静かにただ在る

「何もしない」ということは、私たちにとってすごく難しいことです。私たちは「何かをする」のには慣れていますが、「何もしないでいいよ、もっとリラックスしてごらん」と言われると途方に暮れてしまいます。暇なときに「時間をつぶすこと」はできても、「そのまま暇でいること」は難しい。

1分やそこらであれば、「何もしないでいる」のは可能であっても、5分も10分もそのままでいるのは困難です。すぐに私たちはソワソワし出し、落ち着かなくなります。そうして、ポケットからスマホを出して操作し始めるか、手帳を開いて今後の予定を確認するか、かねてからの課題を頭の中で考え始めるか、読みかけの文庫本や教科書を読み始めるかします。

 

合氣道の稽古では、「相手を投げようとしないで、もっと力を抜いてごらんなさい」というようなアドバイスがなされる場合がありますが、これは言われた当人にとってはたいへんな「不条理」です。

というのも、「投げようとするのを止める」のも、「力を抜く」のも、本人にとっては「努力して行うこと」に感じられるからです。ここで言われているのは、まさにその「努力するマインドを緩めてごらん」ということなのですが、そう言われれば言われるほど、「努力を止めるための努力」が新たな緊張を作り出してしまいます。

 

リラックスというものは、「していること」を止めることによって「結果として起こる」のであって、「努力して起こす」ということができません。それは「ただ在るもの」なのであって、「為すこと」によってむしろ遠ざかります。

しかし、私たちは「為すこと」には慣れていますが、「ただ在ること」には慣れていません。だから、「そんなに緊張しないで、もう少しリラックスしてごらん」と言われると困ってしまうのです。

 

自分の中の緊張が、相対する他人の中にも緊張を作り出します。そうして彼らは固まっていく。動けなくなっていってしまう。

合氣道の稽古では、この「固まり合いの状況」を解きほぐしていくことが必要になります。というのも、心身が固まれば固まるほど、お互いの間にバリアが生まれ、深い部分で繋がることができなくなるからです。

繋がりがなければ、伝えたエネルギーはお互いの間で通い合うことなく、空中に霧散してしまいます。こちらの投げかけた言葉は相手に届かず、言葉が相手に届かなければ返答もまたありえません。

「話」はそこでおしまいです。

 

だから、合氣道の稽古では「受けの役割」はとても重要です。受けの人は「ただの投げられるだけの人形」でいてはいけないのです。「血の通った人間」として、大いなる関心をもって耳を澄ませ続けていないといけません。

自分の中で相手の動きを解釈をし、「次はこう来るだろう」と予測すると、予測していなかった筋で来た動きに対応できません。かといって、受けが相手の動きを感じずにただ立っていても技は成立しません。

これらはどっちも危険です。前者は頭でシミュレーションをし過ぎて身体の対応力が落ちており、後者はそもそも「今何が起こっているか」に気づくことができません。

 

大事なのは、ただただ熱心に耳を傾けることです。

しかし、「傾聴する」というのは難しいものです。それはちょうど「何もしないで、ただ在る」のが難しいのとよく似ています。

私たちはどうしても相手の話を解釈してしまいます。そして、聞いた内容を自分の中の価値観と照らし合わせて、「これは良い」「これは悪い」と判断を下し、相手を心の中で軽蔑したり賞賛したりします。

しかし、そういった解釈や判断や価値評価によって、相手の話はストレートにこちらには入ってこなくなります。自分が作ったフィルターを通して話を聞くことで、ある部分は聞き落とされ、別のある部分は誇張されます。

 

解釈せず、判断せず、評価せず、ただ聴く。

そのためには、軽蔑はもちろん、賞賛さえも邪魔になります。必要なのは相手に対する敬意と関心であって、盲目的な賞賛は意識を曇らせる元になります。というのも、相手を賞賛している間は、聞いた内容を十分に理解しないままで「なるほど!わかりました!」と返答することが、より容易になるからです。

