「愛」へと至る道

私は前回の記事で、「私たちは『見返りを求めない真実の愛』を見失ってしまったのではないか」と書きました。「愛」という言葉を使いながら、人々がいかに自分の「隠れた欲望」を実現しようとしているかということについても、記事の中でいくらかその実態を提示できたのではないかと思います。

 

そこで今回は、さらに一歩進んで考えてみたいと思います。

つまり、「『愛』を見失ってしまった人は、どのようにして『愛する主体』となることができるのか」という「『愛』へと至る道筋」を素描してみようと思うのです。

自分がこれまで「愛」だと思っていたものが、実は単なる「欲望」に過ぎなかったのではないかという疑いをもたれている方、また、どうしても自分自身を好きになることができなくて苦しんでいるという方などには、何かしらのヒントをお示しできるかと思います。

 

ではまず、非常に多くの手垢にまみれて誤用されている「愛」というこの言葉について、もう一度その意味を確認しておきたいと思います。

「愛」はもしそれが嘘偽りのない真実のものであれば、決して相手に見返りを求めないものです。もしも、「相手に何かをしてもらえるから、それで『愛』する」というならば、それは「愛」という言葉でデコレーションされた「単なる取引」に過ぎません。たとえば、毎日自分の代わりに家事をしてもらいたいから「愛しているよ」と言う人も、自分の代わりにお金を稼いできて欲しいから「愛しているわ」と告げる人も、どちらも「政治的なゲーム」をしており、欺瞞を演じています。

また、「愛」はもしそれが本物であるならば、「愛」を表現する人は、相手をこちらの望む通りに無理に変えようとしたりせず、むしろ「相手の独自性」を尊びます。つまり、相手がこちらの思った通りになることよりも、その人が「ありのままの自分」にくつろいでいる姿を見ることに深い喜びと満足とを覚えるのです。

 

また、「愛」を表現する人は、「結果として自然に起こってくる変化(望ましいものも望ましくないものも)」をそのまま受け容れる覚悟も持っています。

「自分の望んでいる何かを起こすこと」よりも、「くつろぎの中から自然と起こってくる何か」を尊重するということは、言い換えれば「未来に向かって自分を開いておく」ということであり、それには「勇気」が必要になります。なぜなら、いったい何が「起こる」のか、実際にそれが「起こる」まではまったく予測ができないからです。

そういう意味で、「愛」と「勇気」とは、お互いに関連しあった徳であるように私は思います。

 

さて、それなら、どうしたら私たちはそのような「愛」という徳を生きることができるようになるのでしょうか?

まず、「見返りを求めない」という結果が「自然と起こる」条件を考えてみましょう。

「見返りを求めない」ということは、言い換えれば「これ以上、自分は受け取る必要を感じていない」ということでもあります。たとえ表面的には「愛情豊かな振る舞い」をしているように見えても、もし本人が「まだ足りない」と心の底では思っていたら、「愛情豊かな振る舞い」を人前でおおげさに演じて見せることで、他人からの尊敬を集めて自分の「欠けた心」を埋め合わせようとするはずです。「本当はまだ足りていない」という前提から出発する以上、本人には他にしようがないです。

また、本当は「まだ欲しい」と思っているのに、「相手からもっと気に入られたい、できれば嫌われたくはない」という想いから、私たちは「もう十分です」という言葉をしばしば口にします。つまり、実際には「まだ足りない」のに、自己保身から嘘をつくのです。

これが、「自分を守る『丈夫な鎧』を買い取るために、私は嘘をついている」と自覚できているうちはまだいいのですが、あまりにも嘘が重なると、いつの間にか感覚が麻痺してしまって、「自分は本当に満足してそう言っているのだ」と本人は思い込み始めます。

 

こうなると、遠からず問題が発生します。原因不明の欲求不満に、その人は悩まされることになるのです。

楽しいと思うことをしても何だか気持ちが晴れない。

他人からいろいろしてもらっても、何となく「物足りない気分」になる。

そして、「おかしいな、自分はこんなに楽しいことをしているのに、これほどまでに恵まれた環境にいるはずなのに、どうして生きていることがこんなにもつまらなく感じるのだろう」と、その人は思い始めます。

「つまらない」のは当然で、その人は、「他人から尊敬を集めること」や、「仲間内で認められ大事に保護して貰うこと」の方を優先しており、「自分自身をちゃんと満足させること」を無意識に後回しにしてしまっているからです。

だったら、自分をきちんと満足させてあげたらいいわけですが、いったい何をしたら自分が満足するのかが、当人にはもうわらなくなってしまっているので事態は複雑になります。自分の表層に積み重なった「嘘」という膜が、自分の深層を見通すことを困難にしてしまうのです。

 

