孤独について

「苦しみ」というものは、不思議な磁力を持っています。

私たちは、一度味わった「苦しみ」を何度も何度も繰り返し味わいます。「あんなことをするべきではなかった」「こんなことを言うべきではなかった」と後悔し続けることもあるし、「あの人は私のことを心の中で批難しているのではないか」とか「自分の汚点や欠点を誰かから攻撃されるのではないか」とかいった具合に想像力を膨らませて疑心暗鬼になることもあります。

気持ちが過去に引っ張られていると、「同じ思考」を何度も繰り返します。ついさっき一度考えて「こんなことを考えても無駄だ」とわかったはずなのに、気がつくとまたそれに絡め取られている。だからといって、「こんなことは止めよう」といくら意志してみても、こちらの決意をあざ笑うかのように、その悩みは同じ姿形で再び現れます。そうして何度も意志が破られて、「苦しみ」が深くなっていくにしたがって、私たちは一種の敗北感を抱き、「こんな風に悩み続ける自分は出来損ないだ」という劣等感が湧き起こってきます。自己に対する不信感が募っていく。

 

未来に対する不安についてもそうです。

過去だけではなく、私たちは未来に向かっても引っ張られます。「もしもこうなったらどうしよう」とか「自分はひょっとしたら失敗するのではないか」と不安に思って、冷静ではいられなくなります。実際には、不安になろうがなるまいが「先のことは誰にもわからない」という事実は変わらないわけですが、私たちは自分の不安を何度も繰り返し再現します。そうやって不安に思って右往左往していると、不可知な未来に対する具体的な対策も取れないわけですが、私たちは往々にして「未来という名の未知」と向き合うよりは、「慣れ親しんで既に知っている不安」と一緒にいるほうを選びます。

 

そう、私たちは「苦しみ」についてはよくよく知っているのです。

自分も知っているし、他人もそれをよく知っている。「苦しんでいる人」は全く珍しくありません。そういう人はどこにでもいるし、私たちは自分が苦しんでいることにも、誰かが苦しそうにしていることにも違和感を覚えなくなっています。ひょっとすると、それがむしろ「自然な状態」だと思っているかもしれません。

 

私たちは「苦しみが全くない状態」をほとんど知らないでいます。

もし内側に「苦しみ」がなくて気分が良いと、一日二日くらいはいいですが、だんだん不安になってきます。というのも、世の中は「苦しみ」で溢れかえっているからです。だから、自分の気分があんまり良いと「これはひょっとすると自分の方がどこかおかしいのではないか?」という疑問が湧いてくるのです。

 

ある人があまりにも満ち足りて幸福そうにしていると、周りの人たちはその人を「異常」と判断します。「自分はこんなに苦しんでいるのに、なんであいつだけ超然としているんだ」と嫉妬する人も出てくるし、「あいつも等しく苦しむべきだ」と考える人だって出てきます。

反対に、私たちが苦しんでいると、周りの人は同情してくれます。理解しようとしてくれるし、大切に扱ってくれます。そして、「同じ苦しみ」を生きている「仲間」として認識してくれる。そのことに私たちは慣れています。

 

私たちの社会は「幸福な人」に対して、基本的には「無関心」であり、悪い場合には「否定的」です。

「幸福で満ち足りた人」は、他人の関心を引きません。もう既に自足しているから、他人はあえて構ってあげる必要を感じないからです。

あるいは、場合によると「幸福で満ち足りた人」は、存在しているだけで他人の劣等感をかき立てるので、そこから敵意や憎悪が生まれてくるかもしれません。

私たちが「苦」と同化しやすく、「幸福」と同化しにくいのは、一つには私たちが「他人からもっと関心を持ってもらいたい」という欲求を根強く持っているからであり、もう一つは「同じように苦しみと深く同化している他人から、『敵』ではなく『仲間』だと思ってもらいたい」からです。

 

