苦闘する価値

「自分自身を受け容れる」とは、いったいどうすることなのでしょうか?

「そりゃあ、自分の良いところも悪いところも含めて、『これでいいんだ』って肯定してあげることだよ」という答えが返ってきそうですけれど、本当にそういうことでよろしいでしょうか?

どうも私にはそうとばかりも思えないところがあります。今回はそのことについて書いてみます。

 

今の世の中には「『ありのままの自分』を受け容れて、もっと楽になりましょう」といった類いの言説が多く見られるように私は感じています。

でも、「楽」になって、それでいったいどうするのでしょう?

「楽」になったって、やっぱり誰しもまた生きていくことになるわけですが、そもそも「生きること」をもっと「楽」にしたいという、「楽」を求めずにいられない私たちのこの心的傾向の内にこそ、「真の問題の根」は潜んでいないでしょうか?

なぜなら、もし「楽」であるほうがより良いということになったならば、人によっては「これ以上生きないほうがもっと『楽』だ」ということにもなりかねないからです。

 

人は困難に直面して苦悩し、そこで自分なりに闘い抜くことを通して成長していくものです。もちろん、私たちは負けることもあります。でも、自分の苦悩から目を逸らさず、精一杯闘い抜くことができれば、私たちは自分の苦しみから多くのことを学び、大きく成長することができます。

もしも全ての苦悩や困難が私たちから取り上げられてしまったら、私たちはきっと成長の可能性もなくしてしまうことでしょう。そのとき私たちは、「たとえ負けようとも、最後まで精一杯闘い抜く」という態度を取ることが、もはやできなくなってしまう。

たしかに結果として「楽」にはなるでしょう。でも、「楽」になってしまったことで失われるものも、思いのほか大きいのではないでしょうか?

 

今の日本の子ども達は、親にたいへん大事にされて育っているように私は思います。

多くの親たちは、自分の子どもが苦しまなくて済むように、いつも先回りして障害を取り除こうとします。もちろんそれは「できれば我が子には苦しんで欲しくない」という全くの「善意」で行われていることですが、「転ぶと危ないから」と言って整地された場所しか歩かせてもらえず、「靴に石ころが入るといけない」と言って行く先の小石まで全て除去して回っているかのような極端な親もいます。しかし、そこまでしてしまったら、その子はどうやって「小石を除去されていない道」を歩く術に習熟したら良いのでしょう?

 

人は勇気を出して自分自身で挑戦し、その結果起こった失敗を我が身に引き受けることによってこそ、大いに学び、成長するものです。

それゆえ、あらゆる「危険」を先回りして取り上げられてしまっている子ども達は、学びと成長の機会をも取り上げられているような状況にあるように、私には見えます。

もちろん、そのような状況でも、学校のテストで良い成績を取るようにはなれるかもしれません。そして、もしもテストの点が当人の「学びの深さ」と「成長の程度」を示す指標であるとするならば、こんなにわかりやすい話はないわけですが、そうとも言い切れないからこそ、私たちは「テストの点にひたすら執着すること」から少し距離をおいて物事を考えたくなるときがあるのです。

 

そもそも、基本的に学校のテストで良い成績を取るためには、教師の言ったことを鵜呑みにして、「覚えろ」と言われたことを効率よく覚えることを優先しなければなりません。そして、学びにまで「効率」が求められるようになると、子ども達には「自分で自分の失敗をする暇」がなくなってしまいます。

たとえば、「1+1=2」を、「そのように書け」と言われて無批判にそう書いていれば、たしかにテストの点は取れますが、それによって「そもそもなぜ人間は数字というものを『発明』することになったのだろう?」といったような根源的な問いが、自動的にスキップされてしまうことになります。

反対に、他人から言われたことを鵜呑みにせず、自分であれこれ調べてみたり、「あーでもないこーでもない」と寝ても覚めても考えていると、「テストの点を取る」という意味では、たいへん非効率的なことになってしまう。挙げ句の果てには、「そんなめんどうなことを考えている暇があったら、単語の一つでも覚えなさい!」なんて叱られてしまうかもしれません。

 

でも、「自分なりに悩んで試行錯誤する」ということをせず、効率よく、安全確実に外からの評価だけ得るという「楽」な道が、むしろ多くの人を不幸にしているのではないかと私は思います。

そう、多くの親たちが「我が子に苦労して欲しくない」と言うときに彼らが見落としているのは、まさにこの点なのです。それは、「楽」で「安全」であるということそのものは、「幸せ」とはあまり関連がないということです。

他人が障害物をどけておいてくれた「楽」で「安全」な道を歩むことによって、その人は「長生き」はするかもしれないですけれど、「幸せ」になるとは限りません。「長く生きること」そのものを無批判に価値があるように思って、「長生きができる環境」だけをいくら整えてみたところで、「そもそも生きているのが苦しい」と感じている人などからしたら、「外から善意で押しつけられる長生き」なんて一種の拷問みたいなものです。

「あなたにはできるだけ長く生きていて欲しいの」と告げる人は、「あなたにはできるだけ幸福であって欲しいの」と言っているように自分では思うでしょうけれど、その人は、「幸福に生きることを選んだがゆえに社会的に弾圧されて、結果として長生きできなかった人たち」がこの世にたくさんいたことを、どれくらい真剣に考えてみたことがあるでしょうか?

