「何もせず待つ」という選択肢について

今の時代の人々は、何事に対してもたいへん性急になっているように思います。何かが起こるのをじっと待っていたり、ゆったりと時間を過ごしたりする気持ちの余裕を持っていない人が多い。

私たちは何かしら「目に見える結果」が出ないと、苛立ち、焦り、何でもいいから何かをしないといられない気持ちになる。そして、何かが「自ずから起こる」という可能性は摘み取られ、何でもいいから何かを「起こす」ということへの神経症的な偏りが現れます。

 

「待っていたって何が起こるって言うのか?だいたい、そうしていつまでも待っていて、それで本当に『良い結果』になるという保証がいったいどこにあるのか?」と、きっと多くの人は言うことでしょう。

しかし、どうして「良い結果」でなければいけないのでしょう?

そもそも「良い結果」というのはいったいどういうもののことなのでしょうか?

私たちは、このいささか曖昧で手垢のついた「良い結果」という観念に、幾分振り回されすぎてはいないかと、私は思います

 

そこでまず、「良い結果」と人々が言うときに、そこに付着している思い込みについて考えてみたいです。

といっても、いきなりでは漠然としていますから、まず逆から始めてみましょう。つまり多くの人々が恐れ、忌避する「悪い結果」とは何か、ということです。

 

たとえば、人は言うでしょう。

「そうやっていつまでも待っていたりしたら、今に世の中の流れについていけなくなってしまうぞ」とか、「ちゃんと他の人たちのようにやるべきことを一生懸命やらないと、この社会では生きていけなくなってしまうよ」とかとか、人々はこんな風にして「そのままじっと待っていたりなんかしたら、今に『悪い結果』を招くことになるぞ」と語ります。

ということは、そう語る人々にとっては「世の中についていけなくなってしまうこと」や、「社会の中で生きていけなくなってしまうこと」は「悪いこと」なのです。

でも、本当にそうでしょうか?

 

「世の中の流れについていけなくなってしまうこと」が「悪いこと」であるならば、反対の「世の中の流れについていくこと」は「良いこと」ということになります。

当たり前ですが、自分から進んで「悪い」と思うことをする人間はいません。人は、自分にとって「良い」と思うことしかしない存在です。

たとえば、人を殺す場合でも、少なくとも当人にとっては、ある人間を殺すことが「良いこと」だと感じられるからそうするのです。それによって自分が死刑になる可能性があるとしても、それでも、殺す本人が「殺人は自分にとって必要なこと、優先すべきことだ」と感じているとするならば、そのときその人は殺人を「良いこと」と思って行うのです。「社会的に殺人が『悪』である」というのは、まったくの偶然に過ぎませんから(だって、戦争中は殺人が大いに社会的に奨励されるのですから)、「殺人は『悪いこと』だ」といくら言ったところで、「殺人は『良いこと』だ」と思っている人を変えることはできません。他人にできることは、せいぜい死刑という「ペナルティ」を殺人者の目の前にぶら下げて、それによって脅すことぐらいです。

それでもし相手が殺人を思いとどまるとしても、それは本人が「殺すことが『悪いこと』だ」と自分自身で気づいたからではありません。そうではなくて、「殺すことは社会的には『悪いこと』ということになっていて、もしこのルールを守らないと自分のほうが殺されるかもしれない。だったら、自分はまだまだ死にたくないし、誰かを殺すのも諦めるしかないか」という風に、取引的に妥協して、表面的な振る舞いを変えただけです。服を着替えただけで、中身の人間はそのままです。

そして、もし相変わらずその人が、殺人を自分にとって「良いこと」と思いながら、ただ外から与えられるペナルティを恐れるがために、自分にとって「悪いこと」と思われる「不殺」の振る舞いを無理して続けているとするならば、いつかは「死刑になったって構うものか!自分はもう殺人を我慢しない!」と叫ぶときがくるでしょう。

 

他人に変えることができるのは、「表面的な振る舞い」だけです。しかしそれも、外側から脅したり褒めそやしたりすることで振る舞い方をコロコロ変えるような人にしか通用しません。

たとえ周りから脅されても褒められても、自分が「良い」と思ったことについて忠実であろうとする人に関しては、「表面的な振る舞い」を変えさせることさえ他人にはできない場合があります。

 

このように、人は「良い」と思ったことを為し、「悪い」と思うことは為さない存在です。

ですので、「これこそが絶対的に『良いこと』なのだからそれを為せ」と他人がいくら言っても、「本当にそうだろうか?」と思っている人は、せいぜいが「表面的な振る舞い」を変えるだけで、内側ではまるで納得していません。そして、自分自身で納得していないことについては、私たちは「自発的に求める」ということができないということになっています。それゆえ、「表面的な振る舞いを変える」というのは、自分自身で望んでもいないことを無理して行うということにならざるを得ないのです。

しかし、そんな風に自分で望んでもいないことを頑張って続けることは、個人個人の「自分らしく生きたい」という根源的な欲求に反しているので、いつかは無理が来ます。

 

「本当に、世の中の流れについていかないといけないのだろうか?」

「この社会の中で生きていけなくなってしまうことの、どこがそんなに『悪い』のだろうか?」

「生きていることは自分にとってすごく苦しいことなのに、どうして生きることが『良いこと』だって周りの人は言うのだろうか?」

 

こうした問いへの答えを与えることもせず、かといって、その問いについてじっくり自問するための時間も与えず、「表面的な振る舞い方」だけ強制的に変えようとする人々で、私たちの社会は溢れかえっています。結果として、「自分らしく生きたい」という欲求を挫かれ、「他人が求める通りに変わるよう無理強いされたこと」に対する怒りや欲求不満が心の内側に鬱積している人間を、私たちは日々新たに作り出しています。

 

