「意識」の三層構造について

久しぶりに更新します。

半年近くほったらかしになってましたが、やっと新しい生活が落ち着いてきたので、近況報告がてら文章を書いていこうと思います。

 

この春に神戸から西宮に引っ越しまして、今はリハビリの専門家である理学療法士になるため、専門学校に通っています。ちなみに、今年入学したばかりなので、まだ一年生です。夜間の三年制でして、昼間は働いて夜に勉強する生活をしています。

 

とサラッと書きましたが、最初の半年は引っ越してきてから新しく始めた仕事や学校の勉強などで覚えねばならないことがいっぱいあり、そのうえ引っ越しに伴う環境の変化も手伝って、気持ちの上でも、物理的な時間という意味でも、余裕がありませんでした。

週に一度のオフ日は、溜まった宿題を片付けているか、疲れ果てて寝てるかのどちらかだったので、合氣道の稽古も2ヶ月に一度くらい顔を出すペースで細々と続けていた状態です。

 

そんなこんなで、この半年は慌ただしい日々を過ごしていたのですが、最近になってようやく仕事にも勉強にも慣れてきて、体も心も疲れにくくなりました。

「必要最低限のことだけするので精一杯」という状態から少し抜け出して、「余分なこと」をする余裕ができてきたように思います。

 

そこで、試しに文章を書くのを再開することにしました。

教室自体は閉鎖状態にありますが、文章を書くにはこの場所が私にとってやはり便利なので、その時々の思いつきや個人的な気づきなどをこちらに書いていこうかと思います。

まあ、あまり気負わずポツポツ書いていきます。そもそもが「余分なこと」なのですから。

 

さてさて、今回はいきなり胡散臭い話なんですが、「意識」の構造について書きます。前にもどこかで書いた話なんですが、ここ数日の気づきから、前よりも具体的に書けるような手応えが感じられてきたので、改めて書いてみようと思います。

最初に断っておきますが、ここで私が使う「意識」という言葉については心理学の定義とは違うかもしれません。ただ、私の身体実感と日常生活での体験から作った仮説を記述するうえでは便利なので、便宜的に「意識」という語を使わせてもらいます。

 

まず、個人の意識全体は次の三層から成ります。

すなわち、「表層意識」、「無意識」、「潜在意識」の三つです。仏教の理論とかだともっと細かく分けるのでしょうけど、とりあえず私は三つに分けます。

「表層意識」は、その名の通り、私たちの意識の最も表面にあって、比較的はっきりと認識したり自覚したりできる部分です。たとえば、「手を挙げよう」と思って手を挙げる場合には、自分が手を挙げているということもわかっているし、手を挙げていく際の体感も注意していれば追うことができます。こんな風に、「自分が何をしているか」(あるいは「これから何をしようとしているか」)、「今どんなことを感じているか」、また、「何を考えているか」などといったことを、自分ではっきり認識できる場合には、「表層意識」が中心になって働いていると言えます。

 

でも、私たちは、「つい思わずやってしまった」ということをたびたび経験します。「思わず言ってしまった」とか「気づいたらしてしまっていた」とかいうことは、実によくある。

こういう場合、「潜在意識」が中心になって働いている、と私は表現します。「潜在意識」というと堅苦しいですが、いわば「その人の本心」と「生物としての本能」が一緒になったようなものをイメージしてもらったらいいかと思います。

って、余計にわかりにくいですかね。

 

たとえば、「この人といるとどうも緊張してしまう」とか、「なんとなく今日のご飯はこれを食べたいな」とかいう風に感じることは誰しもあると思います。こういう場合、「表層意識」では、なんでそう感じるのかは、はっきりとわかりません。でも、たしかにある人と一緒にいるとそれだけで緊張してきたり、ある特定の物だけが食べたくなったりする。こういった、頭での判断以前の「反応」は、その人の心の深い部分や、身体に根ざしたものと言えます。

「潜在意識」には生まれてから今までの記憶や体験が全て詰まっています。また、生まれる前から受け継がれてきた種としての本能も、ここに入っている。

それゆえ、「潜在意識」と「表層意識」を比べると、前者のほうが圧倒的に広大な領域を占めています。よく使われるたとえですが、「表層意識」は氷山の一角に過ぎず、見えない水面下には「潜在意識」が大量に埋まっているのです。

 

では、「無意識」とは何なのかというと、「意識」という氷山全体の見える部分(表層意識)と見えない部分(潜在意識)とを分けている、一種の膜のようなものです。

この「無意識」という膜は、生まれたときにはまだありません。赤ん坊はいわば、「潜在意識」だけで生きているようなものです。不快を感じれば泣くし、快を感じればいかにも心地よさそうにしています。

いちいち頭で考えて、「果たしていま泣くべきかどうか」などと判断してから泣いたりしませんから、その振る舞いには一つも嘘がない。

 

しかし、赤ん坊が生きていくためには親をはじめとした大人たちによる多くの助けが必要ですから、赤ん坊は次第に「不快を感じても大人の都合に従わなくてはならないことがしばしばある」ということを学んでいきます。たとえば、泣くたびに親がイライラしたり、いくら泣いても構ってもらえないことが重なったりすると、赤ん坊は「泣きたいけど泣かない」という我慢をするようになる。

 

その後、学童期には「学校」という場の規則を守るよう強いられ、他の子とテストの点によって大人から優劣をつけられるようになります。

学校という新しい環境に順応するために、我慢することはますます増え、大人からの評価を得るために「思ってもいないこと」を言ったり書いたりするようになります(私は小学校の国語の作文は嫌いでした、ホントに)。

 

