眠りについて

私たちは、自分のしていることをどれくらい意識しているでしょうか。

何も感じたり考えたりせずに機械的にしてしまっていることって、日常の中にけっこうあるように思います。

たとえば、相手の話をたしかに聞いていたはずなのに、あとでそれについて質問されると話の内容をほとんど思い出せなかったり、歩いているとき考え事に夢中になっていて、気づいたらもう目的地まで着いてしまっていたり…。そんな風に、聞いている間、歩いている間に起こっていることについて、私たちの意識が「今ここ」とは違うどこか別なところをさまよっていることは多々あります。

機械的に相槌を打ったりだとか、機械的に足を動かし続けたりとかいうことは、身体が自然とやってくれます。そこに私たちの「意識的な覚醒」は必要ありません。「現場」に立ち会っていなくても、身体が自動的に全ての作業をこなしてくれます。歩くのなんて、もしロボットにさせようと思ったら複雑すぎて再現が大変らしいですけど、私たちは特に困難を覚えることなく、ほとんど全自動で歩き続けることができます。

 

ずいぶん前に、サザエさんのアニメを見ていて、こんなシーンがありました。

マスオさんがちゃぶ台で一人、ご飯を食べていました。たしか焼き魚を食べていたと思うのですが、彼は新聞を片手に持って読みながら、空いた手で箸を巧みに使って食べ物を口に運んでいました。それをすぐ横で見ていたサザエさんが、「ねえ、味のほうはどう?甘いかしら?」と尋ねるのですが、マスオさんは新聞から目を離さないままで「うん、甘いよ」と即答します。もちろん、焼き魚が甘いわけはないので、サザエさんはそのことを指摘して、マスオさんはビックリしてしまうというオチです。

 

こういったことは私たちの日常の中にたくさんありますが、私たちの身体は、新聞を読みながら箸を正確に使うくらい、わけなくできてしまうほどに超高性能なマシーンなのです。

このような身体の叡智は、私たちの日常生活を円滑にする上で非常に役立っているわけなのですが、その力に頼り切っていると、「いざというとき」に困る場合があります。

 

たとえば、赤信号の横断歩道を前にして、信号が青に変わるまで待っているとき、私たちはその少しの待ち時間に、考え事にふけったりスマホを取り出して眺めたりします。それで少し経ってから、自分のすぐ隣に立っていた人が突然前に歩き出すと、つられて一緒に歩き出すことがしばしばあります。

そういうときの重心の前方移動というのは非常にスムーズに行われますが、歩き出した後に顔を上げてみると、まだ信号が変わってなかったりします。たまたま隣にいた人は、気が早かったんだか急いでいたんだかして、信号が変わるより先に動き出したようなのですが、周りを見るとまだ他の人たちは微動だにしていない。

すると、「気の早い人」につられて思わず踏み出した当人は、前に向かって動き出した重心の移動を、今度は思わずいったんストップさせます。つまり、最初は隣にいた人に引っ張られて動き出し、次には周りにいる大多数の他人に引っ張られて止まるのです。

こういうとき、私たちは「進む」にしても「止まる」にしても、周りにつられて「反応」しているだけで、何をすべきか自分自身で「選択」してはいません。

 

こういった状態、つまり、「反応」を強いられていて「選択」が不可能になっている状態を、古来より瞑想の世界では「眠り」と呼んできたようです。

瞑想の実践を通じて悟った人たちは「目覚めた人」と呼ばれ、彼らは一様にこう言っています。「人は眠っている」と。

でも、別にそのような「眠った状態」のままであっても、これといって日常生活に支障が出るわけではないので、私たちは気にとめることがありません。私たちの身体は、意識が眠ったままでも日常的な動作を全てこなしてくれるほどに高性能だから、「眠ったままだと困るような事態」になるまで、私たちはついつい眠り続けてしまいます。

 

でも、「眠ったままだと困る事態」って、いったい何でしょうか?

たとえば、考え事をしながら歩いていて、突然目の前を車がパッと横切っていったとします。

私たちはビックリします。「いったい何だ」と驚いて、状況を確認します。

そういうとき、私たちの「眠り」は一時的に破られます。そこには「機械的にいつものパターンを反復していたのでは対応できない何か」が発生しているからです。「機械」は退き、「自分自身」が現実と面と向かいます。

 

あるいは、恋人から突然の別れ話を切り出されたとします。

私たちはビックリします。その人は昨日も今日も明日も、これから先もずっと変わらずそばにいると思っていたのに、その想定が揺さ振られます。こうなると、もう「いつものパターン」で機械的にその人と接することは意味を持ちません。自分の中の「機械」に任せず、あくまでも「自分自身」で目の前の相手と面と向かうしかなくなります。

 

