「良心」について

人間の「良心」とはいったい何でしょうか?

 

「そんな曖昧模糊としたもの、観念としてしか存在しないのだから、考えようとするだけ時間の無駄だ」と言われるかもしれませんけれど、「時間が無駄になる」ことくらい、私にとってはどうということもありません。逆に「時間を無駄にしたくないから」と言って、考えることを棚上げしたままになっていると、いつか本当にそれを問わざるを得なくなったときに、「手も足も出なくて絶句する」ということになりそうに思うのですが、どうでしょうか?

 

「考える」ということについて、多くの人はとかく手間を省きたがるもので、そういう人たちは「そんなこと考えていったい何になるの?」と問います。でも、別に「何かのためになる」から人間は考えるわけではありません。ただ、どうしても真剣に考えずにはいられなくて、他人から「ちゃんと考えろ」と言われたわけでもないのに考え続けてしまう「変な人」が、この世の中には昔も今も一定数ずっと存在し続けているというだけのことなのです。

彼ら「考える人」たちは、「効率よく考えよう」なんてことは全く考えていません。ただ、或るテーマなり具体的な問いなりが自然と自分の中に浮かんできたとき、彼らはそれと一種の「婚姻関係」を結ぶのです。

 

人は別に、結婚したほうが効率的で得だから「結婚しよう」と決意するわけでは必ずしもありません。

もちろん、そういった「合理的な理由」で結婚という制度を利用する人たちが現実にいることは私も知っています。ただ、「効率的」でもなければ大して「得」でもないのに、結婚に向かって進んでいこうとする人たちも一定数以上必ずいるのです。

ある人と一緒に暮らして家族になっていく過程で、むしろそれまで考えたこともなかった色んな問題や困難が新たに発生することがあります。それにもかかわらず「結婚に踏み切ろう」と人が思うのは、そういった問題や困難に直面する度にそれら一つ一つと誠実に向き合って乗り越えていくことによって、次第に自分の「愛」が純化していき人間としてもっと成長できるという可能性を、結婚を望む当人が無意識に予感しているからではないでしょうか?

つまり、手間暇をかけて「愛」を地道に育てていくことによって、その人は社会的には別に成功しないかもしれませんが、内面においては「大いなる成功」を遂げる可能性があるということです。

 

しかし、こういった態度とは反対に、「手間を省いて効率的に考える」ということにもっぱら興味のある人は、「考えた成果」をなるべく早く手にして、それを社会の中で「換金」したいと欲望しています。

彼らにとって真に興味があるのは、「世間で認められること」や「他人から『知的な人だ』と思われること」であって、決して「考えることそのもの」に興味があるわけではない。だから、どうしても手間を省きたくなるのです。彼らにとって、「考えている時間」は短ければ短いほどよい。その上で、「こんなにもたくさんのことを深く考えたのだ」という「外見的な印象」をより強くできるならなお良いということになる。

このように「換金目的で考える人」は、本当に深く考えた結果として「何が何だかわからなくなる地点」に導かれてしまうなどということは御免こうむります。というのも、「よくよく考えた結果、何が何だかわらなくなりました」といったような言明は、世間から「はあ、そうですか…」というような「一文にもならない反応」しか引き出せないからです。こうなると、「手早い換金」を欲して考えている人達にとっては、むしろ考えれば考えるほど「何にもならん」ということになってしまうでしょう。

 

「考えれば考えるほどわけがわからなくなる」という経験(これは物事を深く考えれば考えるほど避けることのできないものですが)を重ねていくことによって、その人は次第に自分の洞察力が深まり、知性が鋭さを増していくのを実感するようになります。

彼/彼女は、世間的に名の知られた名士たちに比べて、「従うべき信条」や「振りかざすべき大義」を多くは持っていません。彼ら「考える人」の内なる信条は、極めてシンプルです。それは、「実際には自分は何もわかっていない」ということをよくわかっていない知識人達が、非常に多くの信条を他人の上に振りかざそうとする姿と好対照を成しています。

「考える人」は、世間の人々が頭から信じ込んでいる価値観などは大して信じていませんが、自分自身で深く物事を疑い、日々の生活の中であらゆる事象をその懐疑的な視点から観察した結果辿り着いた「自分の結論」に対しては、大きな確信を持っています。そして、そのはっきりとした確信が彼/彼女を内的に支え、世間が押しつけてくる無数の思い込みから本人が独立することができるように助けるのです。

 

人間の「良心」というものは、「汝、『善い』と思ったことを為し、『悪い』と思ったことを為すべからず」と私たちに告げています。そして、何を「善い」と思い、何を「悪い」と思うかにこそ、その人の人品骨柄がまざまざと表れていると私は思います。

