All You Need Is Love

私たちのこの性急さ、「何が何でも結果をコントロールしたい」という強い欲望は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか?

私たちは何一つとして「ありのまま」でほっておくということをしません。そんなことをしたら「ろくな結果にはならない」と思って、あれこれ手を加えずにはいられないのです。

 

そもそも私たちは誰しも、「自分の望み」を叶えようとして行動するものです。

と、いきなりこう言うと、「いやいや、この世には他人のために行動するような『愛他的な精神』の持ち主だっているだろう」と反論する人もいるかもしれません。しかし、「他人のための行動」という表向きの「見かけ」が、実際のところ本人のどんな欲望の表現であるのかについては、個別に見ていく必要があると思います。

つまり、表面的な「他人のための行動」が、実際には「自分の隠された欲望」を充足することを目指して為されたものであるかもしれないということについては、ちゃんと吟味したほうがいいのではないかということです。

 

私はここで、私が大嫌いなある表現を思い出します。

それは「あなたのために良かれと思って」というものです。

人々は実にこの表現を好んで使います。「お前のためを思って忠告しているんだぞ」とか、「あなたには幸せになって欲しいと思って、言ってるのよ」とかとか、特に親や教師や上司や先輩といった立場にある人々は、この表現を使うことが多いように見えます。

でも、そのように言うとき、彼らはいったい何を目指しているのでしょうか?

言葉の通り受け取るならば、「あなたには幸せになって欲しい」ということが目的になっていると思われますが、なんで幸せになって「欲しい」のでしょうか?

それではまるで、こちらが幸せになってくれないと、その人たちが困ってしまうかのようです。

そして、実際に彼らはそう思っているのです。私たちがこういった「あなたのために良かれ」を少しでも退けようとすると、彼らのような人々は一様に不機嫌になります。あるいは、困ったような顔をする。

「なんでお前のことを想っている自分のこの深い愛情が、お前にはそうもわからないんだ!」と言って憤慨するか、「そんな風に頑なになって私を困らせないでおくれよ…」と言って泣きつくか、どちらかの反応をするのです。

 

まずここで確認しておきたいのですが、「愛」というものは、もしそれが「本物」であれば決して見返りは求めないものです。

もしも誰かが「自分はこんなにお前を愛しているのに、なんでお前にはその気持ちがわらないんだ!」と言って難詰するとしたならば、その人は相手を愛しているからそう言うのではなく、「お前にはこちらの気持ちを理解しようと努力する義務がある」と思うからそう言うのです。この要求は、親の無理解に苦しんで「どうしてわかってくれないの!」と泣きじゃくる子ども達とほとんど同じレベルですので、これを「成熟した愛情表現」と呼ぶわけにはいきません。

 

また「愛」は、「相手が幸せになること」を願います。もっと言えば、「愛」は「相手がその人らしく在ること」を尊ぶのです。

ですが、ほとんど誰も、人を「その人らしいまま」にしておこうとはしません。決してほっておかないで、無理やり引っ張ってきては自分の思うように変えようとする。

それでも相手が変わろうとしないとなると、いよいよ「困って」しまう。しかし、もしその「変化の促し」が真実の「愛」によるものなら、「困る」のは変です。なぜなら、もし相手がなにかしらの「変化」を自ら拒むことによって自分の幸せを遠ざけ、かえって深い苦しみの内にあるとするならば、そのまま変わらないでいることによって本当に「困る」のは、「変わった方がいいよ」と言っている側の人間ではなく、むしろ「何があっても変わるもんか」と言っている側の人間のはずです。だとしたら、「変わること」を拒むことで幸せを自ら破壊している人に対して、真実の「愛」を持つ人は、「困る」のではなく「悲しむ」はずではないでしょうか?

相手の苦しみに共感し、その苦しみをよく理解するがゆえに自分自身も悲しみを覚え、むしろ「変われ」とは言わずに、「本当に辛かったね、よく頑張ったね」とまずは相手の苦しみを心から認めることを優先するように、私には思われます。

 

「あなたが変わってくれないと、私は困ってしまうんだ」と告げる人々は、それなら何を言いたいのでしょう?

私が思うに、彼らは「あなた」が変わらないでいることによって迷惑をこうむる可能性があるので、「それを止めよ」と要求しているのです。たとえば、これが親だったら、「あなたがいつまでもそんなままじゃ、こっちだって安心して死んでいけないじゃないか」と子ども達に言うことがあります。

でも、なんで親を安心させるために生きねばならないというのでしょうか?

