踊るということ

「どんなダンスをされるのですか?」と聞かれることがしばしばあるのですが、それを説明するのがいつも難しいです。

今までに学んできたテクニックの名前を列挙することはできます(高校時代にブレイクダンスをやって、そのあと音楽系の専門学校でクラシックバレエやモダンダンスをやりました…とか)。でも、私自身は「自分はこのテクニックを使って踊っている」といった意識がないので、ジャンルの名前を答えても、実態をまるで説明できていないように感じます。それで私のほうが答えに窮してしまうので、聞き手の人に「じゃあ、コンテンポラリーダンスですね」という風にまとめていただくことも多いのですが、それもやっぱりなんだか違う気がするんです。

コンテンポラリーダンスは、「これと言ってはっきり定義できない前衛的な身体表現全般」について使われる呼び名ですが、私自身は「よし、オレはこれからコンテンポラリーダンスをやっていくぞ」と決意したこともないし、踊っている最中に「今自分はコンテンポラリーダンスをしている」と思ったこともないです。

 

踊りって、習わないとできないものだったり、ダンススタジオや舞台の上でしか成立しないものだったりするわけではないと、私は思っています。「美」というものは日常の中にもいっぱい存在していると感じていて、たとえば、お母さんが子どものために心を込めて料理を作るときの包丁を扱う手捌きの中だったり、風が木々を揺らして穏やかに吹き抜けていく様子をボーッと見ていてホッと緩む肩や胸の中であったり、そういった何でもないところにこそ「美しさ」が宿っているように思うのです。

真剣に何かに打ち込んでいる姿は美しいものだし、深く何かに感動している姿もまた美しいものです。

踊りは、本来そういった「真摯に何かと向き合う姿勢」や、「言葉では表せないような自分の内側のバイブレーション」から生まれたのではないかと思っています。

 

ただ、現代の私たちは、心を一つにして物事に向かったり、心身の最も深い部分から涙が溢れ出したりするようなことがほとんどないので、ダンスという営みもだんだんと「何か特別なもの」になっていっているのだと思います。

私たちの心はいつも分割されていて、「これをしなきゃ、あれをしなきゃ」と忙しく動き続けています。テレビやスマホを見ながらご飯を食べたり、人と話しながら次の予定を考えたり、とにかく一つ所に留まっていられません。心はバラバラに散らばっていて、一つのことに集中できない。

ご飯を食べるとき、それをただ食物を胃に送り込む機械的な作業だと思うと、味はちゃんと感じられないです。「ゆっくり味わってる時間なんて無いよ」という人は多いと思いますけれど、そうやって急いで作った時間を本当に有効活用できている人は意外なほど少ないものです。

 

食べているとき、その味の中に留まる。

話しているとき、その話の中に留まる。

考えるなら、ただ考える。

過去を思い返さず、未来を思い描かず、今ここに留まる。

 

それが私たちには難しい。というのも、私たちは幼少期からずっと、「変わること」を強いられてきたからです。

私たちが何もしないでボーッとしていると、誰かが言います。「そんなところでボーッとしてないで、勉強でもしなさい」と。

子ども達が生まれてきて現に生きているということだけでは満足できない大人達は、彼らを何者かに仕立て上げようとします。わかりやすく学歴を余分に付け加えたがる大人もいれば、過去の偉人の話を聞かせて「こういう人間を目指しなさい」と言って理想を押しつける場合もあります。

「生きている」ということの上に色んなものを付け加えないと、その人には価値がないように思うからです。

 

でも、そういう人は「命の価値」をじっくり考えたことのない人だと私は思います。「生きている価値」は、「現にいま生きている」という事実そのものの中にあります。

心臓が一時も休まず動いている、私たちが寝ている間も呼吸がずっと続いている、消化管が食物を消化吸収してくれている、そうして吸収した栄養素からこの五体と五臓六腑を作ってくれている。

そういったことの全ては、私たちが行っていることじゃありません。こういった命の働きというものは、とてもすごいものだと私は思うんですが、「生きているのは当たり前だ」と思うと、それはまるで「無いもの」のように感じられてしまいます。

 

もっと地位を、もっと知識を、もっと技術を、もっともっとたくさん付け加えないと、自分には生きている価値がないんじゃないかと思ってしまうと、生きていること自体が一つの苦役になります。でも、そうなるように私たち大人は子どもに強いている。

