正しく知ること

私が昔読んだある哲学の本の中に、「『悩むこと』と『考えること』とは違う」と書かれていました。いわく、哲学とは本来、「悩むこと」ではなく「考えること」なのだと。

 

生きていると、私たちは実に色んな事で悩みます。

明日の仕事のこと、来週のテストのこと、昨日のいさかいのこと、先週の失敗のこと等々、まだ来ていないものに不安を抱き、もう過ぎてしまったものに心を引っ張られます。「こうなったらどうしよう、ああなったらどうしよう」と悩み、「なんであんなことをしたんだろう、なんと自分は愚かなのだろう」と悩みます。

対人関係でも悩みは尽きません。「こんなことを言ったら相手からどう思われるだろう」と気になって、思ったことが言えず、「こんな風に振る舞ったら嫌われてしまうのではないか」と怖れ、したいことができない。自分のしたミスが他人に発覚したり、人から何らかの理由で笑われたりすると、「自分の言動は他者からどう解釈されているのだろうか」ということがあまりにも気になりすぎて、部屋に一人きりでいると気が狂いそうになることもあります。

 

そういうときに私たちは、ひとまず部屋にあるテレビをつけてみたり、外に出て映画を見に行ったり、必要以上に大きな音で音楽をかけてみたり、誰でもいいので友人に会いに行って話をしたりすることで、自分の悩みから気を逸らそうとします。

悩んでいるのは苦しいので、気晴らしをするわけです。

そして、この気晴らしは、たいてい成功します。というのも、私たちの時代はこの「気晴らし」のために、非常に多くの発明をしてきたからです。

とりあえずテレビをつけておけば、真夜中でもない限り何かの番組がやっています。インターネットに繋げば、多種多様な動画を見ることもできるし、たくさんの他人が考えを書き込んでいる掲示板に自分も参加することができます。知人といつでも連絡が取れるよう携帯電話を持ち歩いているし、本当にどうしようもなくなったら心療内科の先生やトランキライザーが力を貸してくれます。

 

「悩み」というものは、人の心を引っ張り込む強い磁力を持っています。その磁力によって、私たちの心はあっちに引っ張られ、こっちに引きずられ、一時も同じ所に留まることができません。そういうとき、「悩み」こそが私たちの主人であり、私たちの心はまるで奴隷のようになっています。

そこでもし他人から何か否定的なことを言われたりすると、さらに揺さ振られます。まるで根の脆くなった木が風に吹かれて倒れそうになるように。

心が奴隷のようになっていると、ほんのわずかな風が吹くだけでも、私たちは地に伏して許しを請うようになるものです。風には風の都合があるので、風はただ自分の吹きたいように流れるだけです。でも、悩んでいる人は内側が恐れと疑いでいっぱいになっているので、たまたま吹いてきたそよ風を、想像力によって「化け物」に変えてしまいます。「なんという強風がよりにもよって自分に吹いているのだ」と。

 

他人への恐れと不信感が、目に映るもの全てを「恐ろしい化け物」へと変えます。まるで日が落ちてきて影が昼間より長くなるように、こちらの心の闇が深くなると、他人の言動もその影が大きくなって見えます。他人の言動を、そのままの大きさで見ることができず、私たちは色んなものをそこにくっつけて見ずにいられなくなる。

だから、普段であれば「そよ風」に過ぎないものであっても、「台風

」みたいに感じてしまうのです。しかし、「本物の台風」というのは、よくよく観察してみると、そんなにたくさんはありません。そして、そういうときにこそ、その人の「根の強さ」は真に試されることになる。

 

心を落ち着けて、冷静になって考えてみれば、多くの問題は「実は問題ではない」ということがわかります。「問題ではないもの」を問題に変えるのは、私たちの想像力です。

かつて親から言われたこと、教師から言われたこと、有名な本で読んだこと、そういった「他者の思考の木霊」が私たちの頭の中には渦巻いていて、私たちのことを一時も休ませてくれません。

自分の中にいるある教師は「これをしろ」と言い、別な教師は「それをするな」と言います。ある本は「これをするとあなたは不幸になる」と言い、別の本は「これされすれば苦しみを免れる」と言います。そういったありとあらゆる矛盾した思考を私たちは自分の内側に住まわせており、大人になる頃には、まるで召使いのようにこれら全ての客人の意見に耳を傾けるようになっています。本当は自分が主人であったはずなのに、今では招いた客のほうが主人のような顔をしている。

 

教師はかつてこう言った、親はかつてこう言った、有名な本にはこう書いてあった。それら全てがまさかまったくの嘘偽りということはあるまい、と私たちは思う。

そこで、私たちは自分自身で考えたことや自分自身で感じていることを、低く評価します。「権威」は自分の外側にあり、そっちのほうが正しいと思ってしまう。

でも、どっちが正しいかなんて誰にもわかりはしません。何百万の人が正しいと信じても、それでそのことが正しくなるわけではないです。

このことは、考えれば当たり前のことなんですが、多くの人が自分とは別のことを正しいと信じていると、私たちはなんだか自分の考えや感覚のほうが間違っているように感じるものです。

 

問題は、「いったい何が正しいのかわからない」という状態に私たちが長く耐えられないことによって発生します。なぜ長く耐えられないかというと、何が正しいかわからないままでは、判断も行動もできなくなってしまうからです。

私たちが無判断、無行動に留まっていることを、慌ただしい現代社会は許してくれません。だから、私たちはいつも何かにせっつかれるように判断し、行動します。でも、内側の深いところでは誰もが知っています。自分は自分の判断や行動が正しいのかどうかを本当のところは知らない、と。