親を安心させることを生きる上での最優先事項にしたら、そのとき人は「幸せ」を感じると、「ありのままの自分自身でいられる」とでもいうのでしょうか?

それはあまりに馬鹿げています。なぜなら、どんな状況においても親を安心させることを優先して生きたりなんかしたら、「自分自身で在る」ということはほとんど不可能になるからです。

そして、「自分自身で在ること」を諦めて、「他人の顔色ばかりうかがって生きる生」がどれほど息苦しいものであるかを少しでも知っていたら、「こちらの要望に応え続けることこそが、お前にとっての幸せなのだ」というような没論理的なことは、決して言えないでしょう。

 

このように、人々は「自分の内側に隠された欲望」を相手に押しつけるための戦略的な道具として、「お前のためを思って」という言葉を頻用します。

その「隠された欲望」とは、「相手に自分のことをわかって欲しい」「相手が自分の思い通りになって欲しい」といったものです。そしてそれは、彼らの中で「何か」がまだ満たされていないことを示しています。

なぜなら、本当に自己に深く満ち足りた人間は、相手に「自分のことを理解して欲しい」と要求するより先に、自発的にまず相手をより深く理解したいと望むはずですし、また、相手を「自分の思い通りにする」のではなく、相手がもっと「自分自身である(わがまま=我のままである)」ことができるように、「あなたは『~しなければならない』という他者から押しつけられた命令で内側がいっぱいになっている」ということを自得することができるようサポートするのを、優先するはずだからです。

 

そうできないのは、その人自身がちゃんと自分を「愛」せていないからです。

自分の苦しみをどうしても受け容れられないと、人はやがて「自分自身を受け容れること」は諦めて、「他人から受け容れて貰うこと」のほうを望むものです。それが「わかってよ!」という叫びです。その叫びは、当人の深い苦しみを示しており、本当の意味で「愛された」経験の欠如からくる、「自己愛」の機能不全を表しています。「私は自分を受け容れられない。私は自分が大嫌いだ!」と彼らは叫んでいるのです。

そして、もし自分で自分を「愛」することが十分にできていないなら、そんな人にどうして他人を「愛」することができるでしょう?

「自己愛」が破綻してしまっている人は、「与えること」よりも「受け取ること」をどうしても優先することになります。他にしようがないのです。なぜなら、彼らは「自分はまだ受け取るべきだった物を受け取っていない」と思っているからです。

「与えること」よりも「受け取ること」を優先する人に、真実の「愛」の表現は不可能です。それはどうしても、「私はこんなにあなたを『愛』しています(だから、どうか私に『愛』をください)」という仕方で表現されるしかありません。そして、そのような「見返りを求めた愛」は偽りであるしかなく、そのような「偽りの愛」ゆえに行われる「良かれと思って」は、全て「偽善」とならざるを得ません。

 

つまり、私が言いたいことはこうです。

私たちの中の「性急さ」、「何でもかんでもコントロールしようとする傾向」は、私たちが「嘘偽りのない愛」を失ってしまった結果である、ということです。

私たちは自分で自分を「愛」することができないがゆえに、「相手に与えよう」とするのではなく、むしろ「相手から奪おう」とします。そして、その「さもしさ」を隠蔽するために「あなたを『愛』してそうするのだ」と口では言います。

しかし、そう言われた相手は困惑します。なぜなら、言われた相手は「この人は、実際には自分の欲望を押しつけようとしているのに、口では全く逆のことを言っている」ということに、無意識レベルで気づくからです。

そして、もしそのように周りから言われ続けて大人になった人がいたら、彼/彼女はきっと「『愛』というのは、他人を自分の都合が良いように振り回すための有用な武器だ」と考えるようにきっとなります。なぜなら、周りの大人の誰も、それ以外の仕方で「愛」という言葉を表現しなかったからです。

 

人は「自分を愛すること」がうまくできないがゆえに、他人に何かを与える前に、反対により多くを奪おうとし、そのような自分の「卑しさ」をはっきり見つめる勇気が持てないがゆえに、「偽りの愛」を表現します。そして、そのような「偽りの愛」に囲まれて育った子どもがやがて大人になり、「偽りの愛」をもって次代の子ども達を傷つけるのです。

これを「愛の不足」と言わずして、いったいなんと言いましょう?

 

私たちは「愛する」ということの本質をすっかり見失いました。それでいながら、「愛」という観念を利用して他人を束縛する技術にだけはたいへん習熟した。

「そういうのはもう止めにしませんか?」というのが、私からのささやかな提案です(もちろん、無理強いはしませんが)。

 

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