「探究」の道しるべ

私たちはいったいどのようにして「真理」を探究し、確信を持つに至るのでしょうか?

この世界には不可解なことが満ち溢れており、一見すると互いに矛盾するような意見があっちとこっちでいつも同時に叫ばれています。

そのような「混沌」のまっただ中で、どうして私たちに「確信」など持てるでしょうか?

あるいは、「結局のところ、この世に『万古不易の真理』など存在しない」という認識を「真理」ということにして、諦念と失望を胸に生きることしかできないのでしょうか?

そもそも、自分にとっての「確信」が、「盲信」や「狂信」ではないと、どうしたらわかるのでしょうか?

 

私たちの探究は、「自分は無知である」ということの自覚から始まります。逆に、「もう自分は知るべきことは知っている」と思っている人は、何も探究しようとはしません。この点については、どなたも同意なさることと思います。

ですので、「自分は無知である」という想いを痛切に我が身で感じているのでなければ、「真の意味で探究をする」ということは決してできません。もちろん、学校に通って資格を取ったり、教授に従って学位を取ったりは誰でもできるでしょう。でも、それは必ずしも「探究」とはならないものです。

「自分は無知である」という自覚からスタートするのでなければ、自分の取った資格や学位を「社会生活を有利で便利に過ごすための道具」や、「他人から敬意をもって遇して貰うための装身具」として利用する方向にしか道は開けていきません。実際そういった人々は、「探究」をするために学んだのではなく、自分の身を守るための「防具」を欲していただけなのです。

それが「悪い」というのではありません。ただ、そういう動機の人には、「真の意味での探究」は一生涯無関係のままだろうと言っているのです。

 

「探究」をすることができる人は、そのことだけで非常に「特権的な場所」にいると言えます。というのも、私の見るところ、「探究」を始めることのできる人は、世の中にそれほど多いようには見えないからです。

多くのいわゆる知識人といわれる人々は、自分自身の知識を信じており、自分の出た学校の名前、取得した資格や学位の社会的な力などを無批判に信じ込んでいます。

そして、それらを周囲の人々も無批判に賞賛する。あるいは、無批判に羨ましがります。

これら追従する人々の態度はどちらも、知識人達の浅薄な自信の糧となります。そこでは、「探究」そのものは必ずしも価値あることとはされず、むしろ、より少ない「探究」によって多くの資格や学位を取得することのほうが求められます。誰からも「あなたは偉い」と言ってもらえる見込みがないのに「探究」をすることは、そのような場所では「馬鹿げた振る舞い」と見られます。「そんなことをして、一体何になるというのか」と、嘲笑の的となるかもしれません。

 

こういったいわゆる知識人、また、それら知識人を取り巻く人々の目には、「探究」は無価値と映ります。そして、自分で「無価値だ」と信じているものを、人間は決して心から求めることはありませんから、彼らには「全身全霊で探究に打ち込む」ということが不可能となるのです。

たとえ外側からは何かに打ち込んでいるように見えたとしても、その振る舞いは「探究に身を捧げている貴い人だ」という評価を世間から得るための表面的な演技の域を出ません。

 

しかし、こういった人々にとって不可能であるところの「真の意味での探究」こそ、人が人らしく生きるために不可欠な営みなのではないかと、私は考えています。

つまり、「私は無知だ」という自覚を持つ人こそは、「真の人間」になるための初期条件を既にクリアしている「特権的な人」と私の目には見えるのです。

 

「自分の無知」を自覚している人は、「自分自身の知」を信じていないだけでなく、「他人からもたらされる知」についても疑いを持っています。「本当にそうなのだろうか?」と、「無知を自覚する人」は自分自身に問いかけます。なぜ自分自身なのかと言えば、他人に問うている限り、「本当にそうなのだろうか?」という疑いは決して消え去らないからです。

たとえば、あるAという人に「真理とはこれこれである」と言われて疑問に思ったとして、それから別のBという人のところに行って、「それは本当でしょうか?」と聞くとします。でも、「それでは同じ事の繰り返しである」ということが、すぐにわかります。もしBが「まったくその通りだ、Aの言うことは正しい」と言うにしても、「Aは間違っており、真理はこれこれこういうものだ」と言うにしても、いずれにしてもそう質問した人は、またしても心の内側で「本当にそうだろうか?」と疑うことになるからです。

 

「疑問を持っている人」はたとえ何を与えられても疑います。

ですから、そういう人にとっては「他人が与える答え」は全て、「一時の慰め」以上のものには成り得ません。

「疑う人」にとって大事なことは「自分自身で知る」ということです。そして、他人が外から与えるものに満足せず、自分自身で知ろうと欲することによって、彼/彼女は「自分自身にとっての探究」を開始することになるのです。

 

私はこれからこの文章の中で、私が今までに何人かの先人達が遺したヒントを参考にして自分なりに見つけた「探究」の道筋を示そうと思います。

しかし、言うまでもなく、それはあくまでも他人にとっては「ほんのわずかなヒント」にしか成り得ません。私が向き合っているのは「私にとっての探究」であって、「他の誰かのための探究」ではないからです。それゆえ、「私の言った通りに他人が同じようにやってもうまくいく」というようなことはあまり期待しない方がよいと思います。

ですから、私がたとえ何を言ったとしても、決してそれを信じ込まないことが大事です。もし私が言ったことを無批判に信じてしまうとするならば、私がこうして語っていることは、全く誤解されたことになってしまうでしょう。

 

それでは、どこまで書けるか分りませんが、やってみましょう。

まず、「探究」を進めていく上で、私たちは「自分だけの物差し」を得る必要があります。

つまり、自分は「真理」にいったいどれだけ近づいているか、あるいは遠ざかっているか、自分の進む方向は本当にこれであっているのか、それとも見当違いな方向に進んでしまっていないかどうか、そういったことを「自分自身で判断するための尺度」がなければ、私たちの「探究」はまるで地図も羅針盤もなく海を延々と航海し続けるようなものになってしまうだろう、ということです。

 

しかし、そのような仕方で一定期間「探究」を続けることは、どうしても避けがたいことです。そもそも、「自分は無知である」と自覚することは、そのまま「私には『自分自身の物差し』がまだない」と気づくことでもあるわけですが、だからといって、そこですぐに「物差し」が見つかるということは起こりません。

もちろん、他の誰かが言ったことを「これが『自分にとっての物差し』なのだ」と信じ込むこともできますが、それはさきほども書いたように「一時の慰め」にしかなりません。遅かれ早かれ私たちは「本当に『この物差し』はあっているのだろうか?」と不安になり出します。

そして、その先に待っているのは、「他人の物差し」というもの全てに対する深い幻滅だけなのです。

 

よって、私たちは「確かなこと」がまったくわからないままに、歩み出さねばなりません。これはとても危険なことであり、安全性はまるで保証されません。その先には多くの失敗が待ち構えており、少なからぬ傷を負うこともあるでしょう。

しかし、それは良いことです。たとえば、自分がまったく安全であるときや、少しも間違いを犯す可能性がないときなどには、私たちは自分の「ありったけの力」を使って物事にぶつかるということをしません。あまりに安全なところにいると、私たちはついつい手間を省いたり、自分の力を出し惜しみするようになります。

それゆえ、危険のないところでは、人の生気が欠けていきます。人々は自分の命をごく一部分だけ使って生きるようになる。

 

このように、「安全」は緩やかに人を殺しますが、「危険」は人に「ありったけの力を使って生きること」を要請します。そして実際に、「危険」の中で人は自分でも驚くほどの力を発揮するものです。

しかし、それは別に「銃弾の飛び交う戦場に身を置くべきだ」というような話ではありません。「安全」ではなく「危険」を選ぶということは、言い換えれば、「既知」ではなく「未知」を選ぶということ、ありったけの勇気を集めてたった独りで闇の中へと入っていくということです。

もしも自分の信奉する指導者が「戦場に行って死んでこい」と言ったから、それで戦場に行くのだとするならば、それは私の言う意味での「勇敢な振る舞い」ではありません。それはむしろ、「勇気の不足」を表していると思います。

もちろん、「既知」を離れ、「未知」の中に入っていった結果として、たまたま、本当に戦場へ身を置くことになる人もいるかもしれません。しかし、それは人それぞれの巡り合わせです。よって、その人がどこにいるかは全く問題ではありません。慣れ親しんだ「既知」を捨てて、あえて「未知」の中へと入っていく勇気があるかどうかだけが重要なのです。

 

しかし、しばしば誤解されていることですが、「勇気がある」ということは「恐怖がない」ということではありません。

「未知」を選ぶとき、私たちは最初に大いなる恐怖と直面します。そして、「やっぱりこの道は間違っていたんだ。早く元居た場所に戻ったほうがいい」と頭の中で声が響き、腹の底から震えが湧き起こります。

こういった多くの抵抗にもかかわらず、恐怖に負けずに、あえてそこで引き返さないことによって、人は自分の勇気を育てるための最初の一歩を踏むことになるのです。

 

おそらくほとんどの人は、この過程を何度か行ったり戻ったりします。

「安全」な陸地からある程度まで離れたところで、突然、恐怖に自分を支配されてしまい、元の場所へと帰っていく。しかし、「安全なところ」にいくら留まっても、「ここには自分を真の意味で救うものは何一つない」ということがやがてはっきりしてきますから、どこかでまた「危険」な海へと独りきりで漕ぎ出していくことになります。

 

勇気を奮い起こして海へと出て行く。

それでも途中で恐怖に負けて戻っていく。

かといって、陸地にいても生きた心地がしない。

それで陸地に対してますます幻滅する。

だから、もう一度海に出る。

 

私自身もそうですが、このプロセスを何度か繰り返す人がきっと多いことと思います。

しかし、この「行ったり戻ったり」を繰り返す中で、私たちは次第に覚悟が決まってきます。なぜ覚悟が決まるかと言えば、「結局、自分を真に救いうるものは『安全なところ』には一つもない」ということに対してのはっきりとした確信が持てるようになるからです。

 

そして、この「『安全な陸地』で自分が救われることはありえない」という確信こそが、私たちの行く先を照らす「第一の道しるべ」となります。

私たちは「真理に至るための正しい道筋」がわかったから前に進むことができるのではありません。そうではなくて、「『真理への正しい道筋』というようなものを、この世の誰も自分に与えることはできない」ということを骨身に染みて実感するからこそ、私たちは前へと進んでいくことができるのです。

 

私たちは少しずつ少しずつ勇敢になります。

前に航海に出たときよりも、今度はもっと遠くまで行くことができる。それは、前に航海に出た時よりも、陸地に対してもっと深く幻滅しているからです。

それだから、恐怖に負けそうになったときに、「ここで引き返しても何の意味もない」と悟ることができます。「こんなところで引き返すものか」と踏ん張ることができる。

そのようにして、私たちは恐怖に負ける度に少しずつ強くなり、より遠くまで「探究の道」を延ばしていきます。

 

とはいえ、人によっては何度も「行ったり戻ったり」を繰り返したりせず、一気に進む人もいるのかもしれません。それについては私は知りません。私が知っているのは、私のケースについてだけですから。

ただ、私のようなタイプの人は案外多いのではないかと、個人的には思っています。

 

さて、「孤独な海」のただ中で、私たちは非常に味わい深い生を体験します。「安全な陸地」を離れ、「危険な海」を進めば進むほど、私たちの生はその彩りを増していくのです。

私たちは前まではまるで感じなかったようなことを感じるようになり、今まで気づかなかったようなことに気づくようになります。

自分の呼吸一つ一つが驚くような「奇跡」と感じられ、一回一回の食事が「聖なる儀式」と化します。

音楽を聴けば、一音一音が胸へと深く染み入り思わず涙がこぼれ、本を読んでいると、まるで懐かしい友人と魂の対話を交わしているような気持ちになってきます。

突然、生が溢れ出すのです。

 

「危険な海」のただ中で過ごす一日一日が、途方もない深みを持ち始めます。それまで色を失っていた全てが、唐突に色づき始める。

それで私たちはますます覚悟を決め、「危険な海」の向こうへと力強く進んでいくことができます。なぜなら、この「途方もない生」の体験それ自体が、「探究の報酬」として感じられてくるからです。

誰か他人に認めてもらう必要を、私たちは次第に感じなくなっていきます。というのも、「他人から認めてもらうこと」よりも、「自分自身の生がより深まっていくこと」のほうが自分にとっては大切だと、私たちが気づくようになるからです。

そこに至って、私たちは自分から進んで「安全」を捨て、「危険」を選ぶようになっていきます。「たとえ他人がどう言おうとも、私はこの『溢れんばかりの自分の生』を取るだろう」と、私たちは思うようになる。

 

したがって、このような「生の深み」が、私たちの行く先を照らす「第二の道しるべ」となります。

「第一の道しるべ」は「他人が言ったことに盲目的に従っていても、自分は自分を救うことができない」ということへの、強い確信でした。この確信によって私たちは勇気を奮い起こすことができるようになっていきます。

そして、勇気をもってさらに進んでいくことで、私たちは「これまでの自分の生は『偽り』だった」ということに気づきます。

たとえば、「今まで自分が美味しいと思って食べていたものは、他人が美味しいと言ったのを真似して食べていたに過ぎなかった。自分自身では本当に美味しいとは感じていなかったのに、そのことに気づいてさえいなかったのだ」ということが、不意にわかるのです。これまでの自分自身のあまりの無感覚に、私たちは驚愕します。

そして次第に、「他人の意見」ではなくて、「自分自身の感覚」を信じるようになっていくのです。

 

この「自分自身の感覚」が、私たちの行く先を照らす「第三の道しるべ」となります。

絶え間ない「生の深まり」のなかで、私たちは「他人の意見」と格闘することよりも、感覚を通して「自分の身体」や「物」と丁寧に係わることの方を大事にするようになっていきます。

私たちはいつもより少しだけ丁寧に歩くようになり、もっと呼吸を味わうようになります。また、いつもより少しだけ手間を掛けて料理をするようになり、風や水の流れを感じる時間を大切にするようになっていくのです。

 

「身体」と「物」というこの二つには、非常に多くの「教え」が書き込まれています。

それは「他人が語る意見」とはまったく違った仕方で、私たちを教え、導きます。

「他人の意見」に従うとき、私たちは「これで他人から守ってもらえる」と安心すると同時に、心の奥底では「こんなのはイヤだ」という不快感を抱きます。

しかし、「身体」と「物」が語る言葉に従うとき、そこにはたしかに「快の感覚」がある。私たちはたとえ「身体」や「物」の規則に従っても、別に「奴隷になった」とは感じません。そうではなくて、私たちは「宇宙と一つになった」と感じるのです。

 

ここまでが、今の私にわかることです。

この先に何が待つのかを、今の私は知りません。

そして、私の歩んだ足跡が誰かの役に少しでも立つものかどうか、これも私にはわからないことです。

 

ただ、もしも私と同じような暗闇の中にいる人がこの文章を読まれたならば、どうか私の言うことを鵜呑みにはせず、部分的に参考とするだけに留め、「ご自身の道」を信じて進まれることを願ってやみません。

 

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