私たちが「他人からもっと構ってもらいたい」と願えば願うほど、そして、「他人から『異常』だと思われたくない」と怖れれば怖れるほど、「幸福」は遠ざかります。

そして、その承認の欲求と排斥への恐れから「自分で自分の幸福を遠ざけた大人達」が、子ども達を教育することになります。「苦しみこそが自然で、幸福は不自然だ」ということを、大人が子どもの目の前で体現し続けることによって、子ども達は「世の中というのはそういうものだ」という思い込みを植え込まれます。

私たちが「幸福」の中にうまく留まることができないのは、「自分自身の幸福」を「何か間違ったもの」だと思い込む癖が、代々受け継がれてきたからです。世の中全体が「苦」に満ちているのだから、そして、「世の中というのはそういうものだ」と多くの人が態度と生き様で示すものだから、私たちは「幸福」よりも「苦」に引っ張られてしまう。

これは悪循環です。

 

そのような今の世の中にあって真に「幸福」な人は、「自分自身で自分を満たす術を努力して模索した人」であり、「たとえ他人から批難されたとしても『幸福』であることを選択する勇気を奮い起こした人」だと私は思っています。

そういう人から、「苦の悪循環」は断ち切られていく可能性があります。「どれほど世の中に『苦』が蔓延していても、それを選ばないことは可能だ」ということを、自分の身でもって体現できる人の存在によって、「苦こそが自然である」という社会的な思い込みは徐々に薄れていきます。

 

でも、私たちはどうやって「慣れ親しんだ苦しみ」から「未知なる幸福」へと移っていったらいいのでしょう?

一つには、私たちがどうしてこれほどまでに「苦しみ」に引きつけられるのか、その理由を自分自身で理解することが大事だと思われます。理由のいくつかは既に書きましたが、たとえば、私たちの内側の世界があまりにも寂しいものになっていると、私たちは自分で自分を満たすことができないので、その「満たされ無さ」を外側の他人になんとか満たしてもらおうとします。そのため、「自分の苦しみ」を使って周りの関心を引こうとしてしまう。

そういう人にとって、「苦しみ」を手放すことは「取引の材料」を失うことと等しいので、どうしても「苦しみ」に固執してしまいます。

 

このような場合に「苦しみ」を捨てるためには、「他人との取引」をやめて、自分で自分の内界を少しずつでも豊かにしていくことが必要になります。

しかし、そのプロセスは最初のうち必ず「痛み」を伴います。この「痛み」の中で、それまでとは別の種類の「苦しみ」が現れます。それは絶対的な「孤独感」であり、「自分は全くの独りだ」という感覚です。

 

みんなと一緒に苦しんでいる間は、「孤独感」に苛まれることはありません。「苦しい」けれども、「孤独」ではない。

「慣れ親しんだ苦しみ」を手放すと、最初は必ず「孤独」が顔を出します。そこで多くの人は怖くなってしまう。何かとても恐ろしいものを発見してしまった人のように、「孤独」を見なかったことにして、「よく知っている苦しみ」の中へと戻っていってしまいます。

 

「孤独」の中に留まることは非常に勇気がいります。

もはや誰も彼に関心を払わず、彼は全てから離れて独りきりで立っています。確かなものは何も無く、安全を保証してくれるものはどこにもありません。いかなる定義も規範も、彼にどうするべきかを指図してはくれないし、身を守ってもくれません。

そのような「澄み渡ったカオス」の中で、彼はまだ「自分自身の基準」を持っていないということを思い知ります。全ての基準は「借り物」だった。それらの「借り物」は、この「孤独」の中では全く役に立ちません。

 

だからこそ、「孤独」は最初のうち私たちを震え上がらせます。「もはや何にも寄り掛かることはできず、かといって、まだ自分の足で立つ仕方を知ってもいない」という「どっちつかずな状態」を、「孤独」の中で私たちは必ず通過することになります。

その「どっちつかずな状態」において、私たちは一瞬も安心することはできません。全ては不確かに思え、他人の語る言葉に対しては常に疑いが湧き起こります。何かを頭から信じることもできず、かといって、完全に否定することもできない。

そして、そのような状態がどれだけのあいだ続くのか、誰にもわかりません。

 

ただ、確実なことが二つあります。それは、「どっちつかずな状態」はいつか必ず終わるということと、「孤独」は絶対に終わることがないということです。

「信じること」と「否定すること」から等しく遠ざかり、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心身を使ってあらゆることを試していくことで、内側で生まれた疑問に対する「自分自身の答え」が見つかっていきます。「出来合いの答え」ではなく、「手作りの答え」を見つければ見つけるほど、自分自身に対する信頼と敬意は強まっていき、本当の意味での「自信」が身についてくる。

 

人は決していつまでも疑い続けることはできません。「疑っている状態」というのはたいへん「苦しい」ものですから、私たちは必ず疑いを終わらせようとします。

もちろん、何かを盲目的に信じることによって疑いを終わらせることもできるし、「何も信じない」という信じ方で終わらせることもできます。

でも、それでは元に戻るだけです。しかも、今度は「自分は『孤独』を垣間見たのに、見なかった振りをしている」と気づいた上で、元の場所に戻ることになります。

これでは「苦しみ」は前よりも大きくなります。なぜなら今や、「自分は欺瞞を演じている。私は自分を欺いている」という意識が、常にそこには在るからです。

 

だから、本当は「逆戻り」ということはできないのです。気づいてしまった以上、前に進むしかない。

そして、前に進み続ければ、人は必ず「孤独がもたらす痛みと疑惑」を通過することができます。それを十分に全うさせ、終わらせることができる。

 

「疑い」には必ず終わりがあり、「孤独」には決して終わりがありません。

たとえば、どれほど深く誰かと愛し合っても、何十年も一緒にいても、その相手が自分の代わりに生きてくれるようになるわけではないし、死ぬときは誰だって独りです。死ぬときに、どれだけ友人や知人に囲まれていても、死ぬのは友人・知人ではなく、他でもない自分自身です。

この事実は動かしようがありません。だから、生きている間に「孤独」と向き合ったことのない人は、死に際して、「孤独がもたらす痛みと疑惑」を一気に通過しなければならなくなります。

それはその人の心身に文字通り「激痛」をもたらすはずです。その「痛み」の中で我を失って、「自分の死」を受け容れるだけの時間も気持ちの余裕も持てないかもしれません。

 

このことに気づいている人は、まだ生きている間にあらゆる機会をとらえて「死の準備」をします。

たとえば、毎日少しずつ「古い習慣」を捨てて「新しい生き方」を選ぶ練習をします。「古い習慣」に執着することを止めることで、毎回「小さな死」が起こります。自分の中のある部分が「死」に、新しい自分が「再誕生」します。

または、「同じ人」と会う度にあたかも「違う人」であるかのように見る練習をします。「この人は昨日と同じであり、今日も明日も変わらない」という思い込みをそのつど壊して、「今ここ」のその人を見るように意識する。それによって、「自分は昨日も生きていたし、今日も明日も変わらず生きているだろう」という思い込みが徐々に壊されます。

 

「死」はいつ起こっても不思議はありません。でも、私たちは普段、いつまでも生きているつもりでいます。

本当は、過去のことをくよくよと後悔している時間も、未来のことを憂えて萎縮している時間もないはずなのです。それなのに、私たちはいつも過去や未来のことばかりを考えていて、「今ここ」にいません。意識のピントは「今ここ」に合うことがなく、いつもぼんやりしていて不明確です。

 

明らかに死ぬことのできる人は、明らかに生きてきた人だけです。

 

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コメント: 5
  • #1

    イモリ (火曜日, 28 3月 2017 13:00)

    私は自分の内面の変化にともない、孤独を感じるようになりました。このままずっと孤独なのかもしれないと思って長い間心が沈みました。ある日、新聞記事に孤独とはそれに耐えられる人には自由をもたらし、その人生は豪奢なものになるとありました。私は他人に合わせて不自由に生きるより、ほかでもない私の人生を自由に生きたいと思いました。私は今、私の人生を楽しんでいます。私は掴まえた孤独から逃げません。孤独に耐えられず集まりあう人たちはその集団で不自由に生きるにとどまらず、権力の支配さえ無意識に求めています。先人が血を流して勝ち取った自由から進んで逃走しています。それほど孤独とは人を不安にさせます。でも私はもう孤独を恐れないでいようと思います。

  • #2

    イモリ (火曜日, 28 3月 2017 20:30)

    二度送信してしまいました。ごめんなさい。

    私はある時、自分は幸福であると感じました。私の置かれている環境はなにも変わっていないのにそう感じました。心の中の水瓶に水がたっぷり入っていて、誰かにあげたとしても私はなにも困らないほどその水は満ち足りていました。心の水瓶はずっとあったのでしょう。気づかなかったのは、水瓶にひびが入っていたのかもしれません。私が変わっていくにつれ、ひびは直っていったようです。幸せはいつも誰の周りにもあるのだと思います。それを受け止められるかどうかだと思います。もちろんどうしようもなく不幸な境遇にある人もいます。でも自分から不幸を呼び寄せる考え方がその人をさらに不幸にするように、幸せになる考え方はその人に幸せをもたらします。私は幸せの方へ素直に進んでいきたいです。幸せとはなるものではなく、気づくものだと私は思うのです。今、私は満ち足りた気持ちでいます。誰かに批判されようと私は変わらないでいようと思います。

  • #3

    イモリ (火曜日, 28 3月 2017 22:16)

    二度同じ内容のコメント(コメント#1)を送信したように私が見ていた画面からは見えたのですが、勘違いでした。失礼いたしました。

  • #4

    湯浅 (水曜日, 29 3月 2017 00:27)

    >イモリさん
    コメントありがとうございます。
    私が孤独について考えるときはいつも、茨木のり子さんの『一人は賑やか』という詩が思い浮かびます。
    その詩の中に
    「一人でいるとき淋しいやつが
    二人寄ったら なお淋しい
    おおぜい寄ったなら
    だ だ だ だ だっと 堕落だな」
    という一節があります。
    「一人でいるとき淋しい人」は、その淋しさを誰か他人に埋めてもらおうと期待するものですが、相手のほうも同じように「一人でいるとき淋しい人」だったりしたら、お互いにいつまでも「もっと欲しい、もっとよこせ」と要求し合うことになってしまいますよね。そうしてお互いに寄り掛かりあって、ズルズルと「堕落」していってしまう。自分で自分を満たしてあげるのは、時として難しいことですけれど、それができないうちに人とかかわっていくと、どこかで自分も相手も苦しくなってしまうように思います。
    「幸せとはなるものではなく、気づくものだ」とイモリさんは書かれていましたが、私もまたそう思います。よほど極端な状況に身を置くのでもない限り、不幸と幸福は個人の選択だと私は思っています。もちろん、幸福を選ぶことがとても難しい時もたくさんありますけれど(^_^;)
    私も、不幸より幸福に向かって進んでいける人間でありたいと常々思っています。お互いぼちぼちやっていきましょう。

  • #5

    イモリ (土曜日, 01 4月 2017 00:21)

    お返事をいただけてうれしいです。ありがとうございます。
    幸せは本当は自分のまわりにたくさんありますね。
    今はもうとっくに春ですが、少し前、まだ寒い朝に日差しがやわらかいこと、風が優しいことに気づいて、それはもう冬のものではないと感じたとき、春が来たと思ってうれしくなりました。小さな幸せでもそれに気づいたときには一人で心の中でうれしくなります。
    「一人でいるとき寂しいやつ」を引用するなら「やつ」と書くのがルールですが、ここで「人」と表現を変えて引用されているのは湯浅さんのお人柄なんでしょうね。この詩の続きを読んでみます。ありがとうございます。