そのようなとき、多くの人は自分の内側の深いところに確かに残存している「自分が本当に心からしたいこと」がもはや見えなくなってしまっているので、「それ」を外側の世界に探しに行きます。たとえば、やたらめったら仕事や勉強に精を出してみたりですとか、「二週間であなたの世界が劇的に変わる魔法のレッスン(←いま適当に名前を考えました)」といったようなチープな本を買ってきて、インスタントに誰にでも効く解決法を「摂取」しようとしたりですとか、とにかく、外側にばかり意識を向けていきます。

ですが、それによってその人はますます欲求不満に陥ります。「自分の本当に求めているもの」がそこにはないと、心のたいへん深いところで、漠然とですが感じるからです。

そして、欲求不満を解消しようと「外側のもの」をいくつか試していくうちに、だんだん失望を覚えるようにもなっていきます。なぜなら、何をやっても自分の「満たされ無さ」が全く消えてくれないため、「この世に生きるというのは『そういうものだ』。結局は、それに少しずつ慣れていくしかないんだ」という風に、その人の中で悲観主義的な考え方が次第次第に強まっていくからです。

 

おそらく、このような欲求不満と失望感とに苛まれながら、「こんな想いをしてまで、どうして自分は生きているのだろう?」という問いを必死に腹の底に呑み込んで、他人に心配を掛けないように、「死にたい想い」を隠しながら日々をどうかこうかやり過ごしている人たちが、今の世の中にはたくさんいると思います。

そういう人たちに、私は声を大にして言いたい。そこは決して「終点」でも「行き止まり」でもないのだ、と。

その先のプロセスが、ちゃんとあるのです。

 

「生の無意味さ」に苦しむ人は、どこかで外側に向かうことをもはや止め、自分の内側へと方向転換する必要があります。そうでなければ、おそらくその人は「自殺」という可能性を選ばないで、人生を生き抜くことができません。

では、「内側に向かう」とは具体的にはいったいどうすることなのでしょうか?

 

「内側に向かう」とは、「自分は常に何かをしなければならない」という現代人のほぼ全員にあまねく広がっている思い込みを、一つずつ丁寧に解除していくことだ、と表現できると思います。

内側に向かい始めた最初の頃、それは「ひとまず外側に何かを求めることを止める」という消極的な仕方を取ります。積極的に「何かをする」というのではなく、消極的に「一つずつ止めていく」というステップを最初に踏みます。

 

しかし、人によっては、ここで非常に「勇気」が必要になる場合があります。

たとえば、「消極的に一つずつ止めていく」という過程において、仕事を辞めることになる人もいるでしょうし、趣味の集まりに行かなくなるという人もいるでしょう。それまで毎日きちんとこなしていた家事をいったん止めてみるという人も中にはいるかもしれません。

そして、その結果として友人が減ってしまったり、自分が所属している場所から排除されてしまったりするのではないかと感じると、人は怖くて「止めること」に踏み切れなくなってしまう場合があるのです。

 

また、こういった「とにかくいったん止めてみる」という選択は、今のような効率重視の社会において、「あまりよろしくないこと」という風に見られがちです。周りからもそう見られるし、自分自身でもそう思うので、「止め始めた頃」はとかく自責の念にかられやすくなります。

そのため、「これで本当に正しいのだろうか?」という疑問が本人の中でひっきりなしに浮かんできて、その疑問の雲を打ち払うために、手当たり次第に身近なものに熱中して、依存症に近いような状態になってしまう場合も多いと思います。これはまだ「止めること」を自分に十分許せていない時期に発生しやすい問題です。

また、自分が稼いでくることで養わねばならない家族がいたりですとか、「家事を止めたら子ども達のご飯を食べさせる人がいなくなってしまう」というような場合ですとか、様々な現実的な事情から「そう簡単に止めるわけにはいかない」という人たちもいることでしょう。こうなると、内側に欲求不満を抱えながら、自分に課された「義務」を放棄することもできず、一日一日を苦しみながら生きていかねばなりません。

 

こうして、その人は「止める」ということに自分の全部を預けることができなくなってしまう可能性があります。「止めること」を始めてはみたけれど、休職中の職場の上司や、自分を養ってくれている家族の視線が非難がましく感じられる場合には、そこから被害妄想や自己嫌悪が強まっていき、「止めること」にきちんと集中することができなくなります。そういう場合、「自分は止めていていいのだ、それが今なによりも必要なことなのだ」と本人が確信できるよう、できたら周りの人たちは気を使ってあげて欲しいと思います。

また、養うべき家族がいたりですとか、どうしても自分が休むわけにはいかないというような場合には、まず環境調整が必要になります。このような場合も、本人が安心して「止めること」を続けていられるように、周りの人たちにはぜひ力を貸してあげて欲しいです。

 

