わかるということ

或ることが「わかる」というのは、とても不思議なことのように感じます。「あ、そうか」という、あの感じはいったいどこから来るのでしょう。

 

誰かが教えてくれるから「わかる」のでしょうか。でも、どれだけ丁寧に教えてもらってもわからない場合はよくあるし、誰かから教わらなくても自分自身で「そうか」と気づく場合もあります。

たとえ何がなんだかわからない場合であっても、「自分はいまわかっていない」ということだけは自分自身で「わかる」わけで、この「わかる」という感覚は外から取ったり付けたりできるものではなく、その人の内側に根を持っているように思います。それはつまり、「わかる」のはどこまでも自分自身であって、他人ではないという、至極当たり前のことです。

 

でも、私たちは時々「他人がわかったこと」の上に自分の軸足を置いてしまうことがあります。たとえば、「ある人がこれこれこういう体験をして、こういうことがわかった」ということを本で読んだり他人から聞いたりして、それを「自分の知識」であるかのよう思い込んでしまう場合などです。

これはいわば、他人がその人の目を使って見た事実を、自分の目は使わずに「私は見た」と思い込むようなものです。そういうとき、自分の目では見ていないので、他人に対していったい何を見たのか詳しく説明することはできません。読んだ通り、聞いた通りに反復することしかできず、誰かに説明しようとすればするほど、自分の中で「根拠の薄弱さ」が強く自覚されます。

多くの人は、この「自分の内側には自分の発言の根拠がない」という事実を、見なかったことにしたがるので、たいてい説明は早口になり、聞き手に質問や反論の時間を与えないように場を作る傾向があります。まるで何かから必死に逃げ出そうとしている人のように。

 

たとえ誰かから聞いたことであっても、「わかる」のは自分であって他人ではないということがわかっていれば、自分の内側に無用な混乱や分裂を作り出さずにいることができます。「他人がわかったこと」が自分ではわかっていないなら、それはまだ自分にとっては一個の「仮説」であり、いまだ「真実」ではありません。「仮説」については、「間違っている」とはまだ言えないし、「これは正しい」と信じることもできません。

私たちは「これは間違っている」と断定するか、「これこそ真理だ」と信じ込むか、どちらかの極に一瞬で飛び移ってしまいがちですけれど、そういうことを繰り返しても「自分がわかる」には到達できません。

否定からも信仰からも距離を置いて立ち、自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の体を使って知ったことだけが、本当の意味で「自分の知」になります。そこまで到達すれば、たとえ世界中の人が自分と反対のことを正しいと信じていても、「少なくとも私にとってはこれが事実だ」と知っていることができます。

 

「自分にとっての事実」を主張して、他人がそれを理解するかどうかは、「自分がわかる」ということと関係がありません。

たとえ、「わかる」きっかけは他人の言動だったとしても、わかったのは他でもない自分自身なのだから、その「知」は他人に依存したものにはなりません。

だからこそ、その表現は自由自在であり、かつ不動のものともなりうるのです。

 

それと同じ事を逆から言えば、この世の誰にも「わかる気のない他人」にわからせることはできません。

ブッダにもできなかったし、イエスにもソクラテスにもそれはできなかった。

「わかるのは当人自身であって他の誰かではない」ということがわからない人は、誰によっても悟らされることがありません。

 

そして、「わかる気のない人」にわからせることが不可能であるからこそ、「自分でわかっている人」を動かすことも、この世の誰にもできないのです。もちろん、「まだまだわかってなかったな」と思うこともあるでしょうけれど、「わかっていなかった」ということが「わかる」のは自分ですし、そこからさらなる「わかる」に向かって進んでいくのも、その人自身の歩み以外ではありえません。

これは、ものすごいことだと私は思うのです。

 

「わかる力」は全ての人に等しく与えられた天与のものであって、自分以外の誰もこれを奪うことはできないという事実を自覚して生きる人は、自分のありとあらゆる言動に責任を感じます。なぜなら、自分以外の誰も「わかる力」を代わりに守ってはくれないということを、その人は知っているからです。「わかる力」は、他人に無理やり奪われることはないけれど、気づかずに自分で捨ててしまう場合がとても多いため、己の不断の意志によって守り育てる以外に保つことのできないものなのです。

それはつまり、他人の言ったことを繰り返すだけのテープレコーダーになるのも、「自分の知」を最後の拠り所として誠実に生きるのも、どちらも「自分自身の選択」であるということです。

 

この世の誰も自分の代わりに他人にわかってもらうことはできないし、自分のわかったことを他人に無理やりわからせることもできません。

だからこそ、私たち一人一人が「尊い存在」となりうるのです。

たくさんのことを知っているから尊いのではないし、何か特別なことができるから尊いのでもありません。

誰もその人の代わりに生きることができず、誰もその人の代わりにわかることができないからこそ、その人の存在は唯一無二であり、尊いものと言えるのです。

 

それが「私のわかったこと」です。

 

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