「伝わる動き」について

合氣道でもダンスでもそうなんですが、ある一つの動きを本人がどういう意識で行っているかによって、その動きが持つ「影響力」は変わってくるのではないかと思います。

 

たとえば、バレエのレッスンなどでは、「まるで指先から出た糸が遠くまで伸びていっているかのように意識して腕を前に伸ばしなさい」といったようなアドバイスがなされたりしますが、そう言われた人が「糸」の存在感をありありと意識しながら手を伸ばしてみると、自分の力で腕を挙げるときよりも、腕の重さが軽く感じられたりします。実際にはどちらも自分の筋力で腕を挙げてるはずなんですが、「糸」のイメージが身体に馴染んでくると、まるで本当に誰かに遠くから指先を引っ張られているかのような感覚が起こってきます。

そして、「糸」の意識がさらに深まっていくと、まわりの人にもその「糸」が幻視されることがあります。物理的には同じ動きをしていても、当人に「糸」の意識が有るか無いかで、動きの印象がガラッと変わってしまうのです。

 

私が昔ダンスを習っていた学校の先生に、生徒達から「小さな巨人」と呼ばれている男性がいました。その人の身長は、たぶん150㎝代の半ばくらいだったと思うのですが、ひとたび動き出すとダンススタジオいっぱいに先生の身体が広がったように見えました。まるでその人の一挙手一投足に合わせて、周りの空気までが動いているかのようでした。

「身体の大きさと動きの大きさは必ずしも比例しない」ということを、私はその先生から学びました。

 

合氣道の稽古では、「氣」が出ているかどうかをすごく大事にします。「氣」が出ていない状態で、いくら身体だけたくさん動かしても、相手はついてきません。

そういった動きはどことなく「独りよがり」な印象を、技の受け手や周りで見ている人たちに与えます。やっている本人は必死になって身体を動かしているのですが、それが他人にはうまく伝わらない。結果、力で無理やり相手を引っ張るようなことになりがちです。

 

「氣」というと曖昧ですが、たとえば、スピーチをしているときに、身を縮めながら自分の足元を見て話している人を想像してみてください。その人は何かを言っているのだけれど、聴衆はよく聞き取れません。声がこちらまで飛んでこない。こういった状態の人は、たとえマイクとスピーカーを使って話してもらっても、物理的な音が大きくなるだけで、やっぱり「何を伝えたいのか」はよくわからなかったりします。これは、その人が「氣」を引っ込めた状態で話しているからです。

 

じゃあ、「氣」を出すには具体的にどうしたらよいかというと、何でもいいので、何かをするときに「真剣」に行うということが大事だと私は思っています。

人は誰しも「心底のめりこんで行えるモノ」を一つは持っていると思います。たとえ大人になって忘れてしまっても、きっと子どもの時には「夢中になってしていたこと」の一つや二つは誰でもあるはずです。

「それ」をしていると、時間が経つのを忘れてしまう。そして、いくらやっても疲れない。そんな「何か」です。人間というものは、夢中になっているときには「氣」がその行為にしっかりと向かっていますから、心の力が存分に引き出されます。だから身体も疲れないし、集中力も長続きするのです。

 

ただし、テレビゲームやドラッグなど中毒性の高いものは、もたらされる快楽に対してどんどん「受身」になっていってしまうので、「真剣に取り組む」という方向からは逸れてしまい、当人の心身の力を逆に弱らせることになりがちです。

同じ「夢中になる」のであっても、「自分の力をありったけ傾けて取り組んでいるかどうか」ということは、忘れてはならない大事な点だと思います。

 

「真剣」に取り組むというのは、人によっては難しいかもしれません。「一生懸命になるのはダサくてカッコ悪い」という価値観が、特に若い人の中には広く浸透しているとも感じます。