こういった過程を経て、子ども達はこの社会に適応していきます。そして、赤ん坊の時は矛盾無く合致していた「表層意識(まだ未熟ですが)」と「潜在意識」との間に乖離が生じ、両者を隔てる膜、つまり「無意識」が生じてきます。「本音」と「建前」を両方持つようになるわけです。

程度の差はあれ、これは子どもがこの社会に適応するためには避けることができません。しかし、「本音」と「建前」の間の距離があまりにも大きくなり過ぎて、「自分の本音」がさっぱりわからなくなってしまったら、様々な問題が発生してきます。

 

「表層意識」と「潜在意識」との間は、生まれたばかりの時はまだ離れていませんでした。それらはお互いにきちんと交流を持っていたのです。でも、社会に適応する過程で両者の距離が開いていくと、間にある「無意識」という膜が分厚くなっていきます。

「無意識」が分厚くなればなるほど、「表層意識」と「潜在意識」との交流は断たれ、「自分の本心」が自分自身にも全然わからなくなってしまう。「自分はいま本当は何を望んでいるのか」がわからず、何をしてみても、「本心から満たされる」ということがなくなってしまいます。

「潜在意識」は「生きている実感」の源ですから、大人や社会の都合に合わせて頭に詰め込んだ「表層意識」のあれやこれやをいくら試してみても、上っ面を滑るような感じしか残らない。たとえば、「他人から評価されたい」と思っていくら頑張ってみても、そして実際にその評価を勝ち得ることができたとしても、何となく心が虚しい感じがしてしまうのは、故なきことではないのです。

 

「生きている実感」を取り戻すためには、自分自身の「無意識」という膜について、詳しく知ることが必要になります。

そもそも、「無意識」という膜が決して無くならないのは、「潜在意識」に存在するものを私たちの「表層意識」が否定するからです。

たとえば、「本当は嫌い」なのに、口では「好きだ」と言うことで取繕っている人間関係があるとします。こういう時、その関係が壊れるのを強く怖れる人は、「潜在意識」に存在している「嫌い」という気持ちが自分自身からも見えなくなるほどに「無意識」を分厚くすることで、精神の平衡を保とうとするのです。

 

「表層意識」と「潜在意識」との交流を回復し、「他でもない、この自分自身が生きている実感」に根ざして生きるためには、「なぜ自分は『無意識』という膜を作ってしまったのか」ということについて詳しく知り、「いったい日常のどのような場面で自分はその膜を活用しているのか」といったことを一つずつ理解していくことが必要です。

そうやって自分の「無意識」を理解していくことで、「建前」が必要な場面ではそれを演じ、「本心」をぶつけたいときには全身全霊で気持ちを表現するというような、真の意味での「使い分け」ができるようになっていきます。

 

そして、これが武道においては、すっごく大事なのです(武道の話をしていたのです、実は)。

武道においては、「死ぬかもしれない状況」を仮想的に設定して稽古をします。競技スポーツでは、「負けるかもしれない状況」を想定しますが、武道は設定している条件がそもそも違います。

なので、武道で大事なのは「勝つこと」ではなく「生き残ること」です。そして、「生き残る」ためには、自分の持てる潜在能力をできるだけ引き出すことが求められる。

では、どうやったら潜在能力を最大限引き出すことができるかというと、これが気の抜けるぐらい当たり前の話で、「本気でやる」ということに尽きます。つまり、「表層意識」と「潜在意識」の間の矛盾をなくし、両者を合致させることで、「本心からの表現」を行うようにするのです。

 

普通は、「表層意識」と「潜在意識」の間にはズレがあります。

これがズレればズレるほど、自分の中で矛盾が生じ、「こうしたい」という「想いの力」が分割されます。

わかりやすいのが、「頭ではしなきゃいけないことが分ってるけど、できたらしたくない課題」をやってる時です。これは明らかに「表層意識」と「潜在意識」の足並みがズレてますから、いくら頑張ってやろうとしても、「本気」にはなれません。

 

でも、武道の稽古では、自分で「出そう」と思ったときに「本気」を出せるようになることが求められます。

そうして、「自分の本気」が身体運用や呼吸などの表現を通して、相手の「潜在意識」に伝達されることで、相手が動くのです(これで相手が崩れていくように動けば、傍目には「技」をかけたように見えることでしょう)。

 

すごくシンプルな話で、相手を動かそうと思ったら、自分も「本気」でやらないといけないのです。「表層意識」でいくら取繕ってみても、「潜在意識」で「やる気」になっていないと、相手のほうも「潜在意識」でその「中途半端な心」を見抜くから、どれだけ「動け!」と言って力んでも相手は動かない。

もちろん、力が強ければ物理的に相手を押しのけることはできるかもしれませんが、それだと相手の「潜在意識」に「無理やり動かされた」という不快感が残ります。

不快感はその人の心と身体を固くするので、これではますます相手は動きにくくなる。

武道の稽古でよくある悪循環です。

 

だから、武道の稽古においては、自分自身の「表層意識」と「潜在意識」とをいかに合致させて動くかということが、課題の一つとなります。

そこから先、氣の稽古に入ると、今度は「どうやって自分の潜在意識を相手の潜在意識にダイレクトに伝達するか」ということが課題になってきますが、これについてはまだ今の私のレベルでは具体的な稽古の仕方がよくわかりません。

 

ただ、自分の「表層意識」と「潜在意識」とを合致させる稽古についてならばわかります。

それは、「無意識」という膜が創り出す「自分の嘘」に対して、常に敏感であること。

このたった一つです。

 

なんだか道徳のお話みたいになっちゃいましたが、私は心からそう思っています(たぶん)。

 

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