【合氣道10/27】判定せずに観察する

・2015年10月27日(火) 合氣道@王子

教室を再開して、無事に一ヶ月目を終えることができました。

週一とは言え不安もあったのですが、ひとまずホッとしています。

 

さて、この日はレギュラーメンバーの生徒さん二人と正面打ちを稽古しました。

正面打ちの時は、どうしても自分の手を相手の手刀に引っかけたくなります。

「そうしないと相手は動きっこない」というのが、私達の日常的な思考の前提にあるからです。

だから、無意識に自分の手を固めて鈎のようにし、接触する相手の手を引っ張るために使ってしまうのです。

 

でも、「引っかけないと動かせない」というのは思い込みというもので、実際には、接点を大事にしていると無理に手を張らなくても、ピタッと手と手がくっつくようになります。

反対に、手を強張らせるとくっつかなくなります。

緊張して固まっている人へは他の人も近づきがたく感じるものですが、同様に、強張った手は相手の手をパチンと弾いてしまうのです。

 

「緊張」は、いろいろな原因によって生まれます。

上手くやろうとしても緊張するし、技や相手への苦手意識によっても緊張します。

失敗する事や叱責されることへの恐れによっても緊張するし、重心が上がって身体のバランスが崩れていると、倒れることへの本能的な恐怖から自動的に身体が強張ります。

また、「相手が徐々に接近してくる」という物理的な事実そのものも、多くの人にとってはストレスとなりますので、これも強張りを生み出します。

こうなると、人によっては「強張らないこと」などほとんど不可能に思えるかもしれません。

 

事実、合氣道の稽古に限らず、生きていると「緊張」と無縁ではいられません。

そもそも生きて身体を動かしているというそれだけでも、常に身体の内側には偏りが生まれているわけですし、疲労と硬直も絶えず蓄積していきます。

 

ですから、自分の強張り(それは「不自由さ」とほとんど同義です)になるべく早く気づいて、できたら定期的にリセットをかけることが、心身のパフォーマンスを高く保って快適に日々を過ごす上では大切であると言えるでしょう。

そして、合氣道の稽古では、強張りやすい状況(相手が打ってきたり掴んできたり…)をあえて作ることによって、この「不自由さに気づいて素早くそれをリセットする回路」を強化する訓練をしているのです。

 

もし強張ったまま無理やり力ずくで技をかけても、「強張りに気づく能力」も「強張りをリセットする能力」も育ちません。

腕力はつくかもしれませんが、それだったらスポーツジムでウェイト・トレーニングをした方がたぶん効果的でしょう。

 

「自分は今、楽な状態(自然体)であるかどうか」

「そもそも楽な状態とはどんな感じなのか」

 

こういったことを、呼吸法や瞑想法の時はもちろん、技をやっている間も自己観察していきます。

大事なことは「ただただ観察すること」です。

私達はつい自分の技の巧拙をあれこれ「判定(ジャッジ)」してしまいますが(「今のはよくできたな」とか「さっきのはイマイチだった」とかとか)、それは余分なことです。

その手前の、「あ、ここで相手と力がぶつかった」とか、「今、重心が少し上がってきてる」とかいったことを観察するところまでは、強張り=不自由さをリセットするために必要なことですが、「だから自分はダメなんだ」とか「だから自分は大丈夫だ」という「判定」を下してしまうと、強張りはむしろ助長されてしまうのです。

 

「自分は悪い」と思えば、後悔したり、凹んだり、失敗を取り返そうとして焦ったりして心身が縮こまっていくし、「自分は良い」と思えば、事実として存在している強張りをだんだん無視してしまうように感受性が鈍磨します。

だから、「観察だけしてジャッジしない」ということもまた、「楽な状態(自然体)」を探究していく上では重要な心的態度と言えるでしょう。

 

技を一回終える毎に「自己判定」して、「今のはダメだった」と思っていると、そう思っている間にもう次の相手が来てしまいます。

「観察だけしてジャッジしない練習」を積まないと、たとえ動きを覚えても、この悪循環からは抜け出せません。

そもそも「正しい動きができているかどうか」なんて、気にしたってしょうがないのです。

そんなの一生できるようにはならないのですから。

 

「正しい動きを反復練習することで身体に定着させる」という考え方は不合理です。

「正しい動き」が反復できるなら、そもそも練習する意味がないからです(だって、もうできてるわけですから)。

私達は「正しい動き」をするために稽古をしているのではなくて、自分自身がその時々にどういう仕方で「正しさ」から逸脱しているかに気づくために稽古をしているのです。

 

この「逸脱に気づく力(それはそのまま「強張りに気づく力」でもあります)」は、稽古を重ねることで深まっていきます。

ですから、稽古が進むと、前は気づかなかったような微かな緊張や違和感でもすぐさま検知できるようになっていきます。

自分自身の内なる探知機の精度が上がるのです。

そして、それこそが私達の稽古の目的なのです。

 

「相手を動かさないといけない」と思うと、人は誰しも強張ります。

しかし、強張ったまま技をかけていると、探知機の精度は上がりませんから、稽古を進めていくためには、どこかでその「想い」を手放す必要があります。

そのためには、「相手を動かさないと」と思っているときに自分の内側に何があるかを「ジャッジしないで観察する」ことが役に立ちます。

なぜなら、「そんな風に思っちゃいけない」と自分で自分をいくら裁いても、それによって現状に対する理解は歪められるばかりで、決して自己理解の助けにはならないからです。

 

しかし、言うは易く行うは難し、です。

なぜなら、日常的にネットやテレビや雑誌などから膨大な他人の意見や情報が入ってくる現代において、私達は起きてから寝るまで「ジャッジ」しまくっているからです。

他人と自分の体格を比べ、年収を比べ、家庭環境を比べては一喜一憂しているし、他人と意見が同じか違うかをいつも気にしています(同じだと安心して、違うと動揺します)。

星占いや悩み相談室などで、何かしらの「判定」を下してもらいたがっている人もたくさんいることでしょう。

 

なので、どうしてもそういう「世間のムード」に引っ張られてしまいがちです。

「良いとも悪いとも言わずに、ただそのまま観る」ということは、意識しないとけっこう難しかったりします。

 

でも、こういった「判定癖」はたいていの場合、終わりのない自己否定に辿り着きますから、できたら足を洗いたいと私自身は思っています。

何でもかんでも「良い悪い」という二分割で物事を見ていると、本人の気づかないうちにそういった判定基準が絶対化してしまって、「こうじゃないなら自分なんてダメだ」と思うようになってしまい、深く苦しみます。

また、「他人と比べて自分はまだ良いほうだ」「あの人に認めてもらえたから自分は大丈夫だ」と一時的には思えたとしても、いつその評価がひっくり返るかわからない不安に苛まれ続けます。

 

合氣道の稽古をしていると、そういった日常の苦しみが技にも反映しているように感じられて、ゾッとすることがあります。

結局、「同じ問題」がどこに行っても顔を出すのです。

願わくば、「自分の問題」と向き合う怖さが少しでも和らぐような稽古を主宰したいものです。

 

次の記事へ

前の記事へ