「まず金がなければ始まらないだろう」という風に考える人は、「金を集めること」を「善いこと」だと思っており、「何よりも食っていかなきゃならないじゃないか」と言い募る人は、「食うこと」を「善いこと」だと思っています。

そして、そういう人たちの生き方は、まさに「金」のために生き、「食う」ために生きるといった様相を呈します。彼らの中では、「生きる」ために稼ぎ、「生きる」ために食うというような優先順位になっていないのです。だから時として、必要以上に金を稼いで誰にも譲らずに貯め込んだりとか、生命活動を維持するために必要な以上の豪奢な食べ物を次々に胃の中に送り込んでかえって身体を壊していたりすることがあります。

そのように、金をもっとたくさん集めようとするばかりの生き方や、生きるために必要な以上の食物を身体にどんどん詰め込もうとする姿を前にして、周りの人々はそこに彼らの心の「卑しさ」を見ます。

しかし、それこそが彼らの「良心」が彼らに命じていることなのです。内なる「良心」の発する声が、その人の人品骨柄をよく表していると私が思うのもこのためです。品性が「卑しい」人というのは、その「良心」もまた「卑しい」と私は見ます。

そして、恐るべきことに、こういった「卑しさ」というものは、それを他人から隠そうとして本人が四苦八苦すればするほど、よりはっきりと他人から見通されてしまうものなのです。

 

それはそれとしても、どうして私たちはこういった「卑しさ」を他人から隠そうとするのでしょうか?

それじゃあ、まるで「卑しいこと」が本当は「悪いこと」なのだと、その人が知っているみたいに見えます。

 

おそらく、私たちの「良心」は「『卑しいこと』は『悪いこと』だ」と本当は知っているのです。そうでなければ、誰もそれを隠そうとなんてしないはずですから。

でも、それなら「本当は自分でも『悪い』と思っていること」を、どうしてその人は止められないのでしょうか?

 

「何が『善いこと』で、何が『悪いこと』か」ということを、私たちの「良心」は既に知っているわけですが、それに本人がどこまで自覚的であるかということについては、個人差がかなりあるように思います。というのも、天が自分に与えたこの「良心」という不思議なものが語る声に、私たちは大人になっていく過程で多かれ少なかれ鈍感になっていくからです。

「『卑しいこと』は『悪いこと』だ」とは、本当は誰もが生まれながらに知っている。だからこそ、「卑しいこと」をしている時には、誰もが心の内に羞恥を感じることになるわけですが、何年、何十年と社会生活を送っていく中で、「そうは言ったって、生きるためには『卑しいこと』もある程度は必要だ。この世は『高潔』に生きていくためには、いささか地獄に似過ぎているから」と感じることが誰しも増えていくものです。

そして、あまりにも多くの人たちが「『高潔』に生きてそれでいったいどんな『イイこと』があるというのか?」と問うことを、もはやまったく恥ずかしいとも思わなくなってしまっているとするならば、そんな「卑しい社会」に新たに生まれてくる人々の心が、次第に「卑しい」ものになっていってしまうのも致し方ないのかもしれません。

 

でも、社会が「卑しくなった」のは、社会制度そのものに問題があったからではなく、その社会で生きる私達一人一人の心が「卑しくなってしまった」からだという「事の順序」については、覚えておく必要があると思います。

そうでなれければ、「このような『卑しい社会』では、誰もが『卑しく』生きるしかない」というペシミズムに対抗することができなくなってしまいますから。

現状として「卑しい」社会を、少しでもより良くしようと思うなら、社会制度だけをいくらいじってみたところで限界があります。結局は、社会に生きる一人一人の心が「卑しさ」から脱することによってしか、社会の「卑しさ」は救うことができない。

私にはどうもそのように思われます。

 

「卑しい」社会を本気で変えたいと思うなら、一見すると遠回りに思えても、やはりそこに住む「人間の心」を変えるしかありません。

そして、誰にとっても「一番身近な心」というのは、「自分の心」であるはずです。

「社会を正す第一歩は、自分の心を正すことだ」と言ったりしたら、偏見で頭がいっぱいになった大人達はきっとみんな嗤うことでしょう。

でも、そういう人たちが「嗤うのは恥ずかしいことだからもう止めよう」と自分自身で自然と思うようになる日がやってくるとしたら、それはその社会に住む人々の心が「卑しくなくなる」ことによってしかありえないと私は思います。

 

それゆえ、真に深く考える人は、他人を変える前にまず自分自身を変えることを優先します。

自分自身が変わることによって、自分の周りにいる他の人たちも多かれ少なかれ影響を受けて変わっていくことになると、その人は知っているからです。

そして、そのようなゆるやか「変化の輪」が、いつの日か社会全体に広がったとき、その社会は本当の意味で「卑しいもの」であることをやめるのです。

 

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