しかし、まだまだ社会全体に「そんなことをしていったい何になるの?」という疑問が木霊となって充満しているように私は感じます。

「止めること」を「非生産的なこと」と見なし、人々はこう言うのです。「もしあなたが『止めること』を試みてみるというならば、それなりの『成果』は出してもらわないと困るよ」と。それで、まるで社会全体から「いつまでもそんなことしていて、いつか世の中の役に立つような人間になれる保証でもあるの?」と問い詰められてでもいるかのように、「止めている人」は感じてしまいやすい。

もはや私たちの住んでいるこの社会は、「止めること」にさえも「効率」を求めるようになってしまっているのです。

 

ですが、皮肉なことに、「最も効率的な止め方」は、効率や生産性を重視することを全く止めた時にのみ達成されます。というのも、「何かのために止める」というような効率重視の考えを離れ、「何もしないでいる」という状態にゆったりくつろぐことができるようになるにしたがって、その人は自然と変わり始めるからです。

そこでいったいどのような変化が起こるかを、私には一般化することができません。ただ、その人は、必ずや何かをし始めます。それは決して「しなければならない」と思うからでもなく、「これをするように」と他人から言われたからでもありません。その人はただ、自発的に何かに取り組み始めるのです。

たとえば、何か身体を動かすことをするようになる人もいるでしょうし、絵を描いたり、今まで行ったことのないところへ旅に出たりするようになる人もいるかもしれません。

いずれにせよ、そこにささやかながらも確かな喜びと安らぎを感じるが故に、その人はそれを自分から求めてするようになるのです。

 

ここに至ったとき、その人は「自分自身を愛すること」へ向けて自分がいつの間にかずいぶん前進していることに気づきます。以前はあれほど自分のことが嫌いで仕方なくて、どんなに頑張っても好きにはなれなかったというのに、今や何の努力もなく、「それはもう達成されている」と不意にその人は感じるのです。

そして、次第に彼/彼女は「自分が自然としたくなる何か」へと、深く集中するようになっていきます。「没頭する」と言ってもいいでしょう。「どうやって上手く成果を出そうか」とか「どんな風にやったらもっと高く評価してもらえるだろうか」とかいったことを全く考えることなく、ただ深く集中すればするほど自分の喜びが大きくなるということへの確信ゆえに、その人は全身全霊でそれをするようになるのです。

そのとき人は、「見返りを求めない行為」の次元へと足を踏み入れることになります。もはや「成果」はどうでもよくなるのです。ただ無心になってそれをすることの中で生まれる喜びと達成感が、いったいどれほど大きくなるかにしか関心を抱かなくなります。そして、他人の意見に左右されて自分のやることを曲げるよりは、自分自身に忠実であろうとするようになっていくのです。

 

たとえ、他人から馬鹿にされても構わない。

理解されなくても別にいい。

笑いたいヤツは笑え!

 

決して強がりではなく、自然とそのように感じ始めます。今や本人にとって一番大事なことは、「それをすることによって何を他人が与えてくれるか」ではなく、「それをすることによって自分はどこまで深く潜っていけるか」ということなのです。それゆえ、他人が評価しようがしまいが、それはどうでもいいこととなってしまうのです。

 

私の見るところ、人はこのようにして一つの「闇」を乗り越えていきます。

そして、「光」に達したとき、その人は「自分の人生」を、これまでとは全く違った仕方で眺めるようになるのです。

 

また、ここに至ってようやく「嘘偽りのない真実の愛」を表現することができるようになっていきます。

見返りを求めることなく、相手を変えようとするのでもなく、ただ自分の喜びの中から生み出される「ささやかな贈り物」を誰かに与えることができるようになるのです。

そのとき、その人はもう知っています。「見返りを求めずにいられなかったのは、自分が満たされていなかったからだ」ということを。また、「人は、他人から変わるように要求されることによってではなく、自発性が育っていくにしたがって自然と変わるべくして変わっていくものだ」ということも、既によく知っているのです。

それゆえ、彼/彼女にとって、見返りを求める必要はもうなくなっています。自分の内側には既に暖かな「火」が燃えさかっており、自分の寒さをしのぐための「火」をどこか外から奪ってくる必要を、本人はもう感じなくなっている。

また、相手を何とかして変えようとするあらゆる試みが、どれほどその人の「独自性」を傷つける暴力的な行為であるかということも、既に自分自身で知っています。どうしてそれを知っている人が、他人に無理やり「変われ」と要求したりするでしょうか?

 

以上が、私の観察した、「人間が真実の『愛』へと向かって成熟していくプロセス」です。

もしもこのプロセスの途中のどこかで、「これで本当に自分はこの『闇』を抜けられるのだろうか?」と不安になっている方がおられたら、ぜひ安心して進んでいっていただきたいと思います。

その先には必ずや、「今まで見たこともなかった景色」が広がっていると私は信じています。

 

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