私たちの時代において、「自分自身で感じ、自分自身で考えること」はずいぶんその価値を貶められてしまいました。「自分探し」という、これまたずいぶんと手垢のついてしまった言葉が、世間的に評判がよろしくないのも、関係しているでしょう。

「そんなことをして何になる。人は何かを為すことによって、何者かになるのだ。何もしないで考えていたって、そこから何かが見つかることなんてありえない」と、「自分探し」を揶揄する人々は言います。「『自分』なんてものはどこにも実在しはしない。そんな空疎なものを探す暇があったら今すぐさっさと何かをしろ」というわけです。

 

ですが、そう主張する人たちは、「自分たちの一番重要視しているメッセージ」が何であるかに気づいていません。彼らは、「『自分探し』なんて無意味だ」ということを一番伝えたいのではなく、「いいからさっさと何かをしろ」ということを命令したいのです。まるで効率よく動く生産的な機械か、社会にとって有用な調教動物を欲しているかのように、人々は命令したいのです。

 

このことに、たとえば感受性が豊かな子どもは気づきます。周りの大人達が、子どもである自分に対して「何を一番求めているか」を敏感に察知するのです。

そして、自分がこれからも大人達から保護してもらえるように、「表面的な振る舞い」を変えて、大人の側の「本当の期待」に応えようとします。

つまり、とにかく何でもいいからどんどんどんどん自分に課し、休むことなく頑張り続け、「自分はあなたたちの言う通りにしています。だから、どうか私を守ってください」と大人に向かって懇願するのです。

 

人間ほど無力な状態で生まれてくる生物は、地球上に他にいません。他の動物だったら、生まれて一年か二年もすれば、親から独立して一人前になることも多いのに、人間の子どもは十歳を過ぎても、親による保護と養育とを大いに必要とします。それは人間が「それだけ多くの変化と成長の可能性をもっている」ということとも結びついているのですが、しかし、それほど無力であるがゆえに、大人からの保護を取り下げられることは彼ら子どもの側にとって大きな恐怖ともなりうるのです。

そのため、「生きようとする意志」を根底に持ち、大人達が自分に向ける欲望を敏感に察知する鋭い感受性を持った子どもほど、「大人の言うことを何でも聞く『いい子』」を演じるようになります。

それがどれほど子ども達の自主性と生命力の発露とを傷つけ損なうことであるのか、私たち大人はあまりに無自覚です。

 

私たちは、周りの人たちが笑っていたら笑うように強いられ、周りの人たちが泣いていたら同じように泣くことを強いられて育ちます。

私たちはいつも「自分自身であること」を許してはもらえませんでした。その結果として、子どもから大人になる過程で、どうしても一回「自分」を失うことになりがちです。

しかし、「自分自身であること」に対する強い欲求を内に持っている人々は、どこかで「ちょっと待ってくれ」と言います。「あなたたちは、実にいろんなことを押しつけたがるけれど、それらは自分にはまだ納得できていないことなのだ」と声を上げます。実際に声を上げるだけの生命力がまだ残っていればそうするでしょうが、もし声を上げるだけの生命力さえも残らず損なわれていたら、「外界から引き籠もる」という形で無言でそれを表現するでしょう。

 

よって、今の多くの若い人たちが社会に出ずに引き籠もる様子は、私の目には、「あれこれ考えないで、とにかく何かをするのが『良いこと』だ」という世間に流布している価値観に対して、身体を張って疑義を呈しているように見えます。

「ちょっと待って欲しい。自分で考える時間が欲しいから」と彼らは言っているのではないでしょうか?

 

さっきも書きましたが、人は他人を変えることはできません。外側から変えられるのは「表面的な振る舞い」だけです。

人が真に変わるのは、「自分自身で理解したとき」です。「そうか、これは『良いこと』で、これは『悪いこと』だ」と自分自身で理解したとき、人は他人から強制されるまでもなく、自分の振る舞いを自発的に変えます。あるいは、他人から強制されても、自分の振る舞いをそう易々とは変えなくなります。

社会から引き籠もる人々が「自分で考える時間が欲しい」と言っているのだとするならば、それは言い換えるとこういうことです。

「自分は自分自身を、本当の意味で変えたいのだ」と彼らは言っているのです。

 

世間の多くの人々は、彼らのことを「成長することを放棄している」となじるでしょうけれど、私の目にはその反対に映ります。彼らは「本当の成熟」のために考える機会を求めているのだと思います。

「引き籠もっていること」そのものに対する批難の眼差しに晒される中で、自責の念を振り払おうとしてかえって引き籠もり状態が長期化し、事態が複雑にこじれてしまった人もいるかもしれませんけれど、「最初の動機」は違ったはずです。

 

私たちの社会は「自分で感じ、自分で考える」ということの価値を、これまでずいぶん貶めてきました。

その見直しをするべき時期に、私たちは直面しているように思えてなりません。

 

 

追記(2017年7月16日)

この記事を書いた時点で、私は「良い」と「善い」とを混同して使ってしまっており、途中で「良い」から「善い」の意味に私はすり替えて書いてしまっています。後から気づいて書き直そうと考えたのですが、この意味のすり替えが私の中で無自覚に行われてしまっていたために、文章の流れ全体を書き直さないと訂正が難しいということがわかりました。

ですので、ここはあえて文章は書き直さずにそのまま残しておくことにし、いったいどこで私が「良い」を「善い」にすり替えているかについて読者一人一人にご自身で判断していただくほうが、かえって誤解が少なかろうという結論に達しました。

私の理解不足のためご面倒をおかけしますが、気になる方はそのあたりも考えながら、もう一度お読み頂けると幸いです。

ちなみに、「良い」は質が優れている場合に使われ、「善い」は行為が優れている場合に使われる言葉とされています。

 

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