「これができたら愛してあげる、こういう子になったらそのとき初めて評価してあげる」と、私たちはしばしば子ども達に「取引」をもちかけます。大人による保護なしでは生きることのできない子ども達は、この「取引」に応じざるを得ません。

 

「あなたのためを思って言っているのだ」と子どもへ告げるときに、自分の内側を冷静に観察できる大人は極めて稀です。

たとえば子どもに「静かにしていなさい」と告げるとき、「今うるさくされるとこちらにとって都合が悪いから黙りなさい」と言っているのか、「今はあんまり騒ぎ立てないほうがあなたの命の自然に適うだろう」と言っているのか、どちらであるかを自覚して教育をする大人はほとんどいません。

自分の内側にどんな欲望が潜んでいるか、子ども自身のことよりも見栄や体面を自分がどれだけ気にしているか、それらをきちんと観察する勇気を持っている大人は、とても少ないです。

 

こうして育てられた私たちの中には、ある種の「性急さ」が根付くことになります。「今自分がいるところに満足してはならず、常に何かしらの理想に向かって進み続けなければならない、そうでなければ自分は無価値である」という信念が、心の深いところに形作られる。

私たちは「今ここ」を取り逃し続けます。そこに留まることを、私たちの社会が子ども達に禁じてきたからです。

 

でも、私は別に「子どもは成長や成熟をしなくていい」と言っているわけではありません。成長も成熟も、その子の自発的な力が開花することで自然と起こる現象だから、外から強いる必要は無いと思っているのです。

たとえば、赤ん坊を立って歩かせるのにもし教師が必要だったとしたら、母国語を覚えさせるのにもし教師が必要だったとしたら、私たちはとても困ったことになってしまうでしょう。

彼らはみんな自分の命の力を使って、外界のあらゆることを吸収し、大いに学んだはずなのです。

 

私たちは「今ここにある自分の命」を取り逃し続けます。

「それ」は生まれてから一度も無くなったことがないので、背景と同化して見えなくなっています。

たとえば、生まれてからずっと一つの部屋の中で育ち、寝ても覚めてもその部屋の中にある時計の音を聞き続けていたとしましょう。すると、その音は自分の主観の背景に溶け込んでしまい、聞こえているのだけれど聞こえなくなります。時計の音は、その人の主観の中では「常に在るもの」だから、他の何かと区別する必要が生じないためです。

でも、その部屋の外にいる人は、時計の音が在る場合もあり、無い場合もあるということを知っています。「それは無くなることがあり得る」ということを知っている。

 

私たちは「自分の命が在ること」しか知りません。その事実は、私たちの主観の背景と完全に同化しており、まるで永続するものであるかのように見えます。

でも、同時に誰もが知っています。人は必ずいつか死ぬ、と。

多くの人がなぜこれほどまでに命がけの登山や、カーレース、異国の地への冒険を求めるのか、私にはわるような気がします。それは「永続する」と私たちが無根拠に信じている「生の構造」を揺さ振るためです。

時計の音が消えて初めて、鳴り続けていた時計の音に気づけるように、死の切迫を感じて初めて、生がまだ在るということに気づけます。

 

現代日本の私たちが生をうまく見つめることができなくなったのは、それだけ平和だったからです。それは幸運なことであり、奇跡的なことです。でも、同時に私たちは「生きている実感」を失いつつあります。

あれもある、これも持ってる、でも、「生きている甲斐」が感じられない。生は空虚であり、そこには生きる価値がないと感じる人もいます。

 

でも、その感受性は変えられます。

自分の心を分割することなく、ご飯を味わい、呼吸を味わい、空を見上げてはそこに自分の心の広がりを見る。

その瞬間に、もう「達成すべきもの」は全て達成されているということに気づきます。

瞬間瞬間に表現される命が、どれだけ豊かな表情をしていることか、私には到底感じ尽くすことができません。感じようとすればするほど、それは深まっていきます。そこには限界というものがないのです。

 

踊りというのは、湧き出るものです。

「自己表現」なんて言うけれど、その「自己」は私たちが頭で決めてる自分なんかよりずっと大きくて深いものです。

その大きな「自己」の必然性に当人が背いていないかどうか、それだけが私にとって「踊り」と「踊りでないもの」とを分ける基準です。

川も踊っているし、風も歌っています。

人間だけが不具なのは、「自己の自然」を忘れたからです。

 

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