私たちはたとえ「一生懸命に取り組もう」と思っても、どこかでブレーキをかけてしまいます。気持ちが一歩引いてしまう。

それは、「一生懸命に取り組むと派手に転ぶ」ということを私たちが心のどこかで知っているからです。

 

このことは、自転車に乗れるようになることと、どこか似ています。

最初はまるでバランスの取り方がわからず、何度も転びそうになります。でも、転ぶのが怖いからと言って、いつまでも補助輪をつけたままでは、乗れるようになる日は決してやってきません。どこかで、思い切って転ぶことを覚悟してこぎださねばならない。

よっぽどの天才を除いて、私たちは転ぶことを繰り返しながらバランスの取り方を学ぶしかありません。それは逆から言うと、「転ぶリスク」を引き受けない限り、乗れる日はいつまでもやってこないということです。

 

「真剣」に何かに取り組むと、私たちは色んなものにぶつかります。周りの価値観と衝突することもあるし、場合によっては「今までの自分の価値観」とも摩擦を起こします。他人から何を言われるかわからないし、自分がどんな風に変わってしまうかも予測できない。

それが怖いから、私たちは心のどこかで「補助輪」にしがみついてしまうのです。

 

問題は「恐怖心」ではありません。本当の問題は、「自分の中に恐怖がある」という事実を当人が拒むことによって発生します。

恐怖は、否定することによってむしろ強まります。恐怖とうまく付き合うためには、「それ」が自分の中に在るという事実を認めることが第一歩になります。

恐怖もまた、その人の心の力の現れですから、もし生きる力が完全に枯渇したら、そもそも恐怖を感じないはずです。生命力がなくなってしまえば、怖れる力もなくなる。

「怖い」のは、私たちがまだちゃんと「生きている」からなのです。

 

「真剣」になる際には、多くの場合、「恐怖」が伴います。

それは、「真剣」になって取り組むがゆえに、これから何が起こるか予測がつかなくなるからです。

でも、予測がつかないからこそ、私たちはまたワクワクもするはずです。だから、「真剣」に何かをすることができなくなった人は、怖れることがなくなると同時に、ワクワクすることもなくなってしまいます。

 

自分の中の怖れを呑み込んで、ワクワクしながら一歩を踏み出すとき、その人の一挙手一投足は周りの人を動かします。

たとえば、ワクワクしている子どもを止めることは、大人の力をもってしてもできはしません。身体の小さな子どもといえど、「氣」が向いている方へと真っ直ぐ動いているならば、その力は私たちが思っているよりもずっと大きいものです。

 

このように、「氣の方向」と「身体の運動」が合致しているとき、私たちは大きな力を発揮します。その力は、直接触れている相手には当然伝わるし、周りで見ている人にも「活力に満ちた印象」を与えます。

逆に、技術的に身体の使い方がどれほど上手くても、「氣」がそこに伴っていないと、どことなく「冷たい印象」になります。たとえば、訓練されたピアニストによる完璧な超絶技巧の演奏が、なぜか心に深く響かないのは、身体だけが巧みに動いていて、「氣」が伴っていないからです。他人から言われた通りにすることはできても、自分の行為に「魂」を乗せる仕方がわからないわけです。

 

身体能力に優れる人ほど、この状態に陥りやすいです。

様々な訓練によって当人はいろんなスキルをマスターしたつもりになっていても、実は「根本的な部分」が欠けたままになっています。

あれもできる、これもできる、でも何をしても「大事なモノ」が欠けているような欠落感。

技術が完成されればされるほど、「本質」からはむしろ遠のいていくような焦燥感。

傍で見ている人には、目の前で披露される華麗な身体技術よりも、そういった当人の焦りや無力感のほうが深い部分では伝わりますから、身体技術だけでは、見る者を心から「感動」させることは難しいものです。

 

単なる「身体操作」という枠を超えて、本当に他人に響く動きはどうしたら可能なのか?

ダンスでも合氣道でも、行き着くところは同じだと思っています。

 

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