しかし、そういった「想定外のこと」が起きない限り、私たちは自分の中の「機械」にあらゆることを任せて済ませてしまいます。たとえば、歩くことや食べることから始まって、恋人や配偶者へ「愛しているよ」と告げることまで、一切合切を「機械」にやってもらっている。

でも、「機械」は「同じパターン」を繰り返すことしかできません。だから、「今までにないパターン」が必要とされるとき、私たちは突然目覚めさせられる。「機械」はもう代わりに問題を解決してくれず、「自分自身」で何とかするしかない。何か想定外の問題が発生すると、「機械」は「あとはよろしく」と言って、さっさとどこかに行ってしまいます。

 

「眠り」の深い人であればあるほど、こういった「予想外の事態」に出くわしたとき、激しく動揺します。何もかも「機械」に任せきっていて、たまにしか目を覚ますことがないと、ビックリして状況を冷静に把握することさえできない場合もあります。

そういう意味で、「眠っている人」というのは「胆力のない人」と同義なのです。

 

では、どうやったら「眠り」から抜け出すことができるのか。

「眠り」から抜け出すためには、まず「眠りではない状態」とは何かを、自分自身で知らねばなりません。つまり、「眠り」と「目覚め」の違いを自分の感覚で感じ分けられるようになる必要がある。

その両者の違いがわからないと、当人は「眠り」から「目覚め」へ自覚的に進んでいくことができないからです。

 

一つ、簡単な実験がありますので、興味のある人はやってみてください。

自分の前に時計を置いて、一分間だけでいいので秒針を見つめ続けます。そして、動いている秒針を見つめながら、「自分は今秒針を見ている」という「意識」と「感じ」を保つようにします。

では、どうぞ。 

 

 

…いかがでしょう。

実際にやってみるとわかりますが、私たちの意識は、たった一分間さえも「今ここ」に留まっていられません。たぶんこの実験を初めてやった人は、5秒か6秒くらいしか意識を秒針に向けていられないと思います。

おそらくほとんどの人は、気がつくと秒針や時計から他のことを頭の中で連想してしまっており、その連想に夢中になって、「自分は今ここで時計を見ている」ということを忘れ去ってしまっている自分自身を、何度も発見することになったはずです。

 

このような「ああ、自分はいつの間にか『秒針を見ている』ということを忘れていた」と気づくのが「目覚め」の瞬間であり、忘れたまま過ごしている状態が「眠り」です。

その二つの「感じの違い」をよくよく味わっていくと、「眠り」から抜け出すための方向性が、きっと自分の中で確立できることでしょう。

日常生活の中で自分が「今ここ」にいないことに気づいたら、「ああ、また眠っていたな」とだけ知って、何度でも、「目覚め」る。その絶え間ない繰り返しの中で、少しずつ「覚醒の質」が深まっていくことになると思います。

 

コツは、一度に多くを自分に望まないことです。

たとえば、一分間ずっと時計の針に意識をとどめておけないのなら、まずは三十秒だけでも意識をキープすることを目標に設定する。もし三十秒が無理なら、十秒から始めてみます。

いっぺんに全てを変えようとせず、自分のペースを大事にします。もし自分のペースを尊重しないで練習すると、おそらくどこかで無理がきてしまい、取り組むことをやめてしまうでしょう。そうなったら、挫折感や劣等感を新たに抱え込まねばならなくなります。

 

また、「目覚めた状態」をもっと自分の生活全体に滲み込ませることを目指す場合には、特別に「練習のためだけの時間」を日常の中のどこかに作って、その時間にあらゆる動作をいつもよりゆっくりとするように心掛けることが大きな助けになります。

たとえば、私達には普段の仕事を問題なくこなすために、機械的に速く歩かねばならないこともありますが、自由な時間があるときに、「いま自分は歩いている」という意識的を保ったままでゆっくり歩くことを練習するのです。

ある程度慣れるまでは、歩く速度があがると「歩いている意識」の中に留まることができませんが、慣れてくれば、生活や仕事に支障の無いスピードで動きながらでも、最低限の「目覚め」と「気づき」を維持して歩き続けることができるようになっていきます。

 

とはいえ、「眠り」から完全に抜け出すことは、おそろしく骨折りなことです。というのも、これまでの人生の大半を費やして、私たちは自分の「眠り」を育ててきたからです。

だから、「『機械』に代わりに生きてもらうのではなく、他でもない『自分自身』でこの生を生きたい」と心から強く望む人しか、「目覚め」に継続的に取り組むことはできないだろうと私は思います。あまりにも大変なものですから、「こんなことならずっと寝ていた方が楽だ」と思って、ほとんどの人は「眠り」の中へと引き返してしまうことでしょう。

 

最終的にはその人自身の選択です。

「楽をして機械的に生きる」か、「努力してでも『自分の生』を取り戻す」か。

他人には、いずれの選択も押し付けることができません。私たち自身が、「他人に流されること」を自分で自分に許さない限りは。

 

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