あまりにも「遠いところ」からやって来たように私自身には思えるからです。

そこのおいて私は、「誰かの身代わり」として、一時的に身体を貸しているようなものなのです。

 

しかし、普段の生活の中において、「エゴ」はその大部分が色濃く残っています。

「誰それに勝ちたい」とか「もっと尊敬されたい」とか「お金をたくさん手に入れたい」とかとか、そういう「この世的なこと」を至上の価値のように思って追い求めている。

 

もちろん、そういうのは別に全然「悪いこと」じゃない。

ただ私は、それらの大部分を「もう不必要なものだ」と思っているというだけなのです。

というのも、往々にしてこういった「小さいエゴ」の構成要素というのは、かつてその人が子供だった頃、生き残るための必要性から身につけた「大人に愛されるための鎧」の残骸だからです。

 

「愛されること」

「嫌われないこと」

 

そういうことが一番の重要事だと思ってしまうのは、周りにいる大人達から愛されなかったり嫌われたりしてしまったら、生きていくことができないほどに、かつての自分が弱かったからです。

だから、愛されるために他人に勝つことを望み、嫌われないために言われた通りにし、自分に向けられた愛を繋ぎ止めておこうとして、お金や敬意を集めようとしてしまうことにもなる。

 

「愛には条件がつきものだ」と思っている人は、「そうじゃない愛」もあるということを知りません。

だから、怖くて「エゴ」を手放せないのです。

「愛」をコントロールするためには「エゴ」が必要不可欠だと、固く信じているからです

そういう人は「誰それに勝ったら愛してあげる」とか「言う通りにしている限りは嫌わないでいてあげる」とか告げる大人にはたくさん出会ってきましたが、「私はあなたのことを愛する、だからどうか生きていて欲しい」とだけ告げる大人には、ほとんど出会ったことがないのです。

 

「深い愛」を我が身に感じたことのある人は、「エゴ」を落とす際の躊躇いが、ほんのわずかではありますが、少なくて済みます。

なぜなら、「『これ』はもうなくても大丈夫だ」ということを、その人は心の底でたしかに知っているからです。

 

そうして「小さいエゴ」が落ちると、「大きいエゴ」に自分が不意に繋がるのを人は感じます。

「何か」が身体を通して流れ始め、「その人自身」は消え始める。

そうして人はだんだんと、「幽霊」みたいになっていくんです。

 

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