 

外から与えられる「楽」で「安全」な道に馴染んでいくことによって、その人は段々「真剣に生きる」ということが不可能になっていきます。というのも、そこにおいて「生」は既に厳重に守られ、先々まで保障されており、「自分の力をありったけ目覚めさせて、精一杯闘う」という必要が、もう本人にはなくなってしまっているからです。

そして、「『ありのままの自分』を受け容れて、もっと楽になりましょう」という言説に私が違和感を抱くのは、「ありのままの自分」にくつろぐために、人は必ず一度は真剣に闘う必要があると私が思っているからです。

 

周囲が無理やり押しつけてくる価値観や行動様式に対して、「命令に従ってばかりいたくない!自分はこれがしたいんだ!」と全身全霊で叫び、決然と「闘い」の中へと身を置くとき初めて、その人は「自分自身」を獲得します。

もちろん、結果として負けることもありますが、その敗北には、「楽」で「安全」なままいつまでも「長生き」していたら決して体験できなかったであろう「独特の味わい」がある。

そして、自分の苦闘を通じて学ぶとき、人は「『本当の失敗』とは何かに敗れることではなく、自分の寿命が尽きるその日まで『生きている振り』を知らずに続けてしまうことだ」と悟ります。

「生きている振り」だけでは、人は「生きている実感」を得ることができません。たとえ社会的に成功しても、それが「生きている振り」の日々であったなら、その人は自分の命が尽きるまさにその日に、「自分の人生は全く無駄に失われてしまった」ということを痛感することになるでしょう。

 

「『ありのままの自分』を受け容れる」と言うとき、そのように言う人々のほとんどは「適応する」ということを、人間が進むべき方向性として念頭に置いているように、私は感じます。

社会に「適応」して、大きな問題を起こさず安全無事に生涯を終える、それが「本当の意味で成熟した者」の人生だ、と少なからぬ大人たちが思っています。だから、大部分の親たちも、問題を起こさず周囲と上手くやることが「大人になること」だと、我が子に言って聞かせている。

 

ですが、彼らが語る「適応」とは、私からしたら「麻痺」と「隷属」の言い換えに過ぎません。

というのも、人は自分の思考と感覚を麻痺させなければ、いつまでも他人の言うことに黙々と従っていることなんてできないし、自分の本質をどうにかして歪めなければ、周囲の期待に応え続けるというような芸当も不可能だと、私には思えるからです。

 

「『ありのままの自分』を受け容れる」という地点に本当の意味で到達するためには、いま一度「自分」というものを獲得しなければなりません。そして、それは「自分で感じ、自分で考え、自分自身で判断する」といった「主体的な在り方」を取り戻すことを意味しています。 

このような「主体的な在り方」は、世の大人達が子どもや若者達に向かって大いに求めているはずのものなのですが、しかし、大人の支配下にある子どもや若者達が次々に「主体的」になっていき、その結果として自分たちに対して「反抗」を起こす可能性があることを、大人の側は内心では非常に警戒しています。彼らはまだそのリスクを取る用意ができていないのです。

 

しかし、「反抗」の可能性を全く摘み取られてしまった果ての「自己受容」などというものは、結局のところ、人の言うことに盲目的に従うだけの「気骨を失った人間」を作り出すことにしか結びつかないのではないでしょうか?

「『ありのままの自分』を受け容れて、楽になりましょう」といった類いの言説に私が違和感を抱くのは、それが「『ありのままの自分』を受け容れる」という表向きの言葉遣いとは裏腹に、「もっと『自分で感じ、考え、判断すること』を放棄して、社会の要求に『適応』しましょう」と言っているように聞こえるからです。

でも、そんなことをしたら、「自分らしく生きたい!」という個人個人の欲求は、すっかりスポイルされてしまいますし、そのような仕方で育った人々は、たとえ「不当な暴力」に遭遇しても、正当に声を上げるということができなくなってしまうのではないでしょうか?

少なくとも私はそれを、「人間のあるべき成熟の方向性」として考えたくはありません。

 

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