輝きの中で

人は誰しも、「特別な瞬間」を記憶の中にいくつか持っているのではないかと思います。それは、自分の周りを覆っていた膜がとつぜん消えて、この世界と自分が別物ではなく一つに繋がっているという感覚、自分はこの世界にたしかに含まれているという感覚の中に、深く安らいでいる瞬間です。

心配も不安もなく、全てが輝いて見え、喜びが内側から溢れてくる。

そういう時は、どこまでが「自分」でどこから「自分で無いもの」が始まるのかが不明瞭になり、まるで周りの空気までもが親しい友達になったような安心感に包まれます。

そして、「自分は間違いを犯しているのではないか」という疑いもなく、「自分は正しいのだ」という言明も説明も必要とせず、多幸感に満たされます。

 

多くの子ども達は、この状態をしばしば体験しているように私は思います。

たとえば、外で道を歩いていると、向こうのほうから5、6歳くらいの子が声を出して笑いながら走ってくるのを見ることがたまにあります。彼らは何の意味もなく走ります。遅刻しないように走るのではないし、健康のために走るのでもないし、他人を打ち負かして「一等賞」を取るために走っているのでもありません。ただただ、走るのが楽しくて走っているのです。

 

でも、私たち大人がその子達の真似をしたら、100人中99人は滑稽なことになります。ひょっとすると、醜くさえ見えるかもしれません。

というのも、大人は「これをしたらいったい何が得られるだろう?」という風に、いつも計算するからです。

笑ったら何を得られるだろう?

走ったら何がもらえるだろう?

そういうことを自問して周りにいろいろなものを求めていながら、さも自足しているかのような振りをする。いくら顔は笑っていても、その満足感は見せかけだけの偽物であり、その外見上の無邪気さは他者から何かを得るための取引道具に過ぎません。

 

私たち大人は、特に理由がない限り走りません。

電車に乗り遅れないように走ることや、身体を鍛えるために走ることはあるかもしれませんが、理由がないと走ったりしない。

なぜなら、私たち大人は子どもたちほど新鮮なエネルギーに満ちてはいないからです。ほとんどの大人は、走らずにいられないほどエネルギーが内側に満ちあふれることはありませんし、もし溢れるほどの幸福感が内側に満ちてきても、それを子ども達のように表現すると「馬鹿者」だと思われることを知っているので、そのエネルギーを無理やり抑え込みます。もしもまわりから「馬鹿」だと思われると、社会的な信用を失って生活しにくくなることがわかっているからです。

あるいは、その「馬鹿」なところにつけ込まれて、誰かに利用されてしまうかもしれない。搾取されてしまうかもしれない。

そういうわけで、私たちは自分を守る必要性から、幸福感が溢れすぎないように、自分のエネルギーを抑え込むのです。

 

私が覚えている限り最初に体験した「特別な瞬間」は、4歳か5歳ころに保育園の庭で側転をしていたときに起こりました。

そのときは「側転」という言葉もまだ知りませんでしたが、天と地がひっくり返って自分の身体がグルグル回る感覚がなんとも気持ちよくて、やたらめったら回っていました。実際の所、形として「側転」になっていたかどうかも疑わしいのですが、後になって思い返してみると、たぶん「側転」に一番近い身体の動かし方をしていたように思います。

くるくる、くるくる、回るのが楽しくて仕方なくて、一人でいつまでも飽きずに回っていました。

 

そのあと、小学校に上がってから器械体操を習うようになりました。

私は「側転」という言葉を知り、そのやり方を習い、明らかに前よりも整った形でその運動を正確に行うことができるようになりました。もっと難しい技もたくさん覚えた。

でも、かつて体験した光り輝くようなあの時間は、二度と戻っては来ませんでした。何度も何度も「側転」をしましたが、それはもう私の友達ではなく、遠い他人のようでした。

 

それから月日は流れ、高校生になって私はブレイクダンスを習い始めました。新入生歓迎会で先輩が踊っているのを見て、雷に打たれたような衝撃を受けて、自分もやってみたいと思ったのです。

でも、最初のうちは習った動きがまったくできませんでした。特に、私はそれまで音楽を聴く習慣がなかったので、リズム感というものがまるでなく、私の動きのテンポは非常にぎこちないものでした。周りで見ていた友人からは「踊っているのか暴れているのかわからない」と言われたほどです。

そんな風に言われるものだから、私は自分の踊りを見られるのが恥ずかしくて、よく一人でこそこそと練習しました。

 

そして、そういうときに、かつてのあの「幸せな感覚」が戻ってくることが、時折ありました。

あるとき、私は習ったステップのうちの一つを繰り返し繰り返し練習していました。リズムはめちゃくちゃだったと思いますし、動きもぎこちなかったはずですが、あるところで私は自分のまわりの空間が輝きだしたのに気づきました。自分の身体もまた輝いていました。

床と靴の裏が自然と馴染む感覚があり、身体が軽くなって疲労感がなくなりました。

 

私はたった一つのステップの中に没入し、同じ動きをひたすら繰り返していました。そのとき私は、高校の廊下の途中にある小さな休憩用のスペースを使って、踊っていました。

廊下を通る誰かが見たかもしれないし、見ていないかもしれない。ひょっとしたら相変わらず暴れているだけにしか見えなかったかもしれません。

でも、確かに私はあの時、まばゆいばかりの光の中にいました。スポットライトはあたっていなかったけれども。

 

その後、私は踊りにも習熟しました。様々なステップを覚え、ブレイクダンス以外の踊りも練習しました。

ロックダンス、ヒップホップ、ハウス、ジャズダンス、モダンダンス、クラシックバレエ…。

ずいぶん色んなことができるようになりましたが、何かをできるようになればなるほど、私自身の踊りは貧しくなりました。

私は計算高くなりました。自分の身につけた技術をどう使えば見る相手に強い影響を与えられるかを、いちいち考慮するようになった。

ダンスの教師からどうすれば高く評価されるかを気にするようになり、自分より下手な人間を見下すようにもなりました。私にとってダンスは、他者からの評価と尊敬を勝ち取るための道具に過ぎなくなり、もはや私はその中深くへと入ってはいけなくなりました。

あのまばゆいばかりの光の感覚は、どんどん遠ざかっていった。

 

不思議なもので、「持てば持つほど貧しくなる」ということがこの世にはあります。

私たちは生まれたときには既に「宝物」を持っているのですが、この社会で大人達から受け容れられるために、それを早々と売り払ってしまいます。たとえば、子ども達が嬉しくて仕方なくて、笑いながら走っていると大人達がその腕を掴んでこう言います。「そんな風に周りを見ないで走っていたら危ないから、もっと注意して走りなさい」と。

でも、「走ること」こそがその子の全世界なのです。他のことにいちいち注意しだしたら、その子の「走ること」は壊れてしまいます。

でも、私たちには子ども達の世界を壊してでも、確保したい物事があります。それは子どもの身の安全かもしれないし、親にとっての世間体かもしれません。とにかく、私たちは子ども達を「より管理しやすい何か」に変えようとします。

 

映画監督だったかテレビのディレクターだったか忘れましたが、誰かが「子どもと動物には勝てない」と言っていました。

子どもと動物は私たち大人によるコントロールには従わないから、撮ろうと思った画がなかなか撮れないのです。コントロールしようとすると、彼らは必ず反発します。

だから、私たち大人の側にできることは、彼らが自分の欲求に従っている姿を撮るか、欲求をねじ曲げられて反発している姿を撮るか、いずれにせよ、彼ら自身の「ありのままの姿」を撮ること以外にはありません。

 

反対に、私たち大人は自分自身の「ありのままの姿」を見失っています。見た目を取繕う術にあまりにも熟達しすぎたせいで、自分の本当の欲求が自分でもわからなくなっている。

たしかに、それによって世の中を渡っていくのは上手くなったけれど、私たちの内的な世界はどこかが壊れており、病んでいます。そして、そのことに対する自覚さえなくしている。

 

しかし、自由に使える時間があるとき、私たちが静かに何もしないで坐っていると、そういった内側の病気は表に現れてきます。10分か20分ほど坐っていると、「はたして今こんなことをしている場合だろうか?」という疑いが湧いてきて、「一刻も早く何かしなければ」という焦りに取り憑かれます。

多くの人は、「何もしないで静かに坐ってなんかいるからこんな気分になるのだ」と言って、さっさと何かをし始めますが、実際にはその疑いと焦燥感は、24時間ずっと内側にあるのです。ただ、静かに坐っていたことで、気を逸らしたり誤魔化したりすることができなくなり、自分にも自覚できる形で現れたというだけのことです。

 

私たちはいつも何かが欠けていると思っており、その欠落感を埋めるために常に何かを所有したがっています。

お金を必要以上に欲しがる人もいますし、愛情をできるだけたくさん確保しようとする人もいます。学校の成績や仕事の業績をもっと上げようとする人もいれば、「人間的な完成」を目指して努力する人もいます。そうやって何かを得るために、みんな頑張っている。

 

これらは全て、「恐れ」をその根としています。

お金を稼いでも稼いでも安心できない人は、お金がなくなって飢えて死ぬことを恐れているし、愛されることをたくさん欲する人は、まわりの誰にも構ってもらえず独りきりになることを恐れている。学校の成績や仕事の業績を挙げることに熱中している人は、それによって自分の力と権利が拡大し、より安全な人生になることを期待しています。「人間的な完成」を目指す人もまた、内側には不安と恐怖とを抱えており、「完成」によって真の安心が得られるはずだと思って、自分に鞭打ち続けています。

 

何であれ、何かを所有するということは、それを自分の支配下に置くということです。そして、私たちは安心感を得ようとするとき、必ずと言っていいほど「支配できるものを増やす」という方法をとります。

もしもこの世界で何かを得ようとしたら、「行うこと」によってしかその望みを叶えることはできません。だから、心の中が不安な人は、「行うこと」に取り憑かれます。どこまでもどこまでも何かを行い続け、それによって「所有物」を増やし、「安心感」をつかみ取ろうとする。

 

でも、そうすると色々問題が発生します。

一つは、自分が欲しいものを所有し終わるまでは一時も安心ができないということです。自分からの働きかけによって所有が完了するまでには必ずタイムラグがあります。場合によってはそれには何年もかかるかもしれません。そうなると、その人は何年もの間、安心することができなくなってしまいます。

また、私たちは人であれ物であれ、あるいは知識や技術であれ、所有するとそれに飽きるという傾向があります。欲しい欲しいと思っていた物でも、実際に手に入ってみると「何だ、こんなものか」と思って見向きもしなくなるということはよくあります。それは、簡単には手に入らないものだったからこそ、私たちの欲望を刺激していただけだったのかもしれません。

 

所有することによって私たちは飽きます。もうそれが何であるか知ってしまったからです。もはや何か新しいことが起こる可能性はなく、その変化を注意して見ている必要もありません。

もうそれは死んでしまったのです。

 

「生きているもの」は所有できません。「生きているもの」は常に変化しており、独自の仕方で毎日新しくなるので、外から支配することができないためです。

しかし、私たちは自分に対しても他人に対しても、「何かが支配できない」ということを強く恐れます。だから、「生きているもの」は何でも所有して殺そうとする。

それによって私たちは安心します。もう新しいことは何も起こりません。予測不可能なことも起こりません。それは冷たく死んでいて、そして安全です。

 

子ども達は所有することをまだ知りません。彼ら自身がまだ新しく、その目は好奇心に満ちています。世界は驚きと発見に溢れており、恐ている暇などありません。

しかし、私たち大人の目は既にあらゆることに慣れてしまっており、新鮮な輝きを失っています。私たちは多くのことを既に知っており、それらに飽き飽きしています。毎日は同じ事の繰り返しで、驚きもなければ発見もありません。

それは、私たち大人が自分の恐れと不安ゆえに、あまりにも多くのものを所有しすぎたからです。

 

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