「独り在ること」の困難さ

私たちはしばしば、「自分はこういう人間にならねばならない」とか「こういう場合には、このように振る舞わねばならない」とかいったように強く思い込んで、「あるべき理想像」や「従うべき行動パターン集」とでもいうようなものを自分の内側に作り上げます。

実際には、「しばしば」どころではありません。今のような「~すべき」という言葉で溢れかえっている社会で育った人間は、そのような「規範」を内面化せずに大人になることはほとんど不可能です。

 

「規範」、あるいは「道徳」と言ってもいいですが、私たちはそれらを有り難がり、「社会生活を維持するために絶対必要なものだ」と互いに言い合っています。まるで、そのように言い合って確認を取っていないと、不安で仕方がないかのようです。

実際、この「規範」とか「道徳」とされているものから逸脱すると、私たちは強い不安感を抱きます。

 

自分は道を見失うのではないか?

足を踏み外して取り返しのつかない失敗をするのではないか?

拠るべきものをなくして、不安定な根無し草のようなものになってしまうのではないか?

 

こういった疑いが内側で起こってきて、私たちは大急ぎで「規範」や「道徳」の中へと戻っていきます。そうして、そのことによって私たちは深く安心します。周りの人たちも「そうだ、それが正しいのだ」と言ってくれます。

だとしたら、どうして「規範」や「道徳」のほうが間違っていると思えるでしょうか?

その内部に留まっていれば自分自身も安心であり、また周囲の人たちも仲間として自分のことを遇してくれるというのに。

 

しかしそれでも、「何が正しくて何が間違っているかは誰にもわかりはしない」ということだけは、いつの時代も確かです。たとえあるとき世界中の人々が「これが正しい」と思っていたことであっても、次の時代には簡単にひっくり返ります。そうなると、「あんなことを正しいと思っていた時代は終わったのだ」という風に考えるのが、今度は「正しいこと」になります。

こうして、私たちは「正しいのはこれだ」とお互いに言い合って、自分達の「安心」をより強化しようとします。同時に、そこから外れていく人間は、たとえもともと「仲間」だったとしても、誹りを免れません。

 

多くの人が「正しい」と考えていることに疑問を持つのは、犯罪的なことのようにさえ見えます。

もしある人が「本当に人々の言う通りなのだろうか?」と疑問に思い、「この疑問を自分なりに解決するまで、私は人々の言葉を鵜呑みにしないことにしよう」と決めると、彼/彼女は孤独を余儀なくされる。いまやたいへん多くの人々が彼/彼女と大なり小なり対立し始めることになるのです。

 

あなたは、あなたの親が教えたことを間違っていると思うのか?

あなたの教師達はこれまでなんと言っていたか?

あなたの仲間達は、あなたを「人としての道」に連れ戻そうと今も手を尽くしてくれているのだぞ。その気持ちをあなたはこのまま裏切るつもりか?

あなたは多くの古典や聖典が、あなたに反対することを知らないのか?何千年も読み継がれ、語り継がれてきた言葉に誤りがあるなどと、まさかあなたは思うのか?

もしあなたがこのまま進むなら、あなたは「間違った道」に入っていき、今に破滅するであろう。

 

私たちは、「自分自身の孤独」の中でこのような言葉を聞きます。

そうして一つ大きく身震いする。胸が裂け、腹の底から震えが湧き起こってきます。

ここで私たちは「そうかもしれない」と一度呟き、次の二つの内どちらかの道を選ぶことになります。

 

一つは、「やっぱりみんなの言う通りかもしれないから、元のところに戻ろう」と思って、すぐ来た道を引き返すこと。そこには安心が待っており、仲間達が待っています。甘い眠気を催すような、完璧な安全が用意されている。

 

もう一つは、「それでも私は自分が納得できるまで、人々の言葉を鵜呑みにはしない」と決めることです。彼/彼女はたとえ世界中の人が自分に賛成しても反対しても、そのこととは無関係な位置に立とうとします。

しかし、その先には不確実さと危険が待っています。

もはや仲間達にとって彼/彼女は言葉の通じない「異邦人」であり、しばしば「敵」にさえなります。

昨日まで優しく接してくれた人たちが、今日はもう顔を見てさえくれないかもしれない。こうして、明日も明後日も確実だと信じられていたあらゆるものが、急激に不確実になっていきます。

 

しかし、これこそが私たちの生の本来の姿なのではないでしょうか?

誰が明日のことを知っているでしょうか?

昨日まで確実だったことが今日もまた確実であるという保証が、いったいどこにあるのでしょうか?

 

おそらく、このような不確実性こそが、生の本来的な在り方なのです。

しかし、そこには恐怖と不安が暗雲のように存在しています。

私たちは戦き、その暗闇に蓋をしようとします。

私の目には、「規範」や「道徳」といったものが、まさにこの「暗闇に対する蓋」のように見えます。

その「蓋」は、たしかに暗闇を見えなくします。そして、これらの「規範」や「道徳」が、私たちを多くの隣人へと結びつけ、一時的な安心感を生み出すと同時に、私たち一人ひとりが抱えている唯一無二の「孤独」を骨抜きにしてしまうのです。

 

私たちが他人と「規範」や「道徳」について語り合い、熱心に同意を得ようとするのは、まさにこのためです。

私たちが「規範」や「道徳」を強迫的なまでに欲するのは、それなくして、「生は不確実である」という事実を隠蔽し続けることが極めて困難だからです。

 

なぜ人々の信奉する「規範」や「道徳」を鵜呑みにしない人間が周囲に多くの敵意を生み出すのかも、同じ理由から説明できます。

そもそも多くの人々は「規範」や「道徳」の中で「安心して眠ること」を欲しており、その「眠り」の外側に無限に広がる不確実さを見ることなんて欲していません。誰だって、できることなら安心して寝ていたい。

そして、もし安心して眠っていたいときに、隣で起きてゴソゴソと動き回る人がいたら、「頼むから他所に行ってくれ」と思わず言ってしまうでしょう。「あんたと違って、こっちは眠っていたいんだから」と。

 

だからこそ、「規範」や「道徳」に反する感性を持った人たちは、その多くが山や森の中へと逃げていってしまうのです。山や森の奥深くならもう人間はいません。そこまで行けば、「こっちは眠いんだから他所に行け」と言って苛立つ人もいなくなります。

こうして、山や森の中へと逃れた隠者もまた、安心して眠ることができるようになります。もうそこには対立はなく、批難もない。たしかに、人々の中で暮らしていたときより不便ではあるかもしれない。でも、もう誰も彼/彼女を排斥したりはしません。

 

このように、私たちは実に様々な形で「眠り」を求めます。

その「眠り」は、私たちの「孤独感」を和らげ、全てが不確実なこの宇宙に「偽りの安全」を作り出します。

そして、この「偽りの安全」のただ中で、生きながらにして「死者」のようになってしまうのです。

 

決して「死者」のようにならないこと、今ここに「生きて在る」ことは、私たちに困難な要求を突きつけます。

「大衆」の中へ逃げ込むのでもなく、「隠者」のように山や森の中へと逃げ込むのでもなく、人々の中にあえて留まりながら、同時に、人々の意見に無条件に同意しないこと。

このような在り方こそが、私たちの「孤独」を真に在らしめ、その人自身の生を唯一無二のものにするのだと、私は思います。

 

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