軽蔑すれば相手への敬意と関心を失い、賞賛しても相手の話は聞こえなくなります。そのどちらからも距離を取って、ただ耳を傾けるためには、私たちが無意識にしている判断や評価をいったん止めないといけません。しかし、そうかといってただボーッと立っているだけでは受けにならない。

 

ここにジレンマがあります。

もし何かをしようとすれば、心身には緊張が生まれ、頭の中で解釈が作り出されます。そして、その緊張と解釈が自分の動きを制限し、取れる選択肢を狭めます。

かといって何もしないでいたら、人はすぐに「何かしなければ」という想いに駆られて焦り出すか、あるいは物事に対して無関心になり意識が眠り始めてしまいます。焦っていては物事は見えず、眠っていては何も感じられません。

 

では、このジレンマを解消するために、私たちはいったいどこから始めたら良いのでしょうか?

いろんな方法がありますが、一つは、「徹底的に何かをする」ということです。

たとえば、力が入って抜けないのであれば、思い切り力を入れてみる。力を入れることならば、いくらでも努力して取り組むことができますから、いっそ何もかも忘れて頭が空っぽになってしまうくらい力を入れてみる。そういう状態は決していつまでもは続けていられませんから、どこかで「努力の限界」が来ます。すると、「もうダメだ!」と思った瞬間に、その努力をパッと手放すことができます。そうして、結果的に自然と力が抜けてくる。

 

こういった仕方で訪れる脱力は、「自分に強いて作り出した脱力」とは質が違っています。それは自然とそこに在るものです。その違いをよくよく感じてみる。身体と心全体で、自分の中の静寂が深まっていくのを感じてみます。

そうすると、次第に「本物の静寂」と「偽物の静寂」の区別が付くようになっていきます。本当に落ち着いているのか、表面だけ落ち着いたように見せかけているのかが、自分でわかるようになる。

 

「本物の静寂」の味わいを知れば、次第にその中に留まることができるようになっていきます。というのも、そこに留まることが心地良く感じられるからです。そうして、しばらくの間、静かに何もしないでいることで、張り詰めていたものは緩んでいき、新しく何をするための活力が取り戻されます。

また、「静寂」の中に留まる体験が深まれば、たとえ身体を動かしながらでも、内側では静かなままでいることができるようになっていきます。合氣道が「動く禅」と言われるのは、このような「内側の静寂」を保ったままで技を行うからです。

 

しかし、私たちはこの「静寂」を心のどこかで怖れています。

というのも、内側が静かになればなるほど、自分自身の「見たくない部分」が明確になるからです。まるで暗い部屋に明かりを持ち込んだ時のように、自分の部屋がいかに散らかっていたかが明らかになります。そうして明るみに出た「真実」は、それまで自分がずっと否定していたものだったりします。

自分にとっての悪、自分にとっての不道徳、怒り、怖れ、憎しみ、そういった一切合切が、「部屋が暗くて見えなかっただけで、実際にはずっと前から自室にあった」という事実に、私たちは気づかざるを得なくなります。

 

私たちが「何もしないでいること」ができないのは、主としてこのためです。

何もしないでいると、私たちは自分自身から目を背けていることができなくなります。そこに在るものを見ざるを得なくなる。しかし、それを直視してしまうと、これまで持ちこたえてきた自我がバラバラになってしまうように思えて恐ろしいのです。

だから、私たちは「ありのままの自分自身」と直面しないで済むように、空き時間ができる度に「何かすること」を必死で見つけようとします。

もし「何もしない」でいたら、もう逃げ場はありません。「真実」は覆い隠すことができず、それはどんどんこちらに迫ってきます。

 

でも、実際には何をしようと逃げ場は無いのです。

いつかは自分自身と直面しなければならないときが来ます。自分自身から逃げおおせた人は一人もいません。

というのも、この世の誰も他人に代わりに生きてもらったり、代わりに死んでもらったりすることはできないからです。

 

次の記事へ

前の記事へ