 

「自分は無知である」ということに対して、どうしてこれほどまでに恥と罪悪感がつきまとうのか、なぜ私たちはこんなにも「知者である振り」をすることに駆り立てられるのか、その源を考えることがよくあります。

私が思うに、おそらく一番の問題は学校教育です。一般的な学校教育では、「何を知っているか」をテストします。知っていれば評価されるし、知らなければ低い評価しかもらえません。

だから、教育という名の下に競争を強いられ続けると、子ども達は「既に知っている」という在り方を、価値あるものとして捉え始めます。「知らない」のは悪いことであり、「無知」は怠惰の証なのだと思うようになる。こうして、「私は知らない」と正直に言うことが段々難しくなっていきます。

 

今の普通の学校教育では、教師の側が「子ども達は何をどれだけ知っているか」を確認するためにテストを行います。それは子ども達の自発的な学習意欲を高めるためのものというよりは、大人の側が子ども達を管理するために行われています。テストを目の前にぶら下げて、「『無知』な者には評価を与えない」と脅している。

というのも、そうやって脅さないと、大人達は子ども達を勉強に向かわせることができないからです。それほどまでに、私たち大人は無力です。

 

テストは、「何を知っているか」を教師が確認するためのものから、「自分が何を知らないか」を子ども達自身が気づくための機会へと変えていく必要があるでしょう。

たくさん間違った答案は今は誰からも評価されませんが、そこには「自分の分っていないこと」が詰まっているはずです。それがあまりにも評価されないので、低い点をとった当人は、そんなものはすぐに捨てて忘れてしまうように努めますが、本当は忘れるように努力するより、むしろ思い出すように努めるべきです。

というのも、自分は何を知らないのか、自分はどんな誤りをおかす可能性があるのか、そういった「無知に対する知」こそ、自分自身が生きる上では大いに役立つものだからです。

自分が低い点を取ったことを、恥や罪悪感を抱くことなく、ただありのままに認めることができれば、その「無知」は「知」が育つ土壌に成り得ます。

 

外側からいくら知識くっつけても、それで賢者になれるわけではありません。外からくっつけた知識は、己の「無知」を自他に隠すための飾り付けに使われることが多いため、知識をつければつけるほど、「無知」に対して鈍感になる例がよく見られます。

逆に、「無知」に対して敏感になればなるほど、知性というものは磨かれていきます。知識はさして増えないかもしれませんが、彼は「考える術」を知っている。

たとえば、泳ぎ方をいくら本で読んで学んでも、それで泳げるようにはなりません。実際に自分で泳がないと、泳ぎ方は体得できない。

同じように、知識をいくら詰め込んでも、自分で考えるということをしなければ、知性は鈍くなってうまく働かなくなります。でも、考える術を知っていたら、たとえ自分の知らないことに対してさえも、考えることができるようになります。

 

私たちは「自分で考える力」を与えられている希有な生き物です。

その力は、本人がちきんと水をあげて育てるならば、地中深くに根を張り、空高くまで伸びていきますが、他人が焦って外から無理やり伸ばそうとすると、根っこごと引き抜かれてダメになってしまいます。

しかし、実際のところ私たちの頭の中は「他人の意見」でごった返しており、それらの声は日に日に大きくなっています。それらの声に向かって、「自分で一度考えてみたいから、あなたたちはもう帰ってください」と言う勇気が、私たちにはなかなか持てません。

というのも、他人に代わりに「正しさ」を決めてもらっていると、受身でいることができて楽だからです。

他人が口にした「正しさ」がたとえ間違っていても、自分の責任にはならない。いつでも他人のせいにできます。

だから、自分の言動に責任を持ちたくない人は、自分で考えることが段々できなくなっていってしまうのです。

 

私たちの頭の中の「騒音」がなくならないのは、私たちがそれの存続を心のどこかで望んでいるからです。

そして、内側の「騒音」だけでは足りずに、私たちは気晴らしのためのありとあらゆる「騒音」を、外側にも作り出しています。娯楽や闘争、時には修行や勉強という名の下に、自分の周りに余分な「騒がしさ」を生み出している。

 

私たちは「静かになること」を怖れます。

というのも、「騒がしさ」が無くなってしまうと、私たちはもう自分の苦しみを他人のせいにできなくなるからです。

たとえば、音がうるさくて眠れないうちは、音を出している他人を責めることができます。でも、何かの音をうるさいと感じずにいられない理由が自分の内側にあるなら、たとえ音がなくなっても、やっぱり眠ることはできないでしょう。耳に入る音に対して反応せずにはいられない自分の内側の何かが、音がなくなった後になっても、きっと眠らせてくれないでしょう。

場合によっては、音を返して欲しいとさえ願うかもしれません。というのも、音が鳴っているうちは、「私が眠れないのはあの音のせいなのだ」と自分を納得させることができるからです。

 

見つめるべきは、周りで鳴っている音ではなくて、むしろ「音の不在」によって浮き上がってくるもののほうです。それこそが、自分の悩みを生み出している真の原因です。

その真の原因を自分で知れば、悩みは自然と消えていきます。他人にどれだけ慰めてもらっても癒えなかった「傷」が、自分でどれだけ消そうと努力しても消えなかった「病」が、自ずから溶けてなくなっていきます。

「知」というものは力であり、人は信じることによってではなく、ただ知ることによって開放されます。

 

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