【合氣道05/30・05/31】感染し合う「諦めない心」

この土日に行った二回分の稽古をまとめて書きます。


クラス:合氣道

日 時:2015年5月30日(土)・17時~19時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:5名


内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 逆半身片手取り歩み足転換
    • 両手取り天地投げ(三種類の捌きで)
    • 両手取り四方投げ(心を常に前方へ向けて使う)
    • 両手取り入身投げ二種(下段と上段)

(休憩・水分補給)

  • 体術
    • 両手取り一教(自分と相手の「構造」を一致させて崩す)
    • 両手取り二教裏(「最後」まで諦めない)
    • 両手取り小手返し(かからないことさえ愉しむ心地で)
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

クラス:合氣道

日 時:2015年5月31日(日)・10時~12時

場 所:王子スポーツセンター柔道場

参加者:5名

 

内 容

  • 体操
  • 呼吸法
  • 足捌き
    • 送り足
    • 継ぎ足
    • 送ってから継ぎ足

(休憩)

  • 受身・膝行
  • 体術
    • 逆半身片手取り氣の流れ六方向
    • 呼吸合わせから相半身片手取り入身の捌き二種
    • 相半身片手取り入身投げ二種(下段と上段)
    • 相半身片手取り四方投げ
    • 相半身片手取り一教
    • 相半身片手取り小手返し
    • 坐技呼吸法
  • 輪になって呼吸

 

雑 感

30日の土曜のほうは、うちの会員の方がみなさんお休みで、凱風館からのビジター参加者だけでした。

それでも全部で5人もいたので、いつもはなかなかできない「ノルお稽古」ができました。

投げ終わったあとも後ろに下がらず、心を前に前に向けて使っていく稽古です。

 

そこからさらに、最近の私が個人的にもテーマにしている「諦めない心の使い方」を稽古しました。

「取りも受けも、どちらもなるべく諦めないで技を続けましょう」と言って説明したのですが、これは言い換えれば、「何となくで技をかけない」「ちゃんとかかっていないうちから勝手に受けを作らない」ということです。

つまりは、お互いの間で「対話」をなるべく長引かせるのです。

 

自分が技をかけるときに、もし「この人にはどうせ技がかかんないだろうな」と思っていると、大抵途中で手を抜き始めます。

たとえ自分では意識していなくても、あらゆるタイミングで「技がかからない未来」の実現に向けて、「努力の放棄」のための努力をしていくようになる。

 

取り(技をかける側)として場に立ったなら、「かからない」という前提で稽古を行ってはいけません。

「心」が消極的になっていると、「技がかからないかもしれない未来」に向かって、私達の「全体」が引っ張られるからです。

実際、まだ技の途中の段階で「こんなもんでいいか、もう後はいいや」と思ってしまうと、それまで活発に駆動していた心身の全機能がいっぺんに停止してしまうことになる。

 

スポーツでもそうだと思いますが、「なにがなんでも優勝してやる」と強く心に決めている人は、自分の心身のパフォーマンスを高い水準で維持できます。

別に「結果として優勝できるかどうか」が大事なのではありません。

そうではなくて、「必ず勝つ」と心に決めているのでなければ、そもそも持っている力は十分に発揮できないという「人間の心身の構造的な事実」について私は言っているのです。

 

「予選は通過できたし、不出来な自分としてはこのへんでもう十分かな」とついつい思ってしまう「心の癖」がある人は、実際には予選さえ通過できない場合が多いものです。

同じように、合氣道の稽古でも「技がここまでかかったんなら、自分としては上出来だ」と思うと、「そこ」がその人にとっての限界になります。

そして、それより先は、受けの人が調子を合わせて「技がかかった振り」をしてくれるのを、ただ待っていることしかできなくなってしまう。

まさに安西先生の言う通り、「諦めたらそこで試合終了」なのです。

 

私の師匠の師匠の師匠である中村天風先生がどこかで書いておられましたが、武芸者にとって一番大事なのは「確固不抜の信念」を養成することです。

たとえどれほど卓越した技術を身につけていても、逞しい筋骨を持っていても、「戦場」では、いざというときに心に迷いが生じる人間は決して生き残れないからです。

技術も筋骨も、所詮は「道具」に過ぎません。

もし本人の心がぐらついていたら、「道具」がどれほど優れていてもそれらを使うことはできない。

むしろ、そういう「使えない道具」をたくさん持っていると、「きわどい状況」を切り抜ける際には邪魔になるくらいでしょう。

 

稽古で技をかけるときだけでなく、受けをする場合にも、ある種の「往生際の悪さ」が大事です。

それは別に「相手がかけてきた技に頑張って抵抗せよ」ということではないです。

そうではなくて、「技が綺麗にかかる軌道」には乗りながらも、「技がかかり切る瞬間」がなるべくすぐには到来しないようギリギリまで工夫し続ける、ということです。

 

まだ技の途中の段階で、自分の「結論」を出してそれに飛びついてはいけません。

なるべく重心が崩れきらないところで自分の体勢を保ちながら、取りの側が送ってくる「声」に耳を傾け続ける。

「結局のところ、あなたはこういうことが言いたんでしょ?」という勝手な思い込みで、先に受けを作らない。

まだ相手の話が終わらないうちから、「自分語り」を始めない。

 

たしかに「決定しないで耐える」というのは、時として「しんどいこと」ではありますが、上記のような意識で受けの稽古を積むことによって、「あなたの言いたいことが私にはわかった」という断言をなるべく長く差し控えるための「作法」を、修行者は学んでいくことができます。

そして、その「作法」は、「私には師の言いたいことが全てわかった(だから、もう学ぶことは何もない)」と言ってしまいがちな私達の賢しらを、効果的に抑制する力にもなるのです。

 

取りは「私は、他でもないあなたに語りかけています。この声が聞こえていますか?」と言い続ける。

たとえ相手が無視しても誤解しても言い続ける。

受けの人は「あなたが何を言いたいのか私にはまだわからない。だからもっと話を聞かせて欲しい」と言い続ける。

たとえ相手が余計に謎めいたメッセージを返してきて混乱しても、なんとか食らいついて一緒にダンス・ステップを踏もうとし続ける。

 

この取り受け双方の「諦めの悪さ」が、「生産的な対話」を立ち上げてくれる。

…かもしれません。

結局のところ、それは一種の「賭け」なんです。

でも、諦めないで「心の力」をそこに賭ければ、少なくとも「対話を終わらせないでおくこと」はできる。

 

それは別に「意地の張り合い」というようなものではなく、「妥協の無さ」とでも言うべきものです。

お互いの「私」が消え、代わりに「私達の作品」が活き活きと生まれてくるのが、この地点です。

二人一組で同じ技をかけたり・かけられたりを繰り返す「氣を錬る稽古」も、本来的にはこういった方向性を持った稽古法なのではないか思います。

つまりは、「我を張り合った残り合い」から、「我を消し去った高め合い」へのシフトです。

 

そこにおいては、やはり「潜在意識の共有」ということが、技法上どうしても必要になってくるように思われます(これについては、31日の稽古でも何度か説明しました)。

私達の思考や感情、さらには咄嗟のときにでる言動は、そのほとんどが潜在意識によって生み出されています。

意識の全体を100とすると、表層の意識(顕在意識)が10で、潜在意識が90くらいの割合で、私達の判断や行動に関与している。

だから、表層の意識でいくら「私は心の力が強い人間だ」と自分に言い聞かせていても、潜在意識では「いやー、実はそんなに強くもないのよね、オレって」と思っていると、必ずそっちに引っ張られます。

 

衆寡敵せず。

顕在意識のレベルで自分の心身全体を操作しようと思うのは、あたかも大木の葉っぱが枝や幹や根っこに向かってケンカを売るようなものです。

どう考えても、葉っぱに勝ち目はありません。

そもそも、葉っぱは根や幹からの栄養なくしては、枝にくっついていることさえできないのですから。

顕在意識が潜在意識に勝てる道理はない。

 

逆から言えば、潜在意識に何かしらの方向性を与えることができるのであれば、仮に本人の顕在意識がそれに反対していたとしても、心身は潜在意識に与えられた方向に沿って引っ張られていくはずです。

つまり、頭(顕在意識)では「この人のことが嫌いだから、言うことなんか聞かないもーん」と思っていても、潜在意識のレベルで「この人と重心を共有したい(生物として一体化したい)」という方向性が入ってしまっていると、その人の「全体的総意」は後者の(いささかエロティックな)欲望を実現しようとして働き出すはずなのです。

 

これまでの私自身の経験としても、熟練の武道家に技をかけられたときには、「抵抗しようとする意思」そのものが、いつもうまく湧いてきませんでした。

氣づいたら自分でしゃがんでいる。

氣づいたら自分から進んで投げられている。

なぜかそういうことが起こるのです。

 

武術の達人は、相手をわざわざ「催眠」にかけるような長い手続きも経ずに、即座にこういうことができます。

そして、こちらは頭でいくらそれに抵抗しようと思っても、抵抗するための指令自体が、自分の筋肉へ的確に出せなくなるのです。

 

こういった事態を、私は長らく「相手が私の潜在意識を操作しているのだ」と解釈してきましたが、おそらく実際には「相手」も「自分」もそこには居ません。

そもそも、潜在意識というのは人間にとっての「根」にあたります。

そして、たぶんこの「根」は、深くて見えないところで、私達が「他人」と呼んで「自分」から便宜的に区別している存在者たちとも繋がっている。

つまり、私達は「同じ根」を共有した「一つの植物」のようなものなのです。

 

だとしたら、「相手が私を操作している」というような言葉遣いは正確ではありません。

なぜなら、かつて「相手と自分」という仕方で分かれているように感じられた二者は、今や「一つの意識」としてこの世に存在しているからです。

いえ、もっともっと正確には、「私」と「あなた」と「私達」という三項は、時間的な先後を伴わず、実際のところ全く「同時」に出来するのです。

 

鏡に映った「鏡像」が「私」と一緒に手を上げるように、「おはよう」という言葉に対して「おはよう」という返事が返ってくるように、そこでは「同じ身振り」が反復される。

そして、そのような「同じ身振りの反復」を通じて、私達は「解けない謎」を終わりなく育